"川端 康成(かわばた やすなり、1899年〈明治32年〉6月14日 - 1972年〈昭和47年〉4月16日)は、日本の小説家・文芸評論家。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。1968年に日本人初のノーベル文学賞を受賞した。位階・勲等は正三位・勲一等。大正から昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学を代表する作家の一人である。
代表作は、『伊豆の踊子』『浅草紅団』『抒情歌』『禽獣』『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『古都』など。
ノーベル文学賞をはじめ、多くの文学賞を受賞し、日本ペンクラブや国際ペンクラブ大会で尽力したが、多忙の中、1972年(昭和47年)4月16日夜、72歳でガス自殺した。なお、遺書はなかった。
大阪府出身。東京帝国大学国文学科卒業。大学時代に菊池寛に認められ文芸時評などで頭角を現した後、横光利一らと共に同人誌『文藝時代』を創刊。西欧の前衛文学を取り入れた新しい感覚の文学を志し「新感覚派」の作家として注目され、詩的、抒情的作品、浅草物、心霊・神秘的作品、少女小説など様々な手法や作風の変遷を見せて「奇術師」の異名を持った。
その後は、死や流転のうちに「日本の美」を表現した作品、連歌と前衛が融合した作品など、伝統美、魔界、幽玄、妖美な世界観を確立させ、人間の醜や悪も、非情や孤独も絶望も認識した上で、美や愛への転換を探求した数々の日本文学史に残る作品を描き、近代日本文学の代表者としての地位を築いた。日本人として初のノーベル文学賞も受賞し、受賞講演で日本人の死生観や美意識を世界に紹介した。
初期の小説や自伝的作品は、川端本人が登場人物や事物などについて、随想でやや饒舌に記述している。そのため、多少の脚色はあるものの、純然たる創作(架空のできごと)というより実体験を元にした作品として具体的実名や背景が判明し、研究・追跡調査されている。
川端は新人発掘の名人と称されたことでも知られ、ハンセン病の青年・北條民雄の作品を世に送り出し、佐左木俊郎、武田麟太郎、藤沢桓夫、少年少女の文章、山川彌千枝、豊田正子、岡本かの子、中里恒子、三島由紀夫などを後援し、数多くの新しい才能を育て自立に導いたことも特記できる。また、その鋭い審美眼で数々の茶器や陶器、仏像や埴輪、俳画や日本画などの古美術品の蒐集家としても有名で、そのコレクションは美術的価値が高い。
幼い頃の康成には一種の予知能力のようなものがあり、探し物の在り処や明日の来客を言い当てたり、天気予報ができたりと小さな予言をし、便利がられ、「神童」と呼ばれることもあった。また、康成は父親の虚弱体質を受け継いだ上、月足らずで生れたため、生育の見込みがないほど病弱で食が細く、祖母に大事に〈真綿にくるむやう〉に育てられていた。
1906年(明治39年)4月、三島郡豊川尋常高等小学校(現・茨木市立豊川小学校)に入学した康成は、入学式の時は、〈世のなかにはこんなに多くの人がゐるのかとおどろき〉、慄きと恐怖のあまり泣いた。
康成は学校を休みがちで、1年生の時は69日欠席し(258日のうち)、しばらくは近所の百姓女の田中みとが授業中も教室まで付き添っていた。小学校時代の旧友によると、康成の成績はよく、作文が得意で群を抜いていたという。小学校に上がる前から祖母に、〈うんと醤油をふくませたかつを節を入れて巻いた、からい海苔巻〉を食べさせてもらいながら、〈いろは〉を習っていたため、〈学校で教はることは、ほとんどみなもう知つてゐて、学校がつまらなかつた。小学校に入る前から、私はやさしい読み書きはできた〉と川端は当時を述懐している。なお、笹川良一とは小学の同級生であった。祖父同士が囲碁仲間で、笹川の父・鶴吉も、易学に凝っていた三八郎から私生活万端にわたって指示を受けていたという。
しかし、小学校に入学した年の9月9日に優しかった祖母・カネが死去し(66歳没)、祖父との2人暮らしとなった。別居していた姉・芳子も翌1909年(明治42年)7月21日、誕生日前に13歳で夭折した。川端にとって〈都合二度〉しか会ったことのない姉の姿は、祖母の葬儀の時のおぼろげな一つの記憶しかないという。熱病に倒れた芳子の危篤を知った祖父は悲しみ、目が悪いながらも孫の身を易で占った。10歳の康成は姉の訃報をしばらく祖父に隠しておいてから、決心して読んで聞かせた。これまでも何人もの子供を早くに亡くし、孫にも先立たれた祖父を康成は憐れむ。女手がなくなった家に何かと手伝いにくる人への好意に涙脆く有難がる祖父が、康成にとっての〈ただ一人の肉親〉となった。
小学校5、6年になると、欠席もほとんどなくなり、成績は全部「甲」であった。康成は絵が得意であったため、文人画をたしなんでいた祖父の勧めで画家になろうと思ったこともあったが、上級生になると書物を濫読することに関心が向き、小学校の図書館の本は一冊もらさず読んでしまった。康成は毎日のように庭の木斛の木に登り、〈楽々と仕事をする植木屋のやうに〉樹上に跨って本を読み、講談や戦記物、史伝をはじめ、立川文庫の冒険小説家・押川春浪に親しんだ。
1912年(明治45年・大正元年)、尋常小学校を卒業した康成は、親戚の川端松太郎を身許保証人として、4月に大阪府立茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)に首席で入学し「甲組」となった。茨木中学校は質実剛健の校風で体操や教練に厳しく、マラソンも盛んで、生徒の勤労奉仕で水泳プールが作られ、オリンピック選手も輩出していた。登校後は教室でも運動場でも裸足となり、寒中だけ地下足袋が許されていた。康成は学校まで約一里半(約6キロメートル)の道を毎日徒歩通学し、虚弱体質が改善され、1年の時は「精勤賞」をもらった。
しかし夜になると家にいる寂しさに耐えられず、康成は祖父を一人残して毎日のように、〈二組も兄弟もそろつてゐる〉友人(宮脇秀一、憲一の兄弟)の家に遊びに行き、温かい家庭の団欒に交ぜてもらっていた。そして家に戻ると祖父を独りきりにしたことを詫びる気持ちでいつもいっぱいになった。この当時の手記には、〈父母なく兄弟なき余は万人の愛より尚厚き祖父の愛とこの一家の人々の愛とに生くるなり〉と記されている。
康成は中学2年頃から作家になることを志し、『新潮』『新小説』『文章世界』『中央公論』など文芸雑誌を読み始めた。亡き父・栄吉の号に拠って、『第一谷堂集』『第二谷堂集』と題して新体詩や作文を纏めてみることもあった。学内では、欠田寛治、清水正光、正野勇次郎などの文学仲間とも知り合った。祖父からも作家になることを許された康成は、田舎町の本屋・乕谷誠々堂に来る目ぼしい文学書はほとんど買っていた。〈本代がたまつて祖父と共に苦しんだ。祖父が死んだ後の借金には、中学生としては法外な私の本代もあつた〉と川端は述懐している。そのため秋岡家から仕送りの月々23円では不足で、毎日おかずは汁物と梅干ばかりであった。徐々に文学の世界に向き始めた康成は、学校での勉学が二の次となり宿題の提出などを怠ったため、作文の成績が53点で全生徒88名中の86番目の成績に下がったとされる。
中学3年となった1914年(大正3年)5月25日未明(午前2時)、寝たきりとなっていた祖父・三八郎(この年に「康壽」と改名)が死去した(73歳没)。祖父は家相学や漢方薬の研究をしていたが、それを世に広めるという志は叶わなかった。この時の病床の祖父を記録した日記は、のちに『十六歳の日記』として発表される。川端は、人の顔をじろじろと見つめる自分の癖は、白内障で盲目となった祖父と何年も暮していたことから生まれたかもしれないとしている。祖父の葬列が村を行く時、小さな村中の女たちは、孤児となった康成を憐れんで大きな声を上げ泣いたが、悲しみに張りつめていた康成は、自分の弱い姿を見せまいとした。祖父の骨揚げの日のことを康成は、以下のように綴っている。
川端はその頃の自身について、〈幼少の頃から周囲の人々の同情が無理にも私を哀れなものに仕立てようとした。私の心の半ばは人々の心の恵みを素直に受け、半ばは傲然と反撥した〉と語っている。他人の世話で生きなければならない身となり、康成の中で〈孤児根性、下宿人根性、被恩恵者根性〉が強まった。遠慮しがちで、面と向って明るく感謝を表現できなかった当時のことを川端は、〈恥づかしい秘密のやうなことであるが、天涯孤独の少年の私は寝る前に床の上で、瞑目合掌しては、私に恩愛を与へてくれた人に、心をこらしたものであつた〉と語っている。また自身の出自(生命力の脆弱な家系)と自身の宿命について以下のように語っている。
1915年(大正4年)3月から、中学校の寄宿舎に入り、そこで生活を始めた康成は、寄宿舎の机の上には、美男子であった亡父・栄吉の写真の中でも最も美しい一枚を飾っていた。2級下の下級生には大宅壮一や小方庸正が在学していた。大宅と康成は、当時言葉を交わしたことはなかったが、大宅は『中学世界』や『少年世界』などの雑誌の有名投書家として少年たちの間でスターのような存在であったという。康成は、武者小路実篤などの白樺派や、上司小剣、江馬修、堀越亨生、谷崎潤一郎、野上彌生子、徳田秋声、ドストエフスキー、チェーホフ、『源氏物語』、『枕草子』などに親しみ、長田幹彦の描く祇園や鴨川の花柳文学にかぶれ、時々、一人で京都へ行き、夜遅くまで散策することもあった。
同級生の清水正光の作品が、地元の週刊新聞社『京阪新報』に載ったことから、〈自分の書いたものを活字にしてみたいといふ欲望〉が大きく芽生え出した康成は、『文章世界』などに短歌を投稿するようになったが、落選ばかりでほとんど反応は無く、失意や絶望を感じた。この頃の日記には、〈英語ノ勉強も大分乱れ足になつてきた。こんなことではならぬ。俺はどんな事があらうとも英仏露独位の各語に通じ自由に小説など外国語で書いてやらうと思つてゐるのだから、そしておれは今でもノベル賞を思はぬまでもない〉と強い決意を記している。
意を決し、1916年(大正5年)2月18日に『京阪新報』を訪ねた康成は、親切な小林という若い文学青年記者と会い、小作品「H中尉に」や短編小説、短歌を掲載してもらえるようになった。4月には、寄宿舎の室長となった。この寄宿舎生活で康成は、同室の下級生(2年生)の清野(実名は小笠原義人)に無垢な愛情を寄せられ、寝床で互いに抱擁し合って眠るなどの同性愛的な恋慕を抱き(肉体関係はない)、〈小笠原はこんな女を妻にしてもよからうと思ふ位柔和な本当に純な少年だ〉と日記に綴っている。
川端は、〈受験生時分にはまだ少女よりも少年に誘惑を覚えるところもあつた〉と述懐している。小笠原義人とはその後、康成が中学卒業して上京してからも文通し、一高と帝国大学入学後も小笠原の実家を訪ねている。康成は、〈お前の指を、手を、腕を、胸を、頬を、瞼を、舌を、歯を、脚を愛着した〉と、小笠原に送ろうとしてとどまった手紙の後半で綴っている(この後半部分の手紙は、一高の授業で作文として提出した)。小笠原義人との体験で康成は、〈生れて初めて感じるやうな安らぎ〉を味わい、〈孤児の感情〉の虜になっていた自分に、〈染着してゐたものから逃れようと志す道の明り〉を点じた。川端は、清野(小笠原義人)との関係について、〈それは私が人生で出会つた最初の愛〉、〈初恋〉だとし、以下のように語っている。
この年の9月には、康成と同じ歳の中条百合子が坪内逍遥の推薦で『中央公論』に処女作を発表し、〈田舎者の私〉である康成を驚かせ、次第に康成の内に、中央文壇との繋がりを作りたいという気持ちが動き出していた頃であった。また同年には、康成の作家志望を応援していた母方の従兄・秋岡義愛の紹介で、義愛の友人であった『三田文学』の新進作家の南部修太郎と文通が始まった。なお、この年の秋には、祖父と暮らした豊川村大字宿久庄の家屋敷が、分家筋の川端岩次郎(川端松太郎の妹の婿)に売られた。
1922年(大正11年)、加藤武雄の好意で『文章倶楽部』1月号・2月号にチェーホフなどの小品翻訳を発表し、同月の『時事新報』には佐佐木茂索の好意により「今月の創作界」を寄稿できた川端は、先ず文芸批評家として文壇に登場した。これがきっかけで以後長年、各誌に文芸批評を書き続けることになる。
6月に英文学科から国文学科へ移籍した。これは、英文科は出席率がやかましかったためと、講義にほとんど出ない川端は試験も受けなかったため、英文科で単位を取れずに転科を決めた。大学に〈一年よけい〉に行くことになった川端は、もっぱら文学活動に専念した。
また、この年の夏には、失恋の痛手を癒すために再び伊豆に赴き、湯ヶ島湯本館で、草稿『湯ヶ島での思ひ出』を原稿用紙107枚執筆し、自分を拒み通した伊藤初代とは違い、無垢に好意を寄せてくれた伊豆の踊子や小笠原義人の思い出を綴った。
1923年(大正12年)1月に菊池寛が創刊した『文藝春秋』に「林金花の憂鬱」を発表した川端は同誌の編集同人となり、第2号から編集に携わった。横光利一や佐々木味津三と共に、『新思潮』同人も『文藝春秋』同人に加わった。5月には、〈葬式の名人〉と従兄にからかわれた時に感じた〈身に負うてゐる寂しさ〉を綴った自伝作品「会葬の名人」(のちに「葬式の名人」と改題)を同誌に発表。7月には、伊藤初代との一件を描いた「南方の火」を『新思潮』(8月号)に発表した。また、この年に犬養健の作品を創作評で取り上げ、それ以降、「篝火」の感想や「来訪を待つ」などの書簡をもらう仲となり、犬養は横光利一とも交流する。
9月1日に、本郷区駒込千駄木町38(現・文京区千駄木1-22)の下宿で関東大震災に遭った川端は、とっさに伊藤初代のことを思い、幾万の避難民の中に彼女を捜し、水とビスケットを携帯して何日も歩いた。今東光と共に芥川龍之介も見舞い、3人で被災した町を廻った。川端らは吉原界隈では、火に焼かれ池に飛び込んだ大勢の娼婦たちの凄惨な〈その最も醜い死〉の姿に衝撃を受けた。
川端は他にも浅草の死体収容所などでも〈幾百幾千或は幾万〉もの死体を見たが、その中でも〈最も心を刺されたのは、出産と同時に死んだ母子の死体であつた〉とし、〈母が死んで子供だけが生きて生れる。人に救はれる。美しく健かに生長す。そして、私は死体の臭気のなかを歩きながらその子が恋をすることを考へた〉と綴った。
震災後は、川端は以前にも増して〈新しい文藝〉への意欲が高まり、〈新進作家の作品は、科学者の詩ではなく、若い娘の踊でなければならぬ。またこの魔は生娘が好きだ〉と論じている。
1929年(昭和4年)4月に岡田三郎らの『近代生活』が創刊され、同人に迎えられた。9月17日には浅草公園近くの下谷区上野桜木町44番地(現・台東区上野桜木2丁目20)に転居し、再び学生時代のように浅草界隈を散策した。この頃から何種類もの多くの小鳥や犬を飼い始めた。こうした動物との生活からのちに『禽獣』が生れる。この頃、秀子の家族(妹・君子、母親、弟・喜八郎)とも同居していた。浅草では7月にレビュー劇場・カジノ・フォーリーが旗揚げされていた。川端は、第2次カジノ・フォーリー(10月に再出発)の文芸部員となり、踊子たちと知り合った。踊子たちは「川端さんのお兄さん」と呼んでいたという。10月に「温泉宿」を『改造』に発表。12月からは、「浅草紅団」を『東京朝日新聞』に連載開始し、これにより浅草ブームが起きた。
また、この頃川端は、〈文壇を跳梁する〉左翼文学の嵐の圧力に純文学が凌駕されている風潮に苦言を呈し始め、「政治上の左翼」と「文学上の左翼」とが混同され過ぎているという堀辰雄の言葉(『文學』発刊の趣意。読売新聞紙上)に触発され、〈今日の左翼作家は、文学上では甚だしい右翼〉だと断じ、その〈退歩を久しい間甘んじて堪へ忍んで来た〉が、〈この頃やうやく厭気が〉がさしてきたと述べ、〈われわれはわれわれの仕事、「文学上の左翼」にのみ、目を転じるべき時であらう〉と10月に表明した。
同じ10月には、堀辰雄、深田久弥、永井龍男、吉村鉄太郎らが創刊した同人誌『文學』に、横光利一、犬養健と共に同人となった。『文學』は、季刊誌『詩と詩論』などと共に、ヴァレリー、ジイド、ジョイス、プルーストなど新心理主義の西欧20世紀文学を積極的に紹介した雑誌で、芸術派の作家たちに強い刺激を与え、堀辰雄の『聖家族』、横光利一の『機械』などが生れるのも翌年である。
1930年(昭和5年)、前年12月に結成された中村武羅夫、尾崎士郎、龍膽寺雄らの「十三人倶楽部」の会合に川端は月一度参加し始めた。「十三人倶楽部」は自ら「芸術派の十字軍」と名のり、文芸を政治的強権の下に置こうとするマルキシズム文芸に飽き足らない作家たちの団体であった。新興芸術派の新人との交遊もあり、川端は〈なんとなく楽しい会合だつた〉と語っている。また同年には、菊池寛の文化学院文学部長就任となり、川端も講師として週一回出講し、日大の講師もした。2月頃には、前年暮に泥棒に入られた家から、上野桜木町49番地へ転居した。この頃は次第に昭和恐慌が広がり、社会不安が高まりつつある時代であった。11月には、ジョイスの影響を反映させ、新心理主義「意識の流れ」の手法を取り入れた「針と硝子と霧」を『文學時代』に発表した。
続いて翌1931年(昭和6年)1月と7月に、同手法の「水晶幻想」を『改造』に発表した。時間や空間を限定しない多元的な表現が駆使されている「水晶幻想」は、これまで様々な実験を試みてきた川端の一つの到達点ともいえる作品となっている。4月から、書生の緑川貢を置くために、同じ上野桜木町36番地の少し広い家に転居した。10月には、カジノ・フォーリーのスターであった踊子・梅園龍子を引き抜いて、洋舞(バレエ)、英会話、音楽を習わせた。梅園を育てるため、この頃から西欧風の舞踊などを多く見て、〈そのつまらなさのゆゑに〉意地になってますます見歩くようになるが、そのバレエ鑑賞が、その後の『雪国』の島村の人物設定や、『舞姫』などに投影されることになる。この年の6月には、画家・古賀春江と知り合った。12月2日には妻・秀子との婚姻届を出した。
1932年(昭和7年)2月に、過去の失恋の痛手を題材とした心霊的な作品「抒情歌」を『中央公論』に発表した。3月初旬、伊藤初代(再婚名・桜井初代)が川端宅を訪れた。約10年ぶりの再会であった。初代は浅草のカフェ・アメリカの支配人・中林忠蔵と1922年(大正11年)に結婚して関東大震災後に仙台市に移住し、中林は高級レストラン「カルトン」の支配人をしていたが、中林と5年前に死別し、再婚相手・桜井との間に儲けた次男(1歳に満たない赤ん坊)がいた(長男は夭折)。家庭生活が思わしくなく、有名になった川端を頼ってきた初代は、中林との間の長女・珠江(9歳)を養女に貰ってほしいと言った。その申し出を断わられた初代はその後二度と訪れることはなかった。この時の体験もその後に種々の作品(『姉の和解』、『母の初恋』)の題材となる。同月24日には親しかった梶井基次郎が死去した(31歳没)。9月から「化粧と口笛」を『朝日新聞』に連載開始する。同年には、梅園龍子の本格的な舞踊活動(パイオニア・クインテット)が行われた。
1933年(昭和8年)2月に『伊豆の踊子』が初めて映画化された(監督・五所平之助)。同月には小林多喜二が殺されて、プロレタリア文学は実質上壊滅する。そして川端は7月に、愛玩動物を多く飼育する虚無的な独身男を主人公にした「禽獣」を『改造』に発表した。この時の編集者は徳廣巌城(上林暁)であった。この作品は、「昭和前期文学の珠玉」と賞讃され、川端が「もつとも知的なものに接近した極限の作品」と位置づけられ、川端の一つの分岐点にある作品だとされている。川端の抒情と非情の眼が描かれた「禽獣」をはじめ、この頃から翌年にかけての作品が最も虚無的傾向が深かった。
それと同時に少女小説を書くことも増え、同月には「夏の宿」を『少女倶楽部』に発表した。この夏は房州の上総興津(現・千葉県勝浦市)で過ごした。9月10日に親しかった画家・古賀春江が死去した(38歳没)。10月には、小林秀雄、林房雄、武田麟太郎、深田久彌、宇野浩二、広津和郎、豊島与志雄らと文芸復興を目指した雑誌『文學界』創刊の同人となった。『文學界』にはその後、横光利一、藤沢桓夫、里見弴らも加わった。世の暗い風潮と大衆文学の氾濫の中で、川端は純文学の自由と権威を擁護する立場をとり、それを発展させることに参加した。
11月は、結びでの悪魔との問答に、〈おれは小説家といふ無期懲役人だ〉という一句が出てくる「散りぬるを」を『改造』に発表、12月には、古賀春江の死に際し執筆した随筆「末期の眼」を『文藝』に発表した。芥川龍之介の遺書に書かれていた〈末期の眼〉という、たえず死を念頭に置くことにより純化・透明化する感覚意識で自然の諸相を捉えて、美を見出そうとする認識方法が、川端の作品の主題の要となっていった時期であった。また、川端は「奇術師」と呼ばれたことについて、〈私は人を化かさうがために、「奇術」を弄んでゐるわけではない。胸の嘆きとか弱く戦つてゐる現れに過ぎぬ。人がなんと名づけようと知つたことではない〉と「末期の眼」で書いた。12月21日には、親しかった池谷信三郎が死去した(33歳没)。この年から川端は、岡本かの子から小説指導を依頼され、どこの雑誌でも歓迎されなかった彼女の原稿に丁寧に目を通して励まし続けた。
1934年(昭和9年)1月に、「文藝懇話会」が結成されて、島崎藤村、徳田秋声、正宗白鳥、横光利一が名を連ね、川端も会員となった。しかし会に出席してみると、元警保局長・松本学主宰で作られたもので、〈謙虚に辞退すべきであつた〉とも川端は思うが、〈私は風の来るにつれ、水の流すに従ひながら、自分も風であり、水であつた〉としている。そういった思いや、菊池寛や横光利一との出会いのエピソードなどを綴った随筆「文学的自叙伝」を5月に『新潮』に発表した。6月には初めて新潟県の越後湯沢(南魚沼郡湯沢町)に旅した。その後も再訪して高半旅館の19歳の芸者・松栄(本名・小高キク)に会った。これをきっかけに、のちに『雪国』となる連作の執筆に取りかかった。最初の越後行きから帰京後、下谷区谷中坂町79番地(現・台東区谷中)に転居した。
8月に癩病(ハンセン病)の文学青年・北條民雄(本名:七條晃司)から手紙や原稿を受け取り、以後文通が始まった。この当時、川端の文芸時評で認められることは、「勲章」を貰うようなものであったという。川端は新人の文章に触れることについて以下のように語っている。
1935年(昭和10年)1月、「夕景色の鏡」を『文藝春秋』に発表、「白い朝の鏡」を『改造』に発表し、のちに『雪国』となる連作の各誌への断続的掲載が開始された。同月には、芥川賞・直木賞が創設され、横光利一と共に芥川賞の銓衡委員となった。第1回芥川賞の川端の選評をめぐり、賞をほしがっていたが外れた太宰治との間で一騒動があった。6月から8月には発熱などで体調を崩し慶応病院に入院した。入院中の7月5日に、内務省地階の共済会歯科技工室でアルコール缶爆破事故の火傷を負った歯科医と女助手が担ぎ込まれ、翌日に亡くなった。このことを題材にして、のちに『イタリアの歌』を執筆する。11月、〈秩父號一〉という筆名を付けて、北條民雄の「間木老人」を『文學界』に紹介した。また、この年に横光利一が『純粋小説論』で、純文学について論じ話題となり、その反響を文芸時評で取り上げ、川端も文学者本来の精神に立ち返ることを主張し、12月に「純文藝雑誌帰還説」を『読売新聞』に発表した。同月5日には、林房雄の誘いで、神奈川県鎌倉郡鎌倉町浄明寺宅間ヶ谷(現・鎌倉市浄明寺2丁目8-15、17、18のいずれか)に転居し、林と隣り同士となった。
1936年(昭和11年)1月、『文藝懇話会』が創刊されて同人となった。2月5日に北條民雄が鎌倉を訪れ、初めて面会した。同月には川端の推薦により、「いのちの初夜」と名付けられた北条の作品が『文學界』に掲載され、文壇に衝撃を与えた。川端は、〈文壇や世間の批評を聞くな、読むな、月々の文壇文学など断じて見るな、(中略)常に最高の書に親しめ、それらの書が自ら君を批評してくれる〉と北条を励ました。川端は、佐左木俊郎のように真価を知られること無く死んでゆく無名の作家たちの作品を世に知らせることを、文芸批評家としての一つの使命とし、〈常に批評家によつて軽んじられ通して来た作家の味方〉であった。そのような川端を、「発掘の名人」と呼んだ横光は、2月20日に、新聞の特派員として船で渡欧し、川端はそれを神戸港で見送った。5月には越後湯沢に5度目の旅をし、『雪国』の執筆を続けた。
6月には、岡本かの子の「鶴は病みき」を同誌に紹介した。芥川龍之介をモデルにしたこの作品が岡本の文壇デビュー作となった。同月には、川端が学生時代に初めて知り合った作家・南部修太郎が死去した(43歳没)。8月は、『文學界』の広告スポンサーの明治製菓の内田水中亨の斡旋で、神津牧場見物記を明治製菓の雑誌『スヰート』に書くこととなり、初めて長野県北佐久郡軽井沢町を訪れ、藤屋旅館に滞在した。信州への関心が高まり、その後その地を背景とした作品が書かれる。12月からは、盲目の少女を描いた「女性開眼」を『報知新聞』に連載開始し、「夕映少女」を『333』に発表した。
1937年(昭和12年)5月に鎌倉市二階堂325に転居した(家主は詩人・蒲原有明)。6月に書き下ろし部を加えて連作をまとめ『雪国』を創元社より刊行し、第3回文芸懇話会賞を受賞した(執筆はこの後も断続的継続される)。この賞金で川端は旧軽井沢1307番地の別荘を購入した(翌年、隣地1305番地の土地も購入)。同月には、信州を舞台に戦争の時代を描いた「牧歌」を『婦人公論』に連載開始し、「乙女の港」を『少女の友』に連載開始した。「乙女の港」は、川端に師事していた新人主婦作家の佐藤恒子(中里恒子)を執筆指導しながら合作した作品である。この年の7月に支那事変が起き日中戦争が始まった。11月からは別荘に滞在し、戸隠などに行き、出征する兵士を見送る婦人の描写も含む「高原」を『文藝春秋』に断続的に発表を開始する。
同月18日、この軽井沢の別荘を堀辰雄が郵便局に行った帰りに遊びに寄っている間に、堀の滞在宿の油屋旅館が火事になったため、堀は川端が帰った12月以後そこを借りて、『風立ちぬ』の最終章「死のかげの谷」が書き上げられた。12月5日に北條民雄が死去し(23歳没)、東京府北多摩郡東村山村にあるハンセン病療養施設「全生園」に赴き、北条の遺骸と面会した。のちにこの北条の死を題材にした作品『寒風』が書かれる。また、この年の10月28日には、耕治人から是非読んでもらいたいと原稿が送られてきて、翌年から度々訪問してくるようになる。野々宮写真館の主人からコンタックスを譲られたのも、この年頃で、その後写真をよく撮ることが多くなり、ゴルフも時々やるようになる。
少年少女の文章への親しみ
1938年(昭和13年)4月から『川端康成選集』全9巻が改造社より刊行開始された。これは横光利一の好意で改造社に口添えして実現したものであったという。7月からは、21世本因坊秀哉名人の引退碁の観戦記を『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』に連載した。のちにこの観戦記を元にした小説『名人』の各章が断続的に書かれることになる。この年には、翌年刊行される中央公論社の『模範綴方全集』の選者に、藤田圭雄と共に委託され、多くの小学生、少年少女の文章を翌年にかけて多く読んだ。この時期、豊田正子の『綴方教室』も時評で賞讃した。10月には、「日本文学振興会」「(理事長・菊池寛)の理事に就任した。また、この年に『北條民雄全集』を編集した。
1939年(昭和14年)1月からは、若い女性向け雑誌『新女苑』の投稿欄「コント選評」を始める。2月18日に岡本かの子が死去した(49歳没)。昨年からの少年少女の作品選考をきっかけに、5月、坪田譲治らと「少年文学懇話会」を結成し、小学生の綴方運動に深く関わった。川端は子供の文章について、〈子供の作文を私は殊の外愛読する。一口に言へば、幼児の片言に似た不細工さのうちに、子供の生命を感じるのである〉と述べ、西村アヤの『青い魚』や『山川彌千枝遺稿集』を〈私が常に机辺から離したくない本〉として、〈その幼稚な単純さが、私に与へるものは、実に広大で複雑である。まことに天地の生命に通ずる近道である〉と語り、また、〈すぐれた作家の心には、常に少年が住んでをるべきである〉としている。7月からは、前々年に訪日したヘレン・ケラーに触発されて、三重苦の少女を描いた「美しい旅」を『少女の友』に連載開始した。
1940年(昭和15年)1月に「母の初恋」、「正月三ヶ日」を発表した。同月、「紅葉祭」(尾崎紅葉忌)のために熱海聚楽ホテル滞在。1月16日に熱海のうろこ屋旅館に滞在していた本因坊秀哉名人を訪ね将棋を打って別れた後、本因坊秀哉が体調を崩して急逝。 この死をきっかけに、『名人』が執筆開始されることになる。2月に眼が見えにくくなり、慶応病院に4日間入院した。この時、眼底に過去の結核が治った病痕があり、右眼は網膜の真中なので、視力が損なわれていたことを知る。
5月には、「美しい旅」の取材のため盲学校や聾唖学校を参観した。この時に、橘川ちゑ(秋山ちえ子)という若い女性教師に会い、以後文通をする。10月に「日本文学者会」が設立され、阿部知二、伊藤整らと共に発起人となった。またこの1940年(昭和15年)は、1月から『新女苑』に連載開始した「旅への誘ひ」のために、三島、興津、静岡市と東海道へも旅した。翌年1941年(昭和16年)1月に北條民雄の死を偲んだ「寒風」を『日本評論』に発表した。3月、山口さとのの『わが愛の記』(下半身付随の夫を持つ妻の記録)を「文芸時評」で賞讃した。
1955年(昭和30年)1月から「ある人の生のなかに」を『文藝』に断続的に連載開始。同月には、西川流舞踊劇台本の第二弾「古里の音」を書き下ろし、新橋演舞場で上演された。同月、エドワード・G・サイデンステッカーの英訳で「伊豆の踊子」が『アトランティック・マンスリィ』1月・日本特集号に掲載された。同年6月、ウィーンで行われた国際ペンクラブの大会に北村喜八と芳賀檀が日本代表として参加したが、芳賀の独断で1957年度の大会主催に日本が立候補することになり、開催するかで非常にもめたが、翌1956年(昭和31年)3月の日本ペンクラブ評議員会で、当時日本ペンクラブ会長だった川端が決断し、実際に開催することになった。
1956年(昭和31年)1月から『川端康成選集』全10巻が新潮社より刊行開始された。3月から「女であること」を『朝日新聞』に連載開始した。この年、エドワード・G・サイデンステッカーの英訳で『雪国』がアメリカで出版された(発売は翌年1月)。この『雪国』の英訳は、翻訳の困難な川端の感覚的な描写表現を苦心しながら巧く訳した名訳とされている。
1957年(昭和32年)3月22日に松岡洋子と共に、国際ペンクラブ執行委員会(ロンドンで開催)の出席のため羽田から渡欧した。会の終了後は、東京大会出席要請願いにフランスをはじめ、ヨーロッパ各国を廻り、モーリアック、エリオット、シローネらと会った。5月に帰国したが、その疲労で川端はやつれて、作品執筆がなくなってしまった。4月には『雪国』が映画化された(監督・豊田四郎)。9月2日、日本において第29回国際ペンクラブ東京大会(京都と東京)が開催された。資金集めから人集めの労苦を担った川端は、8日の京都での閉会式まで、主催国の会長として大役を果たした。川端は、東京開催までにこぎつける2年間を、〈この期間は私の生涯で、きはだつて不思議な時間であつた〉と振り返り、〈ロンドンの執行委員会から帰へてのち、私の中には私が消えてゐたらしい。いや、私の中に、別の私が生きてゐたと言つてもいい〉と語った。
1958年(昭和33年)2月、国際ペン執行委員会の満場一致の推薦で、国際ペンクラブ副会長に選出され、3月には、「国際ペン大会日本開催への努力と功績」により、戦後復活第6回(1958年)菊池寛賞を受賞した。6月には視察のため沖縄に赴いた。体調を崩し、8月に胆嚢が腫れていると診断されたが、そのまま放置したため、心配した藤田圭雄らが10月21日に冲中重雄医師に鎌倉まで来てもらい、11月から胆石(胆嚢炎)のため東大病院に入院し、12月には秀子夫人も病気で同入院した。翌1959年(昭和34年)4月に東大病院を退院した後、5月に、西ドイツのフランクフルト市から文化功労者としてゲーテ・メダルを贈られることが決まり、7月に、同市で開催の第30回国際ペンクラブ大会に出席し、メダルを受賞した。11月から第2弾の『川端康成全集』全12巻が新潮社より刊行開始された。この年は永い作家生活の中で、初めて小説の発表が一編もなかった。
1967年(昭和42年)2月28日、三島由紀夫、安部公房、石川淳らと共に帝国ホテルで記者会見し、中国文化大革命は学問芸術の自由を圧殺しているとする抗議声明を出した(声明文の日付は3月1日)。4月には、日本近代文学館が開館され、同館の名誉顧問に就任した。5月から随筆「一草一花」を『風景』に連載開始した。7月に養女・政子が山本香男里と結婚し、山本を入り婿に迎えて川端家を継がせた。川端は政子の縁談話や見合いがあっても脇で黙って何も言わなかったが、いざ結婚が具体化すると、「娘を川端家から出すわけにはいかない」として強い語気で相手方に告げたという。8月に、日本万国博覧会政府出展懇談会委員となった。12月には、政子夫婦の新居を見に北海道札幌に旅行するが帰宅後の11日に政子が初期流産したと聞き、再び札幌へ飛び、政子の無事を確認して帰京した。
ノーベル文学賞受賞の頃
1968年(昭和43年)2月に、「非核武装に関する国会議員達への懇願」に署名した。6月には、日本文化会議に参加した。6月から7月にかけては、参議院選挙に立候補した今東光の選挙事務長を務め、街頭演説も行なった。10月17日、日本人として初のノーベル文学賞受賞が決定した。その後19日に、アルムクイスト・スウェーデン大使が川端宅を訪れ、受賞通知と授賞式招待状を手渡した。受賞理由は、「日本人の心の精髄を、すぐれた感受性をもって表現、世界の人々に深い感銘を与えたため:"for his narrative mastery, which with great sensibility expresses the essence of the Japanese mind."」で[288]、対象作品は『雪国』『千羽鶴』『古都』と、短編『水月』『ほくろの手紙』などであった。1961年(昭和36年)に最初に候補者となってから7年かかっての受賞であり(2012年の情報開示)、1966年(昭和41年)まで毎年候補者となっていたことが、2017年(平成29年)時点の情報開示で明らかになっている。川端は報道陣のインタビューに、〈運がよかった〉とし、〈翻訳者のおかげ〉の他に、〈三島由紀夫君が若すぎるということのおかげです〉と謙遜して答えた。
翌10月18日には、三島由紀夫・伊藤整との座談会「川端康成氏を囲んで」が川端家の庭先で行われ、NHKテレビ、NHKラジオで放送された。寡黙な中にも川端の喜びの表情がほのかに出ていたという。11月8日に、秋の園遊会に招かれて昭和天皇と面談。同月29日には、日本ペンクラブ主催のノーベル賞受賞祝賀会が開かれた。受賞後の随筆では、〈秋の野に鈴鳴らし行く人見えず〉と記し、「野に鈴」の「野」と「鈴」で〈ノオベル〉とかけた〈言葉遊び〉の戯句を作っている。また川端はその後の随筆では、次のようにも記している。
12月3日に羽田を発ち、スウェーデンに向ったが、その日の朝、川端は家を出る間際に急に、「みんな、勝手に行ってらっしゃい。わたしは行きませんよ」と不機嫌になった。周囲の報道陣や祝賀客の騒ぎへの節度の無さに我慢の限界がきた一瞬であったと見られるという。10日、川端康成はストックホルム・コンサートホールで行われたノーベル賞授賞式に紋付き袴の正装で文化勲章を掛けて出席した。翌々日の12日昼2時10分にはスウェーデン・アカデミーにおいて、スーツ姿で受賞記念講演『美しい日本の私―その序説』を日本語で行なった。この講演は、道元、明恵、西行、良寛、一休などの和歌や詩句が引用され、エドワード・G・サイデンステッカーにより同時通訳された。川端は、ルチア祭の翌日13日に疲労で倒れて食事もせず15日の夜まで眠っていたという。帰途に寄ったパリでは、キスリングの『少女』を購入した。同12月には、郷里の茨木市名誉市民となった。なお、川端はこの頃、『源氏物語』の現代語訳の準備を着々と進めていた。
1969年(昭和44年)1月27日に、国会両院でノーベル文学賞受賞感謝決議に出席し、祝意を受け、同月29日には初孫・あかり(女児)が誕生した[32][34]。3月から6月にかけて、日本文学の講演を行なうためにハワイ大学に赴き、5月1日に『美の存在と発見』と題する特別講演を行なった。4月3日には、アメリカ芸術文化アカデミーの名誉会員に選ばれ、6月8日には、ハワイ大学の名誉文学博士号を贈られた。日本では、4月27日から5月11日にかけて、毎日新聞社主催の「川端康成展」が開催された(その後、大阪、福岡、名古屋でも開催)。
6月には鎌倉市の名誉市民に推された。また同月28日には、従兄・黒田秀孝が死去した。9月は、移民百年記念サンフランシスコ日本週間に文化使節として招かれ出席し、特別講演『日本文学の美』を行なった。10月26日には、母校・大阪府立茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)の文学碑「以文会友」の除幕式が行われた。11月に伊藤整が死去し、葬儀委員長を務めた。川端は伊藤の死の数日前から自身の体にも違和を感じていたという。同月から、第3弾の『川端康成全集』全19巻が新潮社より刊行開始された。この年は小説の発表がなかった。
1970年(昭和45年)5月9日に、久松潜一を会長とする「川端文学研究会」が設立され、豊島公会堂で設立総会・発会記念講演会が開催された。13日に長野県南安曇郡穂高町(現・安曇野市)の招聘で、井上靖、東山魁夷と共に同地を訪れ、国道糸魚川線(旧糸魚川街道)の脇にある植木屋の養父を持つ鹿沢縫子(仮名)と出会った。植木屋は川端家に盆栽を贈り、それを縫子が車で配達していた。
6月15日から5日間の日程で中華民国を訪問。台北での台湾ペンクラブ主催の「第三回アジア作家会議」に出席して講演を行なった。続いて、京城(韓国のソウル。この時は「京城」大会と呼称)での第38回国際ペンクラブ大会にゲスト・オブ・オーナーとして出席し、7月2日に漢陽大学校から名誉文学博士号を贈られ、『以文会友』の記念講演を行なった。この時、大江健三郎、小田切秀雄らは、朴正煕の軍事独裁政権下での開催に反対し、ペンクラブを退会した。11月5日から鹿沢縫子が6か月間の約束でお手伝いとして川端家に来た。その話が穂高町に広まった時、縫子に関して「生みの親も知らぬ孤児」「養家は部落の家系」などといった110通もの中傷の投書が川端の元へ舞い込んだ。
同月25日昼、三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地において割腹自決した(三島事件)。そのとき細川護立の青山葬儀所での告別式に参列中だった川端は、一報を聞きすぐに現地へ駆けつけたが、すでに現場検証中で遺体とは対面できなかった。
1971年(昭和46年)1月24日、築地本願寺で行われた三島の葬儀・告別式では葬儀委員長を務めた。3月から4月にかけては、東京都知事選挙に立候補した秦野章の応援に立った。この時は一銭の報酬も受け取らず、ホテル宿泊代も自腹であった。5月に、「川端康成書の個展」を日本橋「壺中居」で開催した。9月4日に世界平和アピール七人委員会から、日中国交正常化の要望書を提出した。10月9日には2番目の孫・明成(男児)が誕生した。同月21日に志賀直哉が死去し、25日には立野信之の臨終に立ち会った。立野からは、翌年の11月に京都で開催される「ジャパノロジー国際会議」(日本文化研究国際会議)の運動準備を託された。川端は年末にかけて、京都国際会館の確保の準備や、政界財界への協力依頼、募金活動に奔走し、健康を害した。11月に最後の小説「隅田川」を『新潮』に発表し、12月から同誌に随筆「志賀直哉」を連載開始した(未完)。謡曲『隅田川』に拠った「隅田川」は、戦後直後に発表された三部作(「反橋」「しぐれ」「住吉」)に連なる作品で、〈あなたはどこにおいでなのでせうか〉という共通の書き出しとなり、「母」なるものへの渇望、旅心が通底している。
同11月には、世界平和アピール七人委員会が四次防反対の声明を出した。同じく11月には伊達宗克から『裁判記録「三島由紀夫事件」』の序文依頼を受けて12月20日に直接伊達と会った際に「書きますよ」と返答していた。孫の明成を可愛がっていた川端は、この年の暮にふと政子に、「ぼくが死んでもこの子は50までお小遣いぐらいあるね」と、自分の死後の著作権期間を暗示するような不吉なことを口にしたという。
1972年(昭和47年)1月2日にフジテレビのビジョン討論会「日本の美を考える」に出席し、草柳大蔵、飛鳥田一雄、山崎正和と語り合った。同月21日には、前年に依頼されていた歌碑(万葉の碑)への揮毫のために奈良県桜井市を保田與重郎と共に訪問し三輪山の麓の檜原神社の井寺池に赴き、倭建命の絶唱である「大和は国のまほろば たたなづく 青かき山ごもれる 大和し美し」を選んだ。2月25日に親しかった従兄・秋岡義愛が急死し、葬儀に参列した。同月に『文藝春秋』創刊50年記念号に発表した随筆「夢 幻の如くなり」では、〈友みなのいのちはすでにほろびたり、われの生くるは火中の蓮華〉という句を記し、〈織田信長が歌ひ舞つたやうに、私も出陣の覚悟を新にしなければならぬ〉と結んだ。また最後の講演では、〈私もまだ、新人でありたい〉という言葉で終了した。3月7日に急性盲腸炎のために入院手術し、15日に退院した。同3月、1月に決めた揮毫の約束を急に断わった。川端は、自分のような者は古代の英雄・倭建命の格調高い歌を書くのは相応しくはないと、暗く沈んだ声で言ったという。4月12日に、吉野秀雄の長男・陽一がガス自殺し、その弔問に出かけた。
4月16日の午前11時頃、しゃがみこんで郵便物や寄贈本などに目を通していた川端に、婿の香男里が「おはようございます」と声をかけると、川端は会釈して書斎に引き上げていった。2時頃、川端と秀子夫人はお手伝いの鹿沢縫子を呼び、働く期間を11月まで延長してほしいと頼んだが、縫子は「予定通り4月までで穂高に帰ります」と答え、川端は「駄目ですか。…そうですか」と小さく言った。2時45分過ぎ頃、川端は「散歩に行く」と家人に告げ、鎌倉の自宅を出てハイヤーを拾い(運転手は枝並二男)、同年1月7日に仕事場用に購入していた神奈川県逗子市の逗子マリーナ本館の部屋(417号室)に午後3時過ぎに到着した。夜になっても自宅に戻らないので、手伝いの嶋守敏恵と鹿沢縫子が午後9時45分過ぎに逗子マリーナを訪れ、異変に気づいた。
マンションの自室で、長さ1.5メートルのガス管を咥えた川端が絶命しているのが発見され、ガス自殺と報じられた(秀子夫人は、ガス管は咥えていないとしている)。72歳で永眠。死亡推定時刻は午後6時頃でガス中毒死であった。洗面所の中に敷布団と掛布団が持ち込まれ、入り口のガスストーブの栓からガス管を引いて、薄い掛布団を胸までかけて眠っているかのように死んでいた。常用していた睡眠薬(ハイミナール)中毒の症状があり、書斎から睡眠薬の空瓶が見つかった。部屋には〈異常な才能〉と高評価して前年に購入した村上肥出夫の絵『キャナル・グランデ』が飾られ、枕元には、封を切ったばかりの飲みかけのウイスキー(ジョニーウォーカー)の瓶とコップがあり、遺書らしきものはなかったという。その突然の死は国内外に衝撃を与えた。
鎌倉の自宅書斎には、『岡本かの子全集』(冬樹社版)の「序文」の1枚目と2枚目の11行まで書いた原稿用紙と、1枚目の書き直しが8枚あった。これは以前に川端が書いたものを冬樹社がアレンジして作った下書きが気に入らなくて、書き直そうとしたものだという。またその後に、書斎の手文庫(小箱)の中からは、B6判ぐらいの大きさの千代紙の表紙のついた和綴じの、和紙でできたノート2冊が発見された。そのノートには『雪国抄』一、二と題されていた。前年11月に伊達宗克から依頼されていた『裁判記録「三島由紀夫事件」』の序文は、3月の盲腸手術もあってゲラ刷りも遅れたこともあり、この4月16日か17日に弟子の北條誠が出来上がった文章を川端から受け取って伊達に渡す予定日になっていたが叶うことはなかった。
翌17日に通夜をし、高田博厚が来てデスマスクをとった。18日に密葬が自宅で行われた。政府から正三位に叙位され、勲一等旭日大綬章を叙勲された。5月27日には、日本ペンクラブ、日本文芸家協会、日本近代文学館の三団体葬により、「川端康成・葬」が芹沢光治良葬儀委員長のもと青山葬儀所で執り行われた。戒名は「文鏡院殿孤山康成大居士」(今東光が名付けた)。6月3日、鎌倉霊園に埋葬された。この日は偶然にも伊藤初代の遺骨が、仮埋葬されていた文京区向丘2丁目29-1の十方寺から鎌倉霊園に移されていた日であった。霊園の事務所で初めてその事実を知った川端香男里は、「(川端と初代は)最後まで不思議な御縁があった」と語っている。
8月に遺稿の「雪国抄」が『サンデー毎日』に掲載された。9月から日本近代文学館主催の「川端康成展」が全国各地で巡回開催された。10月に財団法人「川端康成記念会」が創設され、井上靖が理事長となった。11月、日本近代文学館に「川端康成記念室」が設置された。同月には、3月に川端が断った揮毫を完成させるために、『美しい日本の私―その序説』の川端の字から集字して、奈良県桜井市にある日本最古の古道「山の辺の道」に川端揮毫の倭建命の歌碑「万葉の碑」が完成された。"
川端康成(かわばた やすなり),1899年(明治32年)6月14日出生,1972年(昭和47年)4月16日逝世,是日本的小說家及文藝評論家。他是日本藝術院的會員、文化功勞者,並且是文化勳章的受章者。1968年,他成為首位獲得諾貝爾文學獎的日本人。他的位階和勳等是正三位勳一等。從大正到昭和時期的戰前和戰後,他活躍於近現代日本文學界,是代表性的作家之一。
他的代表作品包括《伊豆的舞孃》、《淺草紅團》、《抒情歌》、《禽獸》、《雪國》、《千羽鶴》、《山的聲音》、《睡美人》、《古都》等。
除了諾貝爾文學獎外,川端康成還獲得了許多文學獎,並在日本筆會和國際筆會大會上發揮了重要作用。然而,在忙碌中,1972年4月16日晚上,他以72歲的年紀選擇了瓦斯自殺。值得注意的是,他沒有留下遺書。
他出生於大阪府,畢業於東京帝國大學國文學科。在大學時期,被菊池寬賞識,通過文藝時評展露頭角,後來與橫光利一等人一起創辦了同人誌《文藝時代》。他致力於融合西歐前衛文學,創造出新感覺的文學,因此作為「新感覺派」的作家而受到矚目。他的作品風格多變,包括詩意的、抒情的作品,淺草物,心靈神秘的作品,少女小說等,並以「魔術師」的別名聞名。
其後,他創作出表達「日本之美」的作品,以及將連歌和前衛融合的作品,確立了傳統美、魔界、幽玄、妖美的世界觀。在認識到人類的醜陋、邪惡、無情、孤獨和絕望的同時,他探索了向美和愛的轉變,創作出許多留在日本文學史上的作品,建立了作為近代日本文學代表者的地位。作為第一位獲得諾貝爾文學獎的日本人,他在頒獎演講中向世界介紹了日本人的死生觀和美意識。
川端的早期小說和自傳性作品中,他本人常以隨想的方式,對人物和事物進行詳細記述。因此,這些作品雖然略帶藝術加工,但多半基於實際經歷,具體的人名和背景都得以確認,成為研究和追蹤的對象。
川端也以發掘新人的能力聞名,他將患有漢森病的青年北條民雄的作品介紹給世人,並支持了佐左木俊郎、武田麟太郎、藤澤桓夫、少年少女的文章、山川彌千枝、豐田正子、岡本かの子、中里恒子、三島由紀夫等人,培養了眾多新的才華,引導他們走向獨立。此外,他以敏銳的審美眼光,成為了茶器、陶器、佛像、埴輪、俳畫和日本畫等古美術品的收藏家,其收藏品具有高度的藝術價值。
小時候的康成似乎擁有某種預知能力,他能夠預言失物的位置、明天的來客甚至天氣,因此被人稱作「神童」。康成繼承了父親的虛弱體質,由於早產,他的生長前景一度被看衰,食量也很少,祖母非常小心翼翼地撫養著他。
1906年(明治39年)4月,康成進入三島郡豐川尋常高等小學校(現茨木市立豐川小學校)就讀。入學典禮時,他驚訝於世上竟能有這麼多人,由於驚慌和恐懼,他哭了起來。
由於經常缺席,康成一年級時共缺席了69天(全年258天)。有一段時間,他被附近的農婦田中みと陪伴在課堂上。據小學時代的老友回憶,康成的成績非常好,尤其擅長作文,突出於同齡人。他小學入學前就已經在祖母的教導下學會了《いろは》,因此學校裡的課程對他來說大多都已經知道,讓他覺得學校很無聊。康成回憶說,在小學入學前,他就已經能夠進行簡單的讀寫。
康成和笹川良一是小學同學。笹川的父親鶴吉也曾接受過康成祖父三八郎在私生活上的易學指導。
然而,就在康成入學的那年9月9日,他深愛的祖母カネ去世了(66歲),從此他和祖父只有兩人相依為命。在1909年(明治42年)7月21日,即將過生日的姐姐芳子也在13歲時去世了。康成對這位只見過兩次面的姐姐,只有在祖母葬禮時的模糊記憶。當得知芳子病危的消息後,祖父悲傷不已,即使視力不佳,仍用易學占卜孫子的命運。10歲的康成決定隱瞞姐姐的死訊,過了一段時間後,才告訴祖父。經歷了多次子女的早逝,祖父對康成的去世感到十分悲痛。家中無女性照顧後,經常有人來幫忙,祖父對這些人的善意感到十分感激,康成成為了他唯一的親人。
當康成上了小學五、六年級時,他的缺席次數大大減少,成績也都是甲級。由於擅長繪畫,康成曾考慮過成為畫家,但隨著年級的提高,他對閱讀書籍的興趣增加,並且讀遍了小學圖書館的所有書籍。他幾乎每天都會爬上庭院裡的木斛樹,像植木工人那樣舒適地坐在樹上閱讀,並且喜愛講談、戰記物、史傳,以及立川文庫的冒險小說家押川春浪的作品。
1912年(明治45年・大正元年),完成尋常小學校的學業後,川端康成憑藉親戚川端松太郎作為擔保人,於4月以首席之姿進入大阪府立茨木中學校(現為大阪府立茨木高等學校)並成為「甲組」學生。茨木中學以其質實剛健的校風聞名,對體操和訓練要求嚴格,馬拉松運動也相當盛行,學生們勤勞服務建造了游泳池,學校還培養出奧運選手。上學期間,不論是在教室或運動場,學生們都赤腳,只有在寒冷的冬季才允許穿著地下足袋。康成每天徒步約一里半(約6公里)的路程上學,他的虛弱體質得到了改善,一年級時還獲得了「精勤獎」。
然而到了夜晚,無法忍受家中的孤單,康成幾乎每天都會離開身患病痛的祖父,去朋友(宮脇秀一和憲一兄弟)家中玩耍,並享受那充滿溫暖的家庭氛圍。回到家後,他總是充滿了對祖父的歉意。在當時的記錄中,康成寫道:「沒有父母和兄弟的我,生活在比眾人的愛更深厚的祖父愛與這個家庭人們的愛中。」
康成從中學二年級開始立志成為作家,開始閱讀《新潮》、《新小說》、《文章世界》、《中央公論》等文學雜誌。他以已故父親栄吉的號稱,整理出了《第一谷堂集》和《第二谷堂集》,收錄了新體詩和作文。在學校中,他還認識了文學夥伴欠田寛治、清水正光、正野勇次郎等人。獲得祖父的允許後,康成幾乎買下了鄉鎮書店乕谷誠々堂中所有值得一看的文學書籍。川端回憶道,因為書本開銷太大,他和祖父都曾感到經濟壓力。在祖父去世後,他作為中學生所欠下的債務中,也包括了龐大的書費。秋岡家的每月寄來的23円遠遠不夠,他的日常飲食只有湯和梅干。逐漸轉向文學世界的康成,因為忽視了學校的學習和作業,導致作文成績下降到53分,在全校88名學生中排名第86。
1914年(大正3年)5月25日凌晨2時,臥病在床的祖父三八郎(改名為「康壽」)去世,享年73歲。祖父生前從事家相學和中藥研究,但未能實現其傳播這些知識的夢想。康成後來發表了記錄這段時期祖父的日記,名為《十六歲的日記》。川端認為,他習慣凝視他人臉龐的習慣或許來自於與患有白內障、變得盲目的祖父共同生活多年。在祖父的葬禮上,村裡的婦女們為孤兒康成哭泣,但心中充滿悲傷的康成卻不想展現自己脆弱的一面。康成這樣寫道,描述他埋葬祖父骨灰的那一天。
川端對於那時的自己說:「從小我就被周圍人的同情不合理地塑造成一個可憐的人。我的內心一半接受人們的恩惠,一半則傲然拒絕。」成為他人照顧的對象後,他的內心「孤兒根性、寄宿生根性、受恩者根性」變得更加堅強。在那時,康成雖然害羞而無法直接表達感激之情,但他寫道:「這是一件令人羞愧的秘密,但作為無依無靠的少年,我每晚在床上閉目合掌,感謝那些對我有恩的人。」他還談到了自己的出身(生命力脆弱的家族)和命運。
1915年(大正4年)3月,康成進入了中學的宿舍生活,他在宿舍的桌上擺放了一張父親栄吉最英俊的照片。在學校的低年級生中,有大宅壮一和小方庸正。大宅和康成雖然當時沒有交流,但大宅已經是《中學世界》和《少年世界》等雜誌中的著名投稿者,成為少年們心中的明星。康成鍾愛白樺派的武者小路実篤等人的作品,以及上司小剣、江馬修、堀越亨生、谷崎潤一郎、野上彌生子、徳田秋声、陀思妥耶夫斯基、契訶夫、《源氏物語》、《枕草子》等,他還沉迷於長田幹彦描繪的祇園和鴨川的花柳文學,有時還會一個人去京都,到深夜都在遊走。當同學清水正光的作品被刊登在地方週刊新聞《京阪新報》上後,康成開始萌生了想要看到自己作品被印刷出來的慾望,他向《文章世界》等雜誌投稿短歌,但幾乎都被拒絕,感到失望和絕望。他在日記中寫道:「英語學習也變得混亂。這樣不行。無論發生什麼事,我都要通曉英、法、俄、德等語言,自由地用外語寫小說,而且我現在甚至還想著諾貝爾獎。」
下定決心的康成,在1916年(大正5年)2月18日拜訪了《京阪新報》,與一位友善的年輕文學記者小林會面,並得以在報紙上發表了小作品「H中尉に」、短篇小說和短歌。4月,他成為了寄宿舍的室長。在寄宿舍生活中,康成受到同室的下級生(二年級生)清野(真名小笠原義人)純真的愛慕,並在寢床上相互擁抱入睡,體驗了同性愛的情感(但沒有肉體關係)。康成在日記中寫道:「小笠原是個如此溫柔、真正純潔的少年,我覺得把他當作妻子也是不錯的。」
川端回憶道:「在考試生時期,我雖然對少年感到誘惑,但也有被少女吸引的時候。」與小笠原義人的通信在康成中學畢業後上京以及進入一高和帝國大學後仍然持續,康成也曾訪問小笠原的家。他在給小笠原的信中寫道:「我愛著你的手指、手、手臂、胸膛、臉頰、眼皮、舌頭、牙齒和腿」(這封信的後半部分,他曾作為一高的作文課程作業提交)。與小笠原義人的經歷讓康成「第一次感受到的安寧」,並在自己成為「孤兒情感」的囚徒中,為他「指點出逃離困境之路的光明」。川端說,與清野(小笠原義人)的關係是「我在人生中遇到的第一次愛」、「初戀」,並進一步描述了這段關係。
同年9月,與康成同齡的中條百合子在坪內逍遙的推薦下在《中央公論》發表了處女作,這令「鄉下人」康成感到驚訝,也逐漸激發了他想要與中央文壇建立聯繫的願望。同年,康成在母親的表兄秋岡義愛的介紹下,開始與義愛的朋友、《三田文學》的新進作家南部修太郎通信。此外,同年秋季,康成與祖父共同生活過的豊川村大字宿久庄的房子被分家筋的川端岩次郎(川端松太郎的妹夫)賣掉了。
1922年(大正11年),在加藤武雄的好意下,康成在《文章倶楽部》1月號和2月號上發表了翻譯了契訶夫等的小品,同月在《時事新報》上也得以在佐佐木茂索的好意下投稿「本月的創作界」,康成因此首次以文藝評論家的身份出現在文壇。這成為了他日後長年在各雜誌撰寫文藝評論的契機。
6月,康成從英文學科轉到國文學科,原因是英文學科對出席率要求嚴格,而幾乎不出席講義的川端也沒有參加考試,因此無法在英文學科取得學分而決定轉科。大學多待了「一年多」的康成,幾乎專注於文學活動。
同年夏天,為了治愈失戀的傷痛,康成再次前往伊豆,並在湯ヶ島湯本館寫下了107頁的草稿「湯ヶ島的回憶」,這與拒絕了自己的伊藤初代不同,記錄了對他懷有純真好感的伊豆踊子和小笠原義人的回憶。
1923年(大正12年)1月,川端在由菊池寛創辦的《文藝春秋》上發表了「林金花的憂鬱」,並成為該雜誌的編輯同人,從第二期開始參與編輯工作。與橫光利一和佐々木味津三等《新思潮》的同人一起加入了《文藝春秋》的同人行列。5月,康成在雜誌上發表了自傳性作品「參加葬禮的高手」(後改為「葬禮的高手」),記錄了被表兄取笑為「葬禮的高手」時感受到的「身上的寂寞」。7月,他在《新思潮》(8月號)上發表了描繪與伊藤初代之間事件的「南方的火」。同年,川端在創作評中提到了犬養健的作品,從此兩人開始交流,犬養也與橫光利一交往。
9月1日,川端在本鄉區駒込千駄木町38號(現文京區千駄木1-22)的下宿遭遇了關東大震災,他本能地想到了伊藤初代,在數萬名疏散民中尋找她,隨身攜帶水和餅乾,四處奔走數日。他與今東光一起探望了芥川龍之介,三人一起遊歷了災區。川端等人在吉原一帶,對那些被火燒傷並跳入池塘的眾多妓女悲慘的「最醜陋之死」感到震驚。
川端在浅草的死體收容所等地,見過「數百數千甚至數萬」的死體,但其中讓他「最為心痛」的是一具同時死去的母子的屍體,他寫道:「母親死去,只有孩子活著出生。被人救助。美麗健康地成長。我一邊走在屍體的惡臭中,一邊想著那個孩子將來會墜入愛河。」震災後,川端對於「新的文藝」的渴望更加高漲,他認為「新進作家的作品,不應該是科學家的詩,而應該是年輕女孩的舞蹈。而且,這個魔力喜歡的是生女孩。」
1929年(昭和4年)4月,岡田三郎等人創立的《近代生活》雜誌發行,川端被邀請成為同人。9月17日,他搬到了浅草公園附近的下谷區上野桜木町44號(現台東區上野桜木2丁目20號),並像學生時代一樣在浅草附近遊蕩。從這時起,他開始飼養多種小鳥和狗。這些與動物的生活後來孕育了《禽獸》一書。這段時期,他也與秀子的家人(妹妹君子、母親、弟弟喜八郎)同住。浅草在7月份開設了復興劇場和賭場迷你劇場。川端成為了第二次賭場迷你劇場(10月重新開張)的文藝部員,並認識了舞女們。舞女們稱他為「川端先生的哥哥」。10月,他在《改造》雜誌上發表了「溫泉宿」。從12月開始,他在《東京朝日新聞》上連載「浅草紅團」,從而引發了浅草熱潮。
此外,川端對於當時文壇上「左翼文學」風潮的壓力下,純文學被凌駕的現象表示了不滿,受到堀辰雄在《文學》雜誌創刊意旨(發表於讀賣新聞)中提到「政治上的左翼」與「文學上的左翼」混淆過度的觀點啟發,他斷言「今日的左翼作家,在文學上實為極右翼」,並表示「對其退步長久以來的忍耐已漸感厭倦」,在10月宣稱「我們應該將目光轉向我們的工作,『文學上的左翼』」。同年10月,他與堀辰雄、深田久弥、永井龍男、吉村鐵太郎等人一起,成為了《文學》雜誌的同人。《文學》雜誌與《詩與詩論》等季刊一同,積極介紹了瓦萊里、紀德、喬伊斯、普魯斯特等歐洲20世紀新心理主義文學,給藝術派作家們帶來了強烈的刺激,促使堀辰雄的《聖家族》、橫光利一的《機械》等作品在次年誕生。
1930年(昭和5年),川端開始每月一次參加由中村武羅夫、尾崎士郎、龍膽寺雄等人於前年12月成立的「十三人俱樂部」的聚會。「十三人俱樂部」自稱「藝術派的十字軍」,是一個對馬克思主義文學感到不滿的作家組織。川端還與新興藝術派的新人有所交往,他說這是一個「相當愉快的聚會」。同年,川端也成為了菊池寛擔任的文化學院文學部長的講師,每週授課一次,並在日本大學擔任講師。2月左右,他從之前被盜賊闖入的家中搬到上野桜木町49號。這一時期正值昭和經濟恐慌,社會不安情緒日益高漲。11月,他在《文學時代》雜誌上發表了受喬伊斯影響,採用新心理主義「意識流」手法的「針與玻璃與霧」。
接著在1931年(昭和6年)1月和7月,《改造》雜誌上發表了同樣採用此手法的「水晶幻想」。不受時間或空間限制的多元表達手法使「水晶幻想」成為了川端經過各種實驗後的一個成果。4月,為了安置書生緑川貢,他搬到了同一上野桜木町36號的一個稍大的房子。10月,他從賭場迷你劇場挖角了明星舞女梅園龍子,讓她學習西洋舞(芭蕾)、英語會話和音樂。為了培養梅園,他開始觀看更多西洋風的舞蹈表演,這種芭蕾鑑賞後來反映在《雪國》中島村的人物設定和《舞姬》等作品中。同年6月,他認識了畫家古賀春江。12月2日,他與妻子秀子提交了婚姻登記。
1932年(昭和7年)2月,他在《中央公論》雜誌上發表了以過去失戀為題材的心靈作品「抒情歌」。3月初,伊藤初代(再婚後姓桜井)訪問了川端家,這是約10年來的再會。初代曾於1922年(大正11年)與浅草咖啡廳美國的經營者中林忠藏結婚,關東大震災後搬到仙台市,中林是高級餐廳卡爾頓的經營者,但在5年前去世,初代與再婚的桜井生有一個未滿一歲的次子(長子夭折)。家庭生活不順利,成名的川端成為初代的依靠,她希望川端能收養她與中林之間的長女珠江(9歲)為養女。初代的請求被拒絕後,她再也沒有來訪。這次經歷後來成為了各種作品(《姊妹的和解》、《母親的初戀》)的題材。同月24日,川端的好友梶井基次郎去世(31歲)。9月,他開始在《朝日新聞》上連載「化妝和口哨」。同年,梅園龍子開始了她的正式舞蹈活動(先鋒五重奏)。
1933年(昭和8年)2月,《伊豆的舞孃》首次被改編成電影(導演:五所平之助)。同月,小林多喜二被殺害,無產階級文學實質上被摧毀。然後,在7月,川端以飼養許多寵物的虛無主義單身男子為主角,發表了《禽獸》於《改造》雜誌。當時的編輯是德廣巌城(上林暁)。
這部作品被稱讚為「昭和前期文學的珍品」,並被定位為川端「接近最具知性作品的極限」,被認為是川端作品的一個轉折點。從《禽獸》開始,到次年的作品,展現了最深虛無主義傾向。同時,他也增加了寫少女小說的數量,在同月發表了《夏之宿》於《少女俱樂部》。
這個夏天是在房州的上総興津(現在的千葉縣勝浦市)度過的。9月10日,親密的畫家古賀春江去世(38歲)。10月,與小林秀雄、林房雄、武田麟太郎、深田久彌、宇野浩二、廣津和郎、豐島與志雄等人一起,成為旨在復興文學雜誌《文學界》創刊的同人。《文學界》後來還加入了橫光利一、藤澤桓夫、里見弴等人。在世界陰暗的氛圍和大眾文學的泛濫中,川端維護了純文學的自由和權威,並參與了其發展。11月,發表了《散りぬるを》於《改造》,結尾部分出現了一句話「我是名為小說家的無期徒刑犯」,12月,因古賀春江的死而撰寫的散文《末期的眼》發表於《文藝》。
芥川龍之介在遺書中提到的「末期的眼」,即不斷將死亡放在心頭,從而使感官意識純淨化、透明化,捕捉自然的各種面貌,並從中發現美,成為了川端作品主題的核心。此外,川端被稱為「魔術師」,他在《末期的眼》中寫道:「我使用“魔術”不是為了欺騙人,而只是心中的悲嘆和脆弱抗爭的表現。別人怎麼稱呼我,我不在乎。」12月21日,親密的池谷信三郎去世(33歲)。從這一年開始,川端被岡本加乃子請求指導小說,他仔細閱讀了她在各雜誌中不受歡迎的稿件,並持續給予鼓勵。
1934年(昭和9年)1月,「文藝懇話會」成立,島崎藤村、德田秋聲、正宗白鳥、橫光利一加入,川端也成為會員。但到會場一看,發現是前警保局長松本學主持的,川端認為應該謙虛辭退,但他認為「我隨風而動,順水而行,我既是風,也是水。」這樣的思考,以及與菊池寬、橫光利一的相遇等故事,被記錄在5月於《新潮》發表的隨筆「文學的自傳」中。6月,他首次旅行到新潟縣的越後湯沢(南魚沼郡湯沢町),之後再次訪問,並遇到了高半旅館19歲的藝妓松榮(本名:小高菊)。這成為了後來撰寫《雪國》系列作品的契機。
從首次越後之行返回東京後,搬家到下谷區谷中坂町79號(現在的台東區谷中)。8月,收到了患有麻風病(漢森病)的文學青年北條民雄(本名:七條晃司)的信和稿件,此後開始通信。當時,川端的文學時評被認為是一種「勳章」。川端談到接觸新人作品的事情說:1935年(昭和10年)1月,發表《夕景色的鏡》於《文藝春秋》,發表《白い朝の鏡》於《改造》,之後在各雜誌上斷續發表,開始了《雪國》系列作品的連載。
同月,芥川賞、直木賞設立,橫光利一和川端成為芥川賞的評審委員。圍繞第一屆芥川賞的川端評論,與渴望獲獎但落選的太宰治之間發生了一場風波。6月至8月間因發燒等身體不適入院慶應醫院。7月5日入院期間,內務省地下的共済會牙科技工室發生酒精罐爆炸事故,一名牙醫和女助手因此受傷被送入醫院,第二天去世。後來以此為題材,撰寫了《意大利的歌》。
11月,以「秩父號一」為筆名,於《文學界》介紹北條民雄的《間木老人》。同年,橫光利一的《純粋小說論》引發話題,川端也在文學時評中提及其反響,主張文學者應該回歸原本的精神,12月於《讀賣新聞》發表《純文藝雜誌歸還說》。同月5日,應林房雄之邀,搬家到神奈川縣鎌倉郡鎌倉町浄明寺宅間ヶ谷(現在的鎌倉市浄明寺2丁目8-15、17、18之一),與林成為鄰居。
1936年(昭和11年)1月,《文藝懇話會》創刊,川端成為同人。2月5日,北條民雄訪問鎌倉,首次見面。同月,川端的推薦下,《文學界》發表了北條名為《いのちの初夜》的作品,給文壇帶來了震撼。川端鼓勵北條說:「不要聽文壇或世間的批評,不要看,絕對不要看每月的文壇文學,(中略)總是親近最高的書籍,讓這些書籍來批評你。」川端將向世人介紹未被認識且即將逝去的無名作家作品視為文學評論家的使命之一,並一直是「常被評論家輕視的作家的盟友」。
橫光稱讚川端為「發掘的名人」,2月20日,橫光作為新聞特派員乘船前往歐洲,川端在神戶港為他送行。5月,川端第五次旅行到越後湯沢,繼續撰寫《雪國》。6月,於同雜誌介紹岡本加乃子的《鶴病逝》。以芥川龍之介為原型的這部作品成為了岡本的文壇出道作。同月,川端在學生時代首次認識的作家南部修太郎去世(43歲)。8月,通過《文學界》的廣告贊助商明治製菓的內田水中亨的介紹,為《スヰート》雜誌撰寫了神津牧場觀察記,首次訪問長野縣北佐久郡輕井澤町,並入住藤屋旅館。對信州的興趣增加,之後以該地為背景撰寫了作品。從12月開始,《報知新聞》連載描繪一個盲女的《女性開眼》,並在《333》發表《夕映少女》。
1937年(昭和12年)5月搬家到鎌倉市二階堂325(房東是詩人蒲原有明)。6月,加入了書寫部分,將連作整理並由創元社出版《雪國》,並獲得第三屆文藝懇話會獎(繼續斷續寫作)。用這筆獎金購買了旧輕井澤1307號的別墅(次年,購買了鄰地1305號的土地)。同月,開始在《婦人公論》連載以信州為背景,描繪戰爭時代的《牧歌》,並在《少女之友》連載開始《少女的港口》。《少女的港口》是與師從於川端的新人家庭主婦作家佐藤恒子(中里恒子)合作撰寫的作品。這一年7月,中日戰爭爆發,日中戰爭開始。11月,住在別墅,去了戶隱等地,開始斷續發表包含送別出征士兵的婦人描寫的《高原》於《文藝春秋》。
在同年12月18日,當堀辰雄造訪輕井澤的別墅時,他入住的油屋旅館發生火災,因此在川端康成12月回家後,堀就借住在那裡,並在這裡完成了《風立ちぬ》最後一章「死之影的谷」的寫作。12月5日,北條民雄去世(享年23歲),堀前往位於東京府北多摩郡東村山村的漢生病療養設施「全生園」,見了北條的遺體。後來,以北條之死為題材的作品《寒風》被創作出來。同年10月28日,耕治人寄來了一份想要他一定要讀的手稿,自次年開始,他就經常前來訪問。野々宮照相館的主人贈與他一台康泰時相機,從那年開始,他變得經常拍照,偶爾也會打高爾夫球。
對於少年少女的文章有著親切感1938年(昭和13年)4月,《川端康成選集》全9卷開始由改造社出版。這是因為橫光利一的好意,向改造社推薦而實現的。7月開始,對21世本因坊秀哉名人的退役棋賽的觀戰記在《東京日日新聞》、《大阪每日新聞》上連載。後來,這些觀戰記成為了小說《名人》各章節的寫作基礎。同年,他被委託為中央公論社即將出版的《模範綴方全集》選者之一,與藤田圭雄一起,閱讀了許多小學生、少年少女的文章。
在這段期間,他也在時評中讚揚了豐田正子的《綴方教室》。10月,他被任命為「日本文學振興會」(理事長・菊池寛)的理事。同年,他編輯了《北條民雄全集》。1939年(昭和14年)1月開始,為年輕女性雜誌《新女苑》的投稿欄「短劇選評」。2月18日,岡本かの子去世(享年49歲)。由於前一年少年少女作品的選考,5月,他與坪田譲治等人成立了「少年文學懇話會」,深入參與了小學生的綴方運動。川端對於孩子的文章表示,他非常喜歡閱讀孩子的作文,他說這就像幼兒的片言一樣,透過那些不完善之處能感受到孩子的生命。
他將西村アヤ的《藍色的魚》和《山川彌千枝遺稿集》視為「我總是不願離開寫字台邊的書」,他說它們的稚嫩與簡單,給予他的,實際上是廣闊而複雜的。他還表示,一個優秀的作家的心中,應該常住著一個少年。7月,受到兩年前訪日的海倫·凱勒的啟發,他開始在《少女之友》連載描繪三重苦的少女的故事「美麗的旅程」。1940年(昭和15年)1月,他發表了「母親的初戀」、「正月三日」。同月,他為了「紅葉祭」(尾崎紅葉忌)在熱海聚樂酒店停留。
1月16日,他在熱海的鱗屋旅館拜訪了本因坊秀哉名人,下了一局棋後分別,本因坊秀哉因體調不佳而突然去世。這個事件成為了《名人》開始執筆的契機。2月,由於視力問題,他在慶應醫院住了四天。這時,他發現眼底有過去治癒的結核痕迹,右眼視力受損。5月,他為了「美麗的旅程」的取材,參觀了盲人學校和聾啞學校。在這時,他遇到了年輕女教師橘川ちゑ(秋山ちえ子),並開始進行書信往來。10月,他與阿部知二、伊藤整等人一起成為「日本文學者會」的發起人。同年1940年(昭和15年)1月,他為了《新女苑》連載開始的「旅行的邀請」,遊歷了三島、興津、靜岡市和東海道。次年1941年(昭和16年)1月,他發表了紀念北條民雄去世的「寒風」於《日本評論》。3月,他在「文藝時評」中讚揚了山口さとの的《我愛的記錄》(一位有下半身殘疾丈夫的妻子的記錄)。
1955年(昭和30年)1月,他開始在《文藝》上斷續連載「一個人的生命之中」。同月,他為西川流舞踊劇本寫下了第二部「故鄉的聲音」,並在新橋演舞場上演。同月,他的作品「伊豆的舞女」被愛德華·G·賽登斯塔克翻譯成英文,刊登在《大西洋月刊》1月份的日本特輯中。同年6月,北村喜八和芳賀檀作為日本代表參加了在維也納舉行的國際筆會,但由於芳賀的個人決定,日本申請成為1957年度大會的主辦國,這引起了巨大的爭議,但在次年1956年(昭和31年)3月的日本筆會評議員會議上,當時的日本筆會會長川端康成做出了決定,實際上決定了會議的舉辦。
1956年(昭和31年)1月,《川端康成選集》全10卷由新潮社開始出版。3月,他開始在《朝日新聞》連載「作為女人」。這一年,愛德華·G·賽登斯塔克的翻譯使得《雪國》在美國出版(發售是次年1月)。這個英文翻譯被認為是一個傑出的翻譯,它巧妙地翻譯了川端感性描述表達中的困難。
1957年(昭和32年)3月22日,他與松岡洋子一起,為了參加在倫敦舉行的國際筆會執行委員會,從羽田機場飛往歐洲。會議結束後,他為了邀請參加東京大會,遊歷了包括法國在內的歐洲各國,會見了莫里亞克、艾略特、西羅內等人。5月回國,但由於疲勞,川端變得消瘦,作品創作也停止了。4月,《雪國》被改編成電影(導演・豊田四郎)。9月2日,第29屆國際筆會東京大會(京都和東京)在日本舉行。川端承擔了從籌款到招募人員的艱苦工作,直到8日京都的閉幕式,他以主辦國會長的身份完成了重大任務。川端回顧這2年間,說這是他一生中最奇妙的時間,他說從倫敦的執行委員會回來後,他的內心似乎消失了,或者可以說,他的內心有另一個自己在生活。
1958年(昭和33年)2月,他被國際筆會執行委員會的全體一致推薦選為國際筆會副會長,3月,由於「對日本舉辦國際筆大會的努力和成就」,他獲得了戰後復活的第6屆(1958年)菊池寛獎。6月,他為了視察前往沖縄。他的健康狀況惡化,8月被診斷出膽囊腫大,但由於沒有及時處理,藤田圭雄等人擔心他的健康,於10月21日請求冲中重雄醫師前往鎌倉,11月,他因為膽結石(膽囊炎)住進了東京大學醫院,12月,他的妻子秀子也因病住進了同一家醫院。
次年1959年(昭和34年)4月,他出院後,5月,他被西德法蘭克福市以文化功勞者的身份授予歌德獎章,7月,他參加了在同市舉行的第30屆國際筆會大會並獲得了獎章。11月,第二輯《川端康成全集》全12卷由新潮社開始出版。這一年是他漫長的作家生涯中,首次一年之內沒有發表任何小說。1967年(昭和42年)2月28日,他與三島由紀夫、安部公房、石川淳等人在帝國酒店舉行記者會議,發表了抗議聲明,聲稱中國文化大革命正在壓殺學問藝術的自由(聲明文日期為3月1日)。4月,日本近代文學館開館,他成為該館的名譽顧問。
5月開始在《風景》連載散文「一草一花」。7月,他的養女・政子與山本香男里結婚,山本成為了川端家的養子。川端在政子的婚事談判中一直保持沉默,但當婚事具體化時,他強烈地告訴對方「女兒不能從川端家出嫁」。8月,他成為了日本萬國博覽會政府出展懇談會委員。12月,他為了看望政子夫婦的新家而前往北海道札幌旅行,但回家後不久的11日,他聽說政子流產了,於是再次飛往札幌,確認政子安全後返回東京。
1968年(昭和43年)2月,簽署了「對國會議員的非核武裝懇求書」。6月,參加了日本文化會議。6月到7月期間,擔任了參議院選舉候選人今東光的選舉事務長,並進行了街頭演講。10月17日,成為首位獲得諾貝爾文學獎的日本人。19日,瑞典大使阿爾姆奎斯特訪問了川端家,遞交了獲獎通知和頒獎典禮邀請函。
獲獎理由是「以卓越的感受性表達了日本人心靈的精髓,給世界人民留下了深刻的印象:"for his narrative mastery, which with great sensibility expresses the essence of the Japanese mind."」,涉及的作品包括《雪國》、《千羽鶴》、《古都》以及短篇《水月》、《黑痣的信》等。自1961年(昭和36年)首次成為候選人後,歷時7年獲獎(2012年資訊公開),直到1966年(昭和41年)每年都是候選人,這一點在2017年(平成29年)的資訊公開時已經明確。川端在接受記者採訪時表示:「運氣很好」,並謙虛地說:「多虧了譯者」,還說:「多虧了三島由紀夫先生太年輕」。
次日10月18日,與三島由紀夫、伊藤整舉行了座談會「圍繞川端康成先生」,在川端家的庭院裡進行,並在NHK電視、NHK廣播上播出。據說在寡言中也能隱約看到川端的喜悅表情。11月8日,受邀參加秋季園遊會,與昭和天皇會面。同月29日,由日本筆會主辦的諾貝爾獎慶祝會舉行。在隨後的散文中,他寫道:「秋野中鈴聲響,卻無人影」,並以「野」和「鈴」玩文字遊戲,創作了戲謔的句子。川端在後來的散文中也這樣記錄:
12月3日啟程前往瑞典,但在出發當天早晨,川端突然在家門口不悅地說:「大家隨便去吧。我可不去。」這被認為是他對周圍媒體和慶賀客喧囂無節制感到忍耐極限的瞬間。10日,川端康成以正裝和文化勳章出席在斯德哥爾摩音樂廳舉行的諾貝爾獎頒獎典禮。12日中午2時10分,在瑞典學院以西裝出席了諾貝爾獎紀念演講「美麗的日本的我―序論」,演講中引用了道元、明恵、西行、良寛、一休等人的和歌和詩句,由愛德華·G·賽登斯提克進行同聲傳譯。據說川端在盧西亞節的第二天因疲勞倒下,一直到15日晚上沒有進食,只是睡覺。在回程途中停留的巴黎,他購買了基斯林的《少女》畫作。同月,成為故鄉茨木市的榮譽市民。此外,川端這時正在積極準備《源氏物語》的現代語翻譯。
1969年(昭和44年)1月27日,出席了國會兩院的諾貝爾文學獎感謝決議,接受了祝賀,同月29日,迎來了第一個孫女・明亮的誕生。3月到6月,為了進行日本文學的講座,赴夏威夷大學,5月1日進行了題為「美的存在與發現」的特別講座。4月3日,被選為美國藝術文化學院的名譽會員,6月8日,獲得了夏威夷大學的名譽文學博士學位。在日本,從4月27日到5月11日,每日新聞社主辦的「川端康成展」舉行(之後在大阪、福岡、名古屋也有舉辦)。
6月,被推舉為鎌倉市的榮譽市民。同月28日,堂兄黑田秀孝去世。9月,作為文化使節應邀出席在舊金山舉行的移民百年紀念日本週活動,並進行了特別講座「日本文學的美」。10月26日,在母校・大阪府立茨木中學校(現・大阪府立茨木高等學校)的文學碑「以文會友」的揭幕式舉行。11月,伊藤整去世,川端擔任了葬禮委員長。川端在伊藤去世前幾天開始感覺到自己身體的不適。同月,開始出版第三輯的「川端康成全集」全19卷。這一年沒有發表小說。
1970年(昭和45年)5月9日,「川端文學研究會」成立,由久松潛一擔任會長,在豐島公會堂舉辦了成立總會・啓動紀念講演會。13日,應南安曇郡穗高町(現・安曇野市)的邀請,與井上靖、東山魁夷一同訪問該地,與在國道糸魚川線(舊糸魚川街道)旁的植木屋養父為鹿沢縫子(假名)相遇。植木屋向川端家贈送了盆栽,由縫子駕車運送。
6月15日,訪問了中華民國5天。在台北參加了由台灣筆會主辦的「第三屆亞洲作家會議」,並進行了演講。之後,作為榮譽嘉賓參加了在京城(韓國首爾,當時稱「京城」)舉行的第38屆國際筆會大會,在7月2日從漢陽大學獲得名譽文學博士學位,進行了「以文會友」的紀念講演。當時,大江健三郎、小田切秀雄等人因反對在朴正熙的軍事獨裁政權下舉辦大會而退出了筆會。11月5日,鹿沢縫子應約為期6個月的幫傭工作加入了川端家。當這個消息在穗高町傳開時,有110封中傷縫子的信件,如「不知親生父母的孤兒」「養家是部落出身」等,被送到了川端的手中。
同月25日中午,三島由紀夫在自衛隊市谷駐地進行割腹自殺(三島事件)。當時川端正在參加細川護立的青山葬禮所的告別式,聽聞消息後立即趕到現場,但當時已在進行現場檢查,未能與遺體見面。
1971年(昭和46年)1月24日,在築地本願寺舉行的三島由紀夫的葬禮及告別式上,擔任葬禮委員長。3月到4月,為參選東京都知事的秦野章提供支持。在此期間,沒有收取任何報酬,甚至連住宿費也是自己掏腰包。5月,在日本橋「壺中居」舉辦了「川端康成書的個展」。9月4日,向世界和平訴求七人委員會提交了中日邦交正常化的要求書。10月9日,第二個孫子明成(男孩)出生。同月21日,志賀直哉去世,25日親臨立野信之臨終。立野委託他負責準備次年11月在京都舉辦的「日本學國際會議」(日本文化研究國際會議)。川端在年末期間忙於確保京都國際會館的場地、向政商界人士請求協助和進行籌款活動,導致健康受損。11月,在《新潮》雜誌上發表了最後的小說「隅田川」,並從12月起在同雜誌連載散文「志賀直哉」(未完成)。這部以謠曲「隅田川」為基礎的小說,與戰後初期發表的三部曲(「反橋」「時雨」「住吉」)相連,開篇均為「您在何處」,貫穿著對「母親」的渴望和旅行的心情。
同年11月,世界和平訴求七人委員會發表了反對第四次防衛的聲明。同樣在11月,接受了伊達宗克對《三島由紀夫事件審判記錄》序言的邀請,在12月20日與伊達會面時回答說「我會寫的」。川端寵愛孫子明成,年底時突然對妻子政子說:「即使我去世了,這孩子到50歲都會有零用錢吧」,似乎暗示了自己去世後著作權期限的不祥之兆。
1972年(昭和47年)1月2日,參加了富士電視台的討論節目「思考日本之美」,與草柳大藏、飛鳥田一雄、山崎正和交流。同月21日,為前年所承諾的歌碑(萬葉碑)揮毫而與保田與重郎一同訪問奈良縣桜井市,在三輪山麓的檜原神社的井寺池,選擇了倭建命的絕唱「大和是國之美麗之地 靜立的綠蔽山嶽 大和之美」。2月25日,親近的堂兄秋岡義愛去世,參加了其葬禮。同月在《文藝春秋》創刊50周年紀念號發表的散文「如夢似幻」中,記錄了「友人皆已逝,我如火中蓮」,並以「如同織田信長唱舞,我也必須重新做好出征的準備」作結。在最後的演講中,以「我仍希望自己是新人」的話結束。3月7日因急性盲腸炎入院手術,15日出院。同月,突然拒絕了1月份承諾的揮毫。川端以沉重的聲音說,像他這樣的人不適合書寫古代英雄倭建命的高格調詩歌。4月12日,吉野秀雄的長子陽一瓦斯自殺,川端前去弔問。
4月16日上午11點左右,川端在翻看郵件和贈書時,女婿香男里向他打招呼,川端回禮後回到書房。大約2點,川端和夫人秀子呼叫家中幫傭鹿沢縫子,希望她將工作期延長至11月,但縫子回答「我會按計劃在4月回到穗高」,川端小聲說「不行嗎…是嗎」。大約2點45分,川端告訴家人「我去散步」,離開鎌倉家中並乘坐出租車(司機為枝並二男),抵達同年1月7日為工作室購買的神奈川縣逗子市逗子馬林那本館417號房。晚上未歸,嶋守敏恵和鹿沢縫子於晚上9點45分訪問逗子馬林那,發現異常。
在公寓的自室中,發現川端咬著長1.5米的瓦斯管絕命,被報導為瓦斯自殺(夫人秀子表示瓦斯管並未咬在口中)。享年72歲。死亡推定時間為下午6點左右,死於瓦斯中毒。洗手間內擺放了床墊和被子,從入口的瓦斯爐引出瓦斯管,蓋著薄被子,看似安睡而逝。他常用的安眠藥(海明威)中毒症狀出現,從書房發現空瓶。房間內裝飾著前年高評購入的村上肥出夫畫作《大運河》,枕邊放著剛開封的威士忌(約翰走路)瓶和杯子,未發現遺書。他的突然去世在國內外引起震驚。
鎌倉家中書房留有《岡本加奈子全集》(冬樹社版)「序言」的第一頁和第二頁寫到第11行的原稿紙,以及第一頁的八份重寫稿。這是因為冬樹社根據川端先前所寫的稿子重新編排的草稿不合他意,打算重寫。後來,在書房的手提箱(小盒子)中發現了兩本B6尺寸的千代紙封面的和裝筆記本,標題為《雪國抄》一、二。由於前年11月伊達宗克的邀請,加上3月的盲腸手術和校樣的延遲,原定於4月16日或17日由弟子北條誠從川端手中接過成稿交給伊達的計劃未能實現。
17日舉行了守夜,高田博厚來為其製作死亡面具。18日在家中進行了密葬。政府追贈正三位並授予勳一等旭日大綬章。5月27日,由日本筆會、日本文藝家協會、日本近代文學館三個團體合辦的「川端康成葬」在青山葬儀所由芹澤光治良葬儀委員長主持。戒名為「文鏡院殿孤山康成大居士」(由今東光命名)。6月3日葬於鎌倉墓地。當天恰巧是伊藤初代的遺骨從文京區向丘2丁目29-1的十方寺遷至鎌倉墓地的日子。香男里在墓地辦公室首次得知這一事實時說:「(川端和初代)直到最後都有奇妙的緣分」。
8月,《雪國抄》遺稿在《週日每日》雜誌上發表。9月起,由日本近代文學館主辦的「川端康成展」在全國巡回展出。10月,「川端康成紀念會」財團法人成立,井上靖擔任理事長。11月,在日本近代文學館設立「川端康成紀念室」。同月,為完成川端3月所拒絕的揮毫,從他的《美麗的日本的我―序説》中收集字樣,於奈良縣桜井市日本最古老的古道「山邊之道」上完成了倭建命的歌碑「萬葉碑」。
1.
"一生の間に一人の人間でも幸福にすることが出来れば、自分の幸福なのだ。"
如果我這一生能讓一個人幸福,我就很幸福了。
2.
"一人のよき友は、地上のすべての宝玉よりも、どんなに勝っていることか。"
一位好朋友,勝過天下瑰寶。
3.
"別れる男に、花の名を一つは教えておきなさい。花は毎年必ず咲きます。"
至少告訴要分手的男人一朵花的名字。每年花朵總是盛開。
4.
"健全な愛は健全な人にしか宿らないものだよ。"
健康的愛情只能存在於健康的人身上。
5.
"自分は「怠け者」であり、川端文学は「怠け者の文学」である。"
我是一個“懶人”,川端康成的文學是“懶人的文學”。
6.
"国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。"
當我們穿過邊境長長的隧道時,我們發現自己來到了一個雪國。
7.
"犠牲を清らかならしめよ。自分を犠牲にした者は、自分を犠牲にしたことを忘れるのが、美しい犠牲の完成なのだ。"
讓你的犧牲變得純潔。犧牲的美好完成,是讓那些犧牲了自己的人忘記了自己犧牲了自己。
8.
"長い結婚は必ずしも出発に支配されない。"
長久的婚姻不一定是由分手決定的。
9.
"男が家庭を持ちたいってのは、思い切り阿呆になれる場所がほしいからだ。"
男人想要建立家庭的原因是因為他們想要一個可以讓他們隨心所欲地愚蠢的地方。
10.
"夫を持ったり、子供を持ったりする度に、人間の心の眼は開けてゆくものだよ。"
每當一個人有了丈夫或孩子,人心的眼睛就會睜開。
11.
"ささいなことが私たちを慰めるのは、ささいなことが私たちを悩ますからだ。"
小事安慰我們,因為小事困擾我們。
12.
"今日の結婚は明日の喜びか悲しみかわからないのを、ただ喜びであれと祈り、喜びであろうと夢見る。"
我們不知道今天的婚姻明天是快樂還是悲傷,但我們只是祈禱它會快樂,我們夢想它會快樂。
13.
"日本の子供には、もっと孤独を教えないと、思想は生まれませんね。"
如果不教導日本孩子更多關於孤獨的知識,思想將不會誕生。
14.
"誰にもかれにも、同じ時間が流れていると思うのはまちがいだ。"
認為時間對每個人來說都以同樣的方式流逝是錯誤的。
15.
"自分の年とってゆくのを忘れさせてくれるのは子供しかないってことは、あらゆる生物の楽しい悲劇ですよ。"
唯有孩子讓我們忘記自己正在變老,這是所有生物的悲哀。
16.
"人間は、みんなに愛されているうちに消えるのが一番だ。"
人類最好在還被大家所愛的時候就消失。
17.
"死んだ者の罪を問わないのは、今は生きていてやがて死ぬ者の、深い真理かもしれませんよ。"
對於那些現在還活著但很快就會死去的人來說,我們不質疑死者的罪孽這一事實可能是一個深刻的真理。
18.
"生まれつき価値のある存在なのだから、自分の価値を他人に証明する必要はない。"
沒有必要向別人證明你的價值,因為你天生就有價值。
19.
"忘れるにまかせるということが、結局最も美しく思い出すということなんだ。"
讓自己忘記,才是你最終記得的最美麗的事。
20.
"死んだ時に人を悲しませないのが、人間最高の美徳さ。"
人類最大的美德就是死後不讓別人悲傷。
21.
"僕は生きている方に味方するね。きっと人生だって、生きている方に味方するよ。"
我站在生者這邊。我相信生活會眷顧活著的人。
22.
"人なかに出るのがいやで、私は学校を休みがちだつた。ところが、村々で児童の出席率の競争があつて、誘ひ合はせて登校する習はしだつたから、子供たちがそろつて押し寄せて来ると、私の家では雨戸をしめ、老人と私の三人が片隅でひつそりとすくんでゐた。子供たちが声を合はせて呼んでも答へなかつた。
子供たちは悪口雑言し、雨戸に石を投げ、落書きをした。"
— 川端康成「行燈――落花流水」
我討厭與人相處,因此我經常缺席學校。但在村里,孩子們之間存在著出席率的競爭,他們互相勸誘著上學,於是孩子們湧入學校,而在我家中,我們卻關上了門窗,我和老人默默地蜷縮在角落裡。孩子們高聲呼喊,但我們沒有回應。他們惡言相向,向門窗丟石頭,亂寫亂畫。
23.
"お祖父さんの生――死。私は撥をかけたやうに力強く右手を振つてみた。からからと骨が鳴る。
小さい方の骨壺を持つてゐる。
旦那はお気の毒な人だつた。お家のためになつた旦那だつた。村に忘れられない人だ。帰りみちは祖父の話。止めてほしい。悲しむのは私だけだらう。
家に残つた連中も、祖父に死なれてただ一人の私が、これからどうなるだらうと、同情のうちにも、好奇心をまじへてゐるやうに思はれる。— 川端康成「骨拾ひ」"
祖父的生死。我用力揮動右手,像是轉動撥片一樣有力。骨頭嘎吱作響。我拿著一個小骨壺。爺爺是個可憐的人。他為家庭做了許多事情。在村子裡,他是一個難忘的人。回家的路上都是關於祖父的談話。我希望停下來。我可能是唯一悲傷的人。其他留在家中的人,對祖父去世後我將會怎樣,不僅心存同情,也帶著好奇心。
24.
"私の家は旧家である。肉親がばたばたと死んで行つて、十五六の頃から私一人ぽつちになつてゐる。さうした境遇は少年の私を、自分も若死にするだらうと言ふ予感で怯えさせた。
自分の一家は燃え尽くして消えて行く燈火だと思はせた。所詮滅んで行く一族の最後の人が自分なんだと、寂しいあきらめを感じさせた。
今ではもうそんな消極的なことは考へない。
しかし、自分の血統が古び朽ちて敗廃してゐる。
つまり代々の文化的な生活が積み重り積み重りして来た頂上で弱い木の梢のやうに自分が立つてゐる事は感じてゐる。"
— 川端康成「一流の人物」
我家是舊家。親人相繼去世,從十五六歲起,我就一個人孤獨地生活著。這種境遇讓年輕的我感到恐懼,覺得自己也許會早逝。我被認為是家族最後的燈火,注定了家族將會消失的命運,這讓我感到沮喪。現在我不再考慮這樣消極的事情了。但我感覺到我的血脈逐漸老朽,文化生活代代相傳,而我卻像一根脆弱的樹枝站在積垛成山的頂端。
25.
"私はこの愛に温められ、清められ、救はれたのであつた。清野はこの世のものとも思へぬ純真な少年であつた。
それから五十歳まで私はこのやうな愛に出合つたことはなかつたやうである。"
— 川端康成「独影自命」
我曾在這份愛中得到溫暖、淨化和拯救。清野是一個純真到連世間事物都沒有懷疑的少年。直到五十歲之前,我從未遇到過這樣的愛。
26.
"私は幼くから孤児であつて、人の世話になり過ぎてゐる。そのために決して人を憎んだり怒つたりすることの出来ない人間になつてしまつてゐたが、また、私が頼めば誰でもなんでもきいてくれると思ふ甘さは、いまだに私から消えず、何人からも許されてゐる、自分も人に悪意を抱いた覚えはないといふやうな心持と共に、私の日々を安らかならしめてゐる。
これは私の下劣な弱点であつたと考へられぬこともないが、どんな弱点でも持ち続ければ、結局はその人の安心立命に役立つやうにもなつてゆくものだと、この頃では自分を責めないことにしてゐる。"
— 川端康成「文学的自叙伝」
我從小就是孤兒,過度仰賴別人的照顧。因此,我變成了一個無法憎恨或生氣的人,但同時,我仍然保留著一種信念,認為只要我開口,任何人都會聽我說。這種甜蜜感至今仍未消失,讓我感到安心。我從未對任何人抱有惡意,這種心情也讓我感到安心。這可能是我的卑劣弱點,但我現在不再自責,因為我相信,無論是什麼弱點,最終都會對一個人的心靈和生活有所幫助。
27.
"私は精神の打撃に遭ふと、心疲れが来る前に体の衰へるのを感じ、その徴しとして足が痛み出すのである。
さうした心の潰えと体の衰へと、寒さも加はつたせゐの足の痛みで、去年の暮にも、私は湯ヶ島に逃れて来たのであつた。四緑丙午の小娘のためである。"
— 川端康成「湯ヶ島での思ひ出」(「少年」作中)
精神受到打擊時,我會在心理疲憊出現之前感到身體的衰弱,這時我的腳會開始疼痛。心理崩潰和身體衰弱加上寒冷,使得腳痛加劇,去年冬天,我逃到湯島去了。那是為了四緑丙午的小女孩。
28.
"吉原遊廓の池は見た者だけが信じる恐ろしい「地獄絵」であつた。幾十幾百の男女を泥釜で煮殺したと思へばいい。
赤い布が泥水にまみれ、岸に乱れ着いてゐるのは、遊女達の死骸が多いからであつた。
岸には香煙が立ち昇つてゐた。芥川氏はハンケチで鼻を抑へて立つてゐられた。"
— 川端康成「芥川龍之介氏と吉原」
吉原遊廓的池是一幅令人毛骨悚然的「地獄畫」,只有親眼見過的人才會相信。你可以想象數十數百人被投入泥釜中被煮死的景象。紅色的布滿是泥水,岸邊亂七八糟地散落著,那是因為有很多遊女的屍體。岸邊煙霧繚繞,芥川先生手持手帕擋住鼻子站在一旁。
29.
"その時の荷物というのが、お祖母さんの家紋入りの蒲団や風呂敷、手文庫、一閑張りの机のほかに、祖父母が大切にしていたという仏像六、七体とご先祖の舎利まであったのでびっくりいたしました。
なんとご先祖や祖父母を大事になさる方かと感心したことを覚えております。"
— 川端秀子「川端康成とともに」
那時候帶來的行李包括了祖母的蒲團、帶有家紋的風呂敷、手提箱,還有一張小桌子,除此之外,還有六七尊祖父母珍視的佛像和祖先的舍利。我當時感到非常驚訝。我記得當時對他們如何珍惜祖先和祖父母的東西感到非常敬佩。
30.
"世間の一部が風評するやうに、私は新進作家の新奇さのみを、褒めたりおだてたりしてゐるのでは、決してない。
作家的素質の美しさやみづみづしさに触れる喜びで、自分を洗つてゐるのである。"
— 川端康成「文芸時評 中島直人氏」(昭和9年2月1日)
世間中的一部分或許會誤解,以為我只是在讚美新興作家的新奇之處,卻絕不是這樣。我所感受到的是作家的素養之美、深邃之處,這給予了我洗滌自我的喜悅。
31.
"それは時自体が死に、失なはれた時期であつた。そして人々は、混乱し、ばらばらに、国や個人の過去、現在、未来を眺めた。多くの人にとつて、それは、狂つた旋風に巻き込まれたやうなものであつた。
みじめな光景は、この感じによく合つていた。廃墟のつきさすやうな焦げくさい臭い。
圧迫するやうな静けさ。運命の化石した光景。山積された金属くずの赤さび。
限りない広さの廃墟が、砂漠のごとく至るところに拡がつてゐるやうにみえた。それは、希望のない単調なパノラマであつた。"
— 川端康成
那時代已經終結,成為了失落的時期。人們感到困惑,分散在過去、現在和未來的國家和個人之間。對許多人來說,這是被瘋狂旋風捲走的感覺。悲慘景象與這種感覺非常相符。焦糊的燒焦味道。壓抑的寂靜。命運的化石般的景象。堆積如山的金屬銹跡。無盡廢墟的廣闊,彷彿遍布沙漠般延伸。這是一個毫無希望的單調景象。
32.
"私の生涯は「出発まで」もなく、さうしてすでに終つたと、今は感ぜられてならない。
古の山河にひとり還つてゆくだけである。私はもう死んだ者として、あはれな日本の美しさのほかのことは、これから一行も書かうとは思はない。"
— 川端康成「島木健作追悼」
我的一生似乎從未有過開始,現在已經感受到它已經結束。我只是獨自返回古老的山河。作為一個已經死去的人,我不再打算寫下關於日本美麗的事情。
33.
"国を亡ぼした戦争が避けられたのか避けられなかつたのかを、敗戦後の怨み言などが解くものでない。
それを知るのは後世の歴史の眼でもない。かりにまた戦争中に戦争の真実を見得なかつた一人の文学者がありとすれば、その人は戦争後に戦争の真実を見得ようはずはない。
だまされて戦争をしてゐた人間などは一人もゐないのである。
戦争の間にも時間と生命は流れ去つた。"
— 川端康成「武田麟太郎と島木健作」
戰爭是否能夠被避免,這種問題並不是戰敗後的怨言可以解決的。即使是後世的歷史眼睛也不可能知道。假如在戰爭期間有一位文學家沒有看清戰爭的真相,那麼他在戰爭結束後也不可能看清真相。沒有一個人被愚弄而參與戰爭。時間和生命在戰爭期間也在流逝。
34.
"戦争中、殊に敗戦後、日本人には真の悲劇も不幸も感じる力がないといふ、私の前からの思ひは強くなつた。
感じる力がないといふことは、感じられる本体がないといふことであらう。
敗戦後の私は日本古来の悲しみのなかに帰つてゆくばかりである。私は戦後の世相なるもの、風俗なるものを信じない。
現実なるものをあるひは信じない。"
— 川端康成「哀愁」
在戰爭中,尤其是戰敗後,我越來越堅信日本人缺乏感受真正悲劇和不幸的能力。缺乏感受力,意味著缺乏能感受的實體。戰敗後的我只能回歸日本古來的悲傷之中。我不相信戰後社會,不信風俗。有時甚至不信現實。
35.
"「鈴鳴らし行く」巡礼の句は、私の少年のころのふるさとの景である。また秋の野を行く巡礼の鈴のやうなのが、私の日本風の作品との心も含めた。
巡礼である作者の姿は見えなくてよい。巡礼の鈴は哀傷、寂寥のやうだが、その巡礼の旅に出た人の心底には、どのやうな悪鬼、妖魔が棲んでゐるかしれたものではない。
日本の秋の夕映えの野に遠音さす鐘の声のやうに、人の胸にしみて残るのが、自分の作品でありたいかとの心も、この戯句に入れた。"
— 川端康成「夕日野」
「鈴鳴らし行く」的這句巡禮之歌,是我少年時代故鄉的風景。同時,像秋天的原野上行走的巡禮鈴一樣,它也包含了我日本風格作品的心情。作為一個巡禮者,作者的身影不需要被看見。巡禮的鈴聲像哀傷、孤寂,但是那些踏上巡禮之旅的人的內心深處,可能有著各種惡魔和妖魔。就像日本秋天傍晚在田野上回響的鐘聲一樣,希望我的作品也能在人們的心中深深響起,這是我寫這個戲謔句的心願。
36.
"私は東方の古典、とりわけ仏典を、世界最大の文学と信じてゐる。私は経典を宗教的教訓としてでなく、文学的幻想としても尊んでゐる。
「東方の歌」と題する作品の構想を、私は十五年も前から心に抱いてゐて、これを白鳥の歌にしたいと思つてゐる。東方の古典の幻を私流に歌ふのである。
(中略)西方の偉大なリアリスト達のうちには、難行苦行の果て死に近づいて、やうやく遥かな東方を望み得た者もあつたが、私はをさな心の歌で、それに遊べるかもしれぬ。"
— 川端康成「文学的自叙伝」
我相信東方的古典,尤其是佛典,是世界上最偉大的文學。我尊重經典,不僅僅將其視為宗教教訓,也將其視為文學幻想。我心中已經構想了一部名為《東方之歌》的作品,這個構想已有十五年之久,我希望將其創作成一首白鳥之歌。我要以我自己的方式來歌頌東方古典的幻想。(中略)在西方偉大的現實主義作家中,有些人經歷了艱難的苦行,走到了死亡的邊緣,才終於可以遙望遙遠的東方,但我可能會用一種愉快的心情來唱這首歌。