"森 鷗外(もり おうがい、文久2年1月19日〈1862年2月17日〉- 大正11年〈1922年〉7月9日)は、日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、教育者、陸軍軍医(軍医総監=陸軍中将相当)、官僚(高等官一等)。位階勲等は従二位・勲一等・功三級、医学博士、文学博士。石見国津和野(現在の島根県鹿足郡津和野町)出身。本名は森 林太郎(もり りんたろう)。東京大学医学部卒業。大学卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツでも軍医として4年過ごした。
帰国後、訳詩編「於母影」、小説「舞姫」、翻訳「即興詩人」を発表する一方、同人たちと文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入った。その後、日清戦争出征や小倉転勤などにより創作活動から一時期遠ざかったものの、『スバル』創刊後に「ヰタ・セクスアリス」「雁」などを発表。乃木希典の殉死に影響されて「興津弥五右衛門の遺書」を発表後、「阿部一族」「高瀬舟」など歴史小説や史伝「澁江抽斎」なども執筆した。
陸軍を退いた後は宮内省に転じ、帝室博物館(現在の東京国立博物館・奈良国立博物館・京都国立博物館等)総長や図書頭を死去まで務めたほか、帝国美術院(現:日本芸術院)初代院長なども歴任した。
1862年2月17日(文久2年1月19日)、鷗外こと森林太郎は石見国鹿足郡津和野町田村(現・島根県鹿足郡津和野町町田)で生まれた。代々津和野藩の典医を務める森家(禄高は50石)では、祖父と父を婿養子として迎えているため、久々の跡継ぎ誕生であった。
藩医家の嫡男として、幼い頃から『論語』『孟子』といった漢学書とオランダ語などを学び、養老館では四書五経を復読した。当時の記録から、9歳で15歳相当の学力と推測されており、激動の明治維新期に家族と周囲から将来を期待されることになった。
森静男が経営した橘井堂跡の碑
1872年(明治5年)、廃藩置県などをきっかけに10歳の鷗外は父と上京する。現在の墨田区東向島に住む。
東京では、官立医学校(ドイツ人教官がドイツ語で講義)への入学に備えてドイツ語を習得するため、同年10月に私塾の進文学社に入った。その際に通学の便から、鷗外は政府高官の親族である西周の邸宅に一時期寄宿した。
翌年、残る家族も住居などを売却して津和野を離れ、父が経営する医院のある千住に移り住む。
1889年(明治22年)1月3日、『読売新聞』の付録に「小説論」を発表し、さらに同日の『読売新聞』から、弟の三木竹二とともにカルデロンの戯曲「調高矣津弦一曲」(原題:サラメヤの村長)を共訳して随時発表した。その翻訳戯曲を高く評価したのが徳富蘇峰であり、8月に蘇峰が主筆を務める民友社の雑誌『国民之友』夏期文芸付録に、訳詩集「於母影」(署名は「S・S・S」(新声社の略記))を発表した。その「於母影」は、日本近代詩の形成などに大きな影響を与えた。また「於母影」の原稿料50円を元手に、竹二など同人たちと日本最初の評論中心の専門誌『しがらみ草紙』を創刊した(1889年10月-1894年8月。日清戦争の勃発により59号で廃刊)。
このように、外国文学などの翻訳を手始めに(「即興詩人」「ファウスト」などが有名)熱心に評論的啓蒙活動を続けた。当時、情報の乏しい欧州ドイツを舞台にした「舞姫」を蘇峰の依頼により『国民之友』1890年1月に発表した。続いて「うたかたの記」(『しがらみ草紙』1890年8月)、1891年1月28日「文づかひ」(「新著百種」12号)を相次いで発表したが、とりわけ日本人と外国人が恋愛関係になる「舞姫」は、読者を驚かせたとされる。そのドイツ三部作をめぐって石橋忍月と論争を、また『しがらみ草紙』上で坪内逍遥の記実主義を批判して没理想論争を繰り広げた。
1889年(明治22年)に東京美術学校(現・東京藝術大学)の美術解剖学講師を、1890年9月から約2年間東京専門学校の科外講師を、1892年(明治25年)9月に慶應義塾大学の審美学(美学の旧称)講師を委嘱された(いずれも日清戦争出征時と小倉転勤時に解嘱)。
1902年(明治35年)3月、鷗外は第1師団軍医部長の辞令を受け、新妻とともに東京に赴任した。6月、廃刊になっていた『めざまし草』と上田敏の主宰する『芸苑』とを合併し、『芸文』を創刊(その後、出版社とのトラブルで廃刊したものの、10月に後身の『万年艸』を創刊)。当時は、12月に初めて戯曲を執筆するなど、戯曲に関わる活動が目立っていた。
1904年(明治37年)2月から1906年(明治39年)1月まで、鷗外は日露戦争に第2軍軍医部長(最初発令の時は乙軍といわれた)として出征。奥保鞏大将の幕下に属す。
1907年(明治40年)10月、陸軍軍医総監(中将相当)に昇進し、陸軍省医務局長(人事権を持つ軍医のトップ)に就任した。
同年9月、美術審査員に任じられ、第1回文部省美術展覧会(初期文展)西洋画部門審査の主任を務めた[18]。
1909年(明治42年)に『スバル』が創刊されると、同誌に毎号寄稿して創作活動を再開した(木下杢太郎のいう「豊熟の時代」)。「半日」「ヰタ・セクスアリス」「鶏」「青年」などを同誌に載せ、「仮面」「静」などの戯曲を発表。『スバル』創刊年の7月、鷗外は、東京帝国大学から文学博士の学位を授与された。しかし、直後に「ヰタ・セクスアリス」(同誌7月号)が発売禁止処分を受けた。しかも、内務省の警保局長が陸軍省を訪れた8月、鷗外は陸軍次官・石本新六から戒飭(かいちょく)された。同年12月、「予が立場」でレジグナチオン(諦念)をキーワードに自らの立場を明らかにした。
1910年(明治43年)、慶應義塾大学の文学科顧問に就任(教授職に永井荷風を推薦)し、慶應義塾大学幹事の石田新太郎の主導により、上田敏を顧問に、永井荷風を主幹にして、「三田文學」を創刊した。またその年には、5月に大逆事件の検挙が始まり、9月に『東京朝日新聞』が連載「危険なる洋書」を開始して6回目に鷗外と妻の名が掲載され、また国内では南北朝教科書問題が大きくなりつつあった。そうした閉塞感が漂う年に「ファスチェス」で発禁問題、「沈黙の塔」「食堂」では社会主義や無政府主義に触れるなど政治色のある作品を発表した。
1911年(明治44年)にも「カズイスチカ」「妄想」を発表し、「青年」の完結後、「雁」と「灰燼」の2長編の同時連載を開始。同年4月の「文芸の主義」(原題:文芸断片)では、冒頭「芸術に主義というものは本来ないと思う。」としたうえで、と結んだ。
また陸軍軍医として、懸案とされてきた軍医の人事権をめぐり、陸軍次官の石本新六と激しく対立した。ついに医務局長の鷗外が石本に辞意を告げる事態になった。結局のところ陸軍では、医学優先の人事が継続された。階級社会の軍隊で、それも一段低い扱いを受ける衛生部の鷗外の主張が通った背景の一つに、山縣有朋の存在があったと考えられている。
1912年(明治45年)から翌年にかけて、五条秀麿を主人公にした「かのやうに」「吃逆」「藤棚」「鎚一下」の連作を、また司令官を揶揄するなど戦場体験も描かれた「鼠坂」[注釈 36]などを発表した。当時は、身辺に題材をとった作品や思想色の濃い作品や教養小説や戯曲などを執筆した。もっとも公務のかたわら、『ファウスト』などゲーテの3作品をはじめ、外国文学の翻訳・紹介・解説も続けていた。
1912年(大正元年)8月、「実在の人間を資料に拠って事実のまま叙述する、鷗外独自の小説作品の最初のもの」である「羽鳥千尋」を発表。翌9月13日、乃木希典の殉死に影響を受けて5日後に「興津弥五右衛門の遺書」(初稿)を書き終えた。
これを機に歴史小説[注釈 38]に進み、歴史其儘の「阿部一族」、歴史離れの「山椒大夫」「高瀬舟」などのあと、史伝「渋江抽斎」(『大阪毎日』『東京日日』1916年1月13日-5月20日)に結実した。ただし、1915年(大正4年)頃まで、現代小説も並行して執筆していた。1916年(大正5年)には、後世の鷗外研究家や評論家から重要視される随筆「空車」(むなぐるま)を、1918年(大正7年)1月には随筆「礼儀小言」を著した。
鷗外は自らが専門とした文学・医学、両分野において論争が絶えない人物であった。文学においては理想や理念など主観的なものを描くべきだとする理想主義を掲げ、事物や現象を客観的に描くべきだとする写実主義的な没理想を掲げる坪内逍遥と衝突する。また医学においては近代の西洋医学を旨とし、和漢方医と激烈な論争を繰り広げたこともある。和漢方医が7割以上を占めていた当時の医学界は、ドイツ医学界のような学問において業績を上げた学者に不遇であり、日本の医学の進歩を妨げている、大卒の医者を増やすべきだ、などと批判する。松本良順など近代医学の始祖と呼ばれている長老をはじめ専門医は誰も相手にしなかったが、鷗外は新聞記者などを相手にして6年ほど論争を続けた。
鷗外の論争癖を発端として論争が起きたこともある。逍遥が『早稲田文学』にシェークスピアの評釈に関して加えた短い説明に対し、批判的な評を『しがらみ草紙』に載せたことから論争が始まった。このような形で鷗外が関わってきた論争は「戦闘的啓蒙主義」などと好意的に評されることもあるが、啓蒙家の名に値するといえるのか疑問視する見方もある。30歳代になると、日清戦争後に『めさまし草』を創刊して「合評」をするなど、評論的活動は、穏健なものに変わっていったことから、小倉時代に「圭角が取れた」という家族の指摘もある。
肩書きの多いことに現れているように、鷗外は文芸活動の幅も広かった。たとえば、訳者としては、上記の訳詩集「於母影」(共訳)と、1892年(明治25年)–1901年(明治34年)に断続的に発表された「即興詩人」とが初期の代表的な仕事である。「於母影」は明治詩壇に多大な影響を与えており、「即興詩人」は、流麗な雅文で明治期の文人を魅了し、その本を片手にイタリア各地を周る文学青年(正宗白鳥など)が続出した。
戯曲の翻訳も多く(弟の竹二が責任編集を務める雑誌『歌舞伎』に掲載されたものは少なくない)、歌劇(オペラ)の翻訳まで手がけていた。
ちなみに、訳語(和製漢語)の「交響楽、交響曲」を作っており、6年間の欧米留学を終えた演奏家、幸田延(露伴の妹)と洋楽談義をした(「西楽と幸田氏と」)。そうした外国作品の翻訳だけでなく、帰国後から演劇への啓蒙的な評論も少なくない。
翻訳は、文学作品を超え、ハルトマン『審美学綱領』のような審美学(美学の旧称)も対象になった。単なる訳者にとどまらない鷗外の審美学は、坪内逍遥との没理想論争にも現れており、田山花袋にも影響を与えた。その鷗外は、上記の通り東京美術学校(現東京芸術大学)の嘱託教員(美術解剖学・審美学・西洋美術史)をはじめ、慶應義塾大学の審美学講師、「初期文展」西洋画部門などの審査員、帝室博物館総長や帝国美術院初代院長などを務めた。
交際も広く、その顔ぶれが多彩であった。しかし、弟子を取ったり文壇で党派を作ったりすることはなかった。ドイツに4年留学した鷗外は、閉鎖的で縛られたような人間関係を好まず、西洋風の社交的なサロンの雰囲気を好んでいたとされる。官吏生活の合間も、書斎にこもらず、同人誌を主宰したり、自宅で歌会を開いたりして色々な人々と交際した。
文学者・文人に限っても、訳詩集「於母影」は5人による共訳であり、同人誌の『しがらみ草紙』と『めさまし草』にも多くの人が参加した。とりわけ、自宅(観潮楼)で定期的に開催された歌会が有名である。その観潮楼歌会は、1907年(明治40年)3月、鷗外が与謝野鉄幹の「新詩社」系と正岡子規の系譜「根岸」派との歌壇内対立を見かね、両派の代表歌人を招いて開かれた。以後、毎月第一土曜日に集まり、1910年(明治43年)4月まで続いた。伊藤左千夫・平野万里・上田敏・佐佐木信綱等が参加し、「新詩社」系の北原白秋・吉井勇・石川啄木・木下杢太郎、「根岸」派の斎藤茂吉・古泉千樫等の新進歌人も参加した(与謝野晶子を含めて延べ22名)。
また、当時としては女性蔑視が少なく、樋口一葉をいち早く激賞しただけでなく、与謝野晶子と平塚らいてうも早くから高く評価した。晶子(出産した双子の名付け親が鷗外)やらいてうや純芸術雑誌『番紅花』(さふらん)を主宰した尾竹一枝など、個性的で批判されがちな新しい女性達とも広く交際した。その鷗外の作品には、女性を主人公にしたものが少なくなく、ヒロインの名を題名にしたものも複数ある(「安井夫人」、戯曲「静」、「花子」、翻訳戯曲「ノラ」(イプセン作「人形の家」))。
晩年、『東京日日新聞』に連載した「渋江抽斎」などの史伝作品は読者および編集者からの評判が悪く、その評価は必ずしも芳しいものではなかった。没後、新潮社と他二社とが全集18巻の刊行を引き受けたので、かろうじて面目が立った。1936年(昭和11年)、木下杢太郎ら鷗外を敬愛する文学者らの尽力によって岩波書店から『鷗外全集』が『漱石全集』と並んで刊行され、権威があると思われるようになった。
小林勇によると晩年の幸田露伴は鷗外について、「森という男は恐ろしく出世したい根性の人だった」「森という男は蓄財の好きなやつさ。心は冷い男だ。なにもかも承知していて表に出さぬ」と語ったという。"
森鷗外(もり おうがい,文久2年1月19日〈1862年2月17日〉- 大正11年〈1922年〉7月9日)是日本明治大正時期的小說家、評論家、翻譯家、教育家、陸軍軍醫(軍醫總監=陸軍中將相當)、官僚(高等官一等)。位階勳等是從二位・勳一等・功三級,擁有醫學博士、文學博士學位。出生於石見國津和野(現在的島根縣鹿足郡津和野町)。本名森林太郎(もり りんたろう)。畢業於東京大學醫學部。大學畢業後,成為陸軍軍醫,並作為陸軍省派遣留學生在德國擔任軍醫4年。
回國後,發表了譯詩集「於母影」、小說「舞姫」、翻譯作品「即興詩人」,同時與同人創辦文藝雜誌『しがらみ草紙』並開始文筆活動。後來因日清戰爭出征和小倉調職等原因,一度暫停創作活動,但在『スバル』創刊後發表了「ヰタ・セクスアリス」「雁」等作品。受到乃木希典殉死的影響後發表了「興津弥五右衛門的遺書」,並創作了「阿部一族」「高瀬舟」等歷史小說和史傳「澁江抽斎」。
離開陸軍後,轉至宮內省工作,擔任帝室博物館(現在的東京國立博物館・奈良國立博物館・京都國立博物館等)總長和圖書頭,直到去世。此外,也曾擔任帝國美術院(現:日本藝術院)初代院長。
1862年2月17日(文久2年1月19日),森林太郎出生於石見國鹿足郡津和野町田村(現・島根縣鹿足郡津和野町町田)。在津和野藩擔任典醫的森家(俸祿為50石)中,由於祖父和父親都是外來的養子,他的出生被視為久違的家族繼承人。
作為藩醫家的長子,從小學習《論語》《孟子》等漢學書籍和荷蘭語,在養老館復讀四書五經。根據當時的記錄,他在9歲時的學力相當於15歲,因而在動盪的明治維新期間,家人和周圍人都對他的未來抱有期望。
1872年(明治5年),因廢藩置縣等原因,10歲的鷗外與父親上京,在現在的墨田區東向島定居。
在東京,為了準備進入官立醫學校(由德國人教官用德語授課),他於同年10月加入私塾進文學社學習德語。因為上學方便,他一度寄宿在政府高官西周的家中。
隔年,家中其餘成員也將住宅賣出,離開津和野,搬到父親經營的醫院所在地千住。
1889年(明治22年)1月3日,在《讀賣新聞》的附錄上發表了「小說論」,並在同日的《讀賣新聞》上,與弟弟三木竹二合譯了卡爾德隆的戲劇「調高矣津弦一曲」(原題:薩拉梅亞的村長),並逐步發表。德富蘇峰對這翻譯戲劇給予高度評價,蘇峰於8月在他主筆的民友社雜誌《國民之友》夏期文藝附錄上,發表了譯詩集「於母影」(署名為「S・S・S」(新聲社的簡稱))。這個「於母影」對日本近代詩的形成有著重大的影響。此外,他用「於母影」的原稿費50圓作為資金,與竹二等同人創辦了日本第一本評論為主的專業雜誌《しがらみ草紙》(1889年10月-1894年8月,因日清戰爭爆發而在第59期停刊)。
鷗外從翻譯外國文學(如「即興詩人」「浮士德」等著名作品)開始,繼續積極進行評論啓蒙活動。當時,他應蘇峰之邀,在《國民之友》1890年1月發表了以資訊匱乏的歐洲德國為背景的「舞姫」。接著在《しがらみ草紙》1890年8月發表了「うたかたの記」,在1891年1月28日的「新著百種」第12期上發表了「文づかひ」。特別是描述日本人與外國人戀愛關係的「舞姫」,讓讀者感到驚訝。他圍繞這德國三部曲與石橋忍月進行辯論,並在《しがらみ草紙》上批評坪內逍遙的記實主義,展開了無理想論爭。
1889年(明治22年),森鷗外擔任了東京美術學校(現・東京藝術大學)的美術解剖學講師,從1890年9月開始大約兩年間擔任東京專門學校的科外講師,並在1892年(明治25年)9月被委任為慶應義塾大學的審美學(美學的舊稱)講師(這些職位都是在日清戰爭出征時和小倉調職時終止)。1902年(明治35年)3月,鷗外接受了第1師團軍醫部長的任命,與新婚妻子一同前往東京赴任。6月,他合併了已經停刊的《めざまし草》和上田敏主持的《芸苑》,創辦了《芸文》(後因出版社的糾紛而停刊,但在10月創辦了後繼的《万年艸》)。當時,他在12月首次執筆戲劇,涉足戲劇相關活動變得更加顯著。1904年(明治37年)2月至1906年(明治39年)1月間,鷗外作為第2軍軍醫部長(最初被稱為乙軍)參加了日俄戰爭。他隸屬於奧保鞏大將的幕下。1907年(明治40年)10月,鷗外晉升為陸軍軍醫總監(相當於中將),並就任陸軍省醫務局長(擁有人事權的軍醫領導者)。同年9月,他被任命為美術審查員,並擔任了第1回文部省美術展覽會(初期文展)西洋畫部門審查的主任[18]。1909年(明治42年)《スバル》創刊後,鷗外在該雜誌上每期都有投稿,重新開始了創作活動(木下杢太郎所說的「豐熟的時代」)。他在該雜誌上發表了「半日」「ヰタ・セクスアリス」「雞」「青年」等作品,並發表了「仮面」「静」等戲劇作品。在《スバル》創刊年的7月,鷗外獲得了東京帝國大學頒發的文學博士學位。然而,隨後「ヰタ・セクスアリス」(該雜誌7月號)遭到禁售處分。更糟糕的是,在8月內務省警保局長訪問陸軍省時,鷗外被陸軍次官石本新六警告(かいちょく)。同年12月,他在「予が立場」一文中以辭世(レジグナチオン)為關鍵詞,明確表達了自己的立場。1910年(明治43年),鷗外就任慶應義塾大學文學科顧問(並推薦永井荷風為教授),在慶應義塾大學幹事石田新太郎的主導下,與上田敏一起擔任顧問,永井荷風為主編,創辦了《三田文學》。同年5月,隨著大逆事件的檢舉開始,9月《東京朝日新聞》連載「危險なる洋書」,並在第6期提到鷗外及其妻子的名字,同時國內南北朝教科書問題也日益嚴重。在這種壓抑感漂浮的一年中,他發表了具有政治色彩的作品,如「ファスチェス」引起的禁止問題,「沈黙の塔」「食堂」中觸及了社會主義和無政府主義等內容。1911年(明治44年),鷗外發表了「カズイスチカ」「妄想」,在「青年」完結後,同時開始連載兩部長篇小說「雁」和「灰燼」。同年4月的「文芸の主義」(原題:文芸断片)一文中,他在開頭就寫道「我認為藝術本來就沒有所謂的主義。」,並以此作結。同時,作為陸軍軍醫,他在軍醫人事權的問題上與陸軍次官石本新六發生了激烈的衝突。最終鷗外作為醫務局長向石本表達了辭職的意向。結果,在陸軍中,以醫學為優先的人事安排得以延續。在階級社會的軍隊中,尤其是處於相對低下地位的衛生部的鷗外能夠主張通過,其中一個原因被認為是山縣有朋的存在。
從1912年(明治45年)到翌年,森鷗外以五條秀麿為主人公發表了「かのやうに」「吃逆」「藤棚」「鎚一下」一系列作品,同時還發表了揶揄司令官等描寫戰場體驗的「鼠坂」[注釈 36]等作品。當時,他創作了以自身經歷為題材的作品、帶有濃厚思想色彩的作品,以及教養小說和戲劇等。此外,在公務之餘,他也持續翻譯和介紹外國文學作品,並撰寫解說,如歌德的三部作品「浮士德」等。
1912年(大正元年)8月,鷗外發表了「以實際人物為資料,依照事實敘述的,是鷗外獨特的小說作品的第一個」作品「羽鳥千尋」。翌年9月13日,受到乃木希典殉死的影響,五天後完成了「興津弥五右衛門的遺書」(初稿)。
這成為他進入歷史小說[注釈 38]領域的契機,先後發表了忠於歷史的「阿部一族」,脫離歷史的「山椒大夫」「高瀬舟」,最終以史傳「渋江抽斎」(在『大阪每日』『東京日日』1916年1月13日-5月20日連載)達到高峰。然而,直到1915年(大正4年)左右,他仍然並行創作現代小說。1916年(大正5年),他發表了被後世鷗外研究家和評論家重視的隨筆「空車」(むなぐるま),1918年(大正7年)1月發表了隨筆「禮儀小言」。
鷗外在自己專攻的文學和醫學兩個領域中,都是一個爭論不斷的人物。在文學領域,他主張應該描寫理想、理念等主觀事物的理想主義,與主張應該客觀描寫事物和現象的寫實主義者坪內逍遙發生衝突。在醫學領域,他提倡近代西方醫學,與和漢方醫生進行了激烈的爭論。當時,和漢方醫生佔據了醫學界超過7成,他批評日本醫學界不像德國醫學界那樣重視學術成就,認為這阻礙了日本醫學的進步,主張應該增加大學畢業的醫生數量。雖然當時的專業醫生如近代醫學的先驅松本良順等人都沒有參與這些爭論,但鷗外持續與新聞記者等進行了大約6年的爭論。
有時候,是鷗外好辯的個性引發了爭論。例如,逍遙在《早稻田文學》上對莎士比亞的評釋加了簡短的說明,鷗外在《しがらみ草紙》上發表了批評性評論,由此引發爭議。鷗外參與的這類爭論有時被好意評價為「戰鬥性啟蒙主義」,但也有人質疑是否真的值得以啟蒙家之名。到了30多歲時,他在日清戰爭後創辦了《めさまし草》,進行「合評」等評論活動,逐漸轉變為溫和的風格,家人也指出他在小倉時代「圭角被磨平」了。
正如他的眾多頭銜所顯示的那樣,鷗外在文藝活動上的範圍也非常廣泛。例如,作為譯者,他早期的代表作品包括上文提到的譯詩集「於母影」(共譯)和1892年(明治25年)至1901年(明治34年)間斷斷續續發表的「即興詩人」。「於母影」對明治詩壇產生了巨大影響,「即興詩人」則以其流暢優雅的文筆迷住了明治時期的文人,以此書為伴遊覽意大利各地的文學青年(如正宗白鳥等)也相繼出現。
鷗外翻譯的戲劇作品也很多(其中不少刊登在由弟弟竹二負責編輯的雜誌《歌舞伎》上),甚至還涉足了歌劇(歌劇)的翻譯。
順帶一提,他還創造了和製漢語「交響樂、交響曲」這個譯詞,並與完成了6年歐美留學的演奏家幸田延(幸田露伴的妹妹)進行了西洋音樂對話(「西樂和幸田氏」)。除了這些外國作品的翻譯,鷗外也撰寫了不少關於戲劇的啟蒙性評論。
鷗外的翻譯不僅限於文學作品,還包括像哈特曼的《審美學綱領》這樣的審美學(美學的舊稱)作品。他不僅僅是一位翻譯者,他的審美學見解也在與坪內逍遙的無理想論爭中表現出來,並對田山花袋等人產生了影響。如上所述,鷗外曾擔任東京美術學校(現東京藝術大學)的嘱託教員(美術解剖學、審美學、西洋美術史),慶應義塾大學的審美學講師,「初期文展」西洋畫部門等的評審員,並且還擔任過帝室博物館總長和帝國美術院的首任院長等職務。
鷗外的交際圈也非常廣泛,其交往的人物五彩繽紛。然而,他並未收徒或在文壇形成派系。留學德國4年的鷗外,不喜歡封閉和受束縛的人際關係,更傾向於西洋風的社交性沙龍氛圍。即使在官吏生活中,他也不會關閉在書房裡,而是主持同人雜誌,或在自家舉辦詩歌會,與各界人士交往。
即使僅限於文學家、文人,譯詩集「於母影」就是五人共同翻譯的,同人雜誌《しがらみ草紙》和《めざまし草》也有許多人參與。特別是,他在自己的家(観潮樓)定期舉辦的歌會非常有名。観潮樓歌會始於1907年(明治40年)3月,當時鷗外看不慣「新詩社」系的與謝野鐵幹和正岡子規的「根岸」派在歌壇的內部對立,於是邀請了兩派的代表歌人參加。從那之後,每月的第一個星期六都會聚集,一直持續到1910年(明治43年)4月。參與者包括伊藤左千夫、平野萬里、上田敏、佐佐木信綱等,「新詩社」系的北原白秋、吉井勇、石川啄木、木下杢太郎,「根岸」派的斎藤茂吉、古泉千樫等新興歌人也參加了(包括與謝野晶子在內,共22人參加)。
在當時,女性蔑視的現象較少,森鷗外不僅是最早極力讚揚樋口一葉的人之一,他也很早就高度評價了與謝野晶子和平塚雷鳥。晶子(雙胞胎的名字由鷗外命名)和雷鳥,以及主持純藝術雜誌《番紅花》(さふらん)的尾竹一枝等個性鮮明、常受批評的新時代女性都與鷗外有廣泛的交往。鷗外的作品中不乏以女性為主角的,其中有一些作品的標題就是以女主角的名字命名(如「安井夫人」、戲劇「静」、「花子」、翻譯戲劇「ノラ」(易卜生作「玩偶之家」))。
晚年,鷗外在《東京日日新聞》連載的史傳作品如「渋江抽斎」等並不受讀者和編輯的好評,其評價並不一定是好的。過世後,新潮社和其他兩家出版社承接了全集18卷的出版,這才勉強保住了面子。1936年(昭和11年),由木下杢太郎等敬愛鷗外的文學家們的努力,岩波書店出版了《鷗外全集》,與《漱石全集》齊名,被認為是有權威的。
據小林勇所述,晚年的幸田露伴曾經這樣評價鷗外:「。他是個心冷如冰的男人。看盡世間萬物萬事事,但從不表露出來。」
1.
"足ることを知ることこそが、幸福である。"
幸福就是知道自己已經足夠了。
2.
"己の感情は己の感情である。己の思想も己の思想である。天下に一人もそれを理解してくれなくたって、己はそれに安じなくてはならない。"
你的感受就是你的感受。你的想法也是你的想法。即使世界上沒有人理解這一點,我也必須坦然接受。
3.
"日の光を借りて照る大いなる月たらんよりは、自ら光を放つ小さな灯火たれ。"
它不是閃耀著陽光的大月亮,而是一盞自己發出光芒的小燈。
4.
"生あるものは必ず滅する。老木の朽枯れる傍で、若木は茂り栄えて行く。"
所有生物都必須滅亡。當老樹腐爛枯萎時,年輕的樹才會變得更加茂密和茂盛。
5.
"武士はいざという時には飽食はしない。しかしまた空腹で大切な事に取り掛かることもない。"
武士戰爭時期無法飽食。就向因為飢餓而無法開始做重要的事情。
6.
"一々のことばを、はかりの皿に載せるような事をせずに、なんでも言いたい事を言うのは、われわれ青年の特権だね。"
年輕人有權利隨心所欲地暢所欲言,而不用逐字逐句地衡量。
7.
"一匹の人間が持っているだけの精力を、一事に傾注すると、実際、不可能な事はなくなるかも知れない。"
一個人如果把所有的精力都投入到一件事上,沒有什麼是不可能的。
8.
"日本製の地球儀を眺めると、日本が赤く塗られていますでしょ。世界全体から見ると、日本語圏はあれっぽっちです。そこだけの価値観で一生を過ごすのは、もったいないですよ"
如果看日本製造的地球儀,會看到日本被塗成紅色。當放眼整個世界時,日語世界是世界上唯一的一個。如果人的一生只停留在這些價值觀上,那就太可惜了。
9.
"苦難が大きすぎて、自分ひとりの力で支え切れない場合には、家族から身を隠して一人で泣きなさい。そして、苦悩を涙とともに洗い流したら、頭をあげて胸を張り、家族を激励するために家に戻りなさい。"
如果困難太大,甚至難以承受,那就躲著家人,獨自哭泣。接著,當你用淚水洗去痛苦後,抬起頭,挺起胸膛,回家鼓勵家人。
10.
"富人(ふじん)が金を得れば、悪業が増長する。貧人(ひんじん)が金を得れば堕落の梯(はしご)を降って行く。"
富人有了錢,他們的惡業就會增加。當窮人賺到錢時,他們就會走下墮落的階梯。
11.
"実に敵という敵の中で山の神ほど恐ろしい敵はない。"
確實,在所有的敵人之中,沒有比山神更可怕的了。
12.
"善とは、家畜の群れのような人間と去就を同じうする道にすぎない。それを破ろうとするのは悪だ。"
善無非是一條讓人類與牲畜不同命運的道路。試圖破壞它是絕對的邪惡。
13.
"打ち明け過ぐるも悪(あ)しく、物隠すように見ゆるも悪しきなり。"
公開太多不好,隱藏太多也不好。
14.
"私は学殖なきを憂うる。常識なきを憂えない。天下は常識に富める人の多きに堪えない。"
我擔心缺乏教育。不用擔心缺乏常識。這個世界容不下太多富有常識的人。
15.
"みんなが誉めるのは、おべっかである。六割が誉めて四割がけなすのが人材である。"
人人稱讚的都是阿諛奉承。有價值的人才是60%的讚揚和40%的貶低。
16.
"人の長を以て我が長を継がんと欲するなかれ。"
不要希望別人的首領接替你的領袖。
17.
"友の変じて敵となるものあり。"
有些朋友變成了敵人。
18.
"少壮時代に心の田地に卸(おろ)された種子は、容易に根を断つことの出来ないものである。"
青春年少時在我們心靈的田野裡種下的種子,是不能輕易割斷的。
19.
"おれなんぞの顔は閲歴がだんだんに痕(こん)を刻み付けた顔で、親に産み付けてもらった顔とは違う。"
我的面容是由我的歷史逐漸塑造出來的,和我父母給我的面貌不同。
20.
"本当の音楽をしていれば、絶対に報われないということはない。"
如果你做的是真正的音樂,你永遠不會得不到回報。
21.
"女はどんな正直な女でも、その時心に持っている事を隠して外(ほか)の事を言うのを、男ほど苦にはしない。"
不管女人多誠實,在隱藏自己的想法和說題外話這方面,不像男人那麼笨拙。