"安部 公房(あべ こうぼう、1924年(大正13年)3月7日 - 1993年(平成5年)1月22日)は、日本の小説家、劇作家、演出家。東京府北豊島郡(現在の東京都北区)出身。本名は安部 公房(あべ きみふさ)。「ノーベル文学賞に最も近い人物」とノーベル委員会から評価を得ていた中、脳内出血により急死した。昭和中期から平成初期にかけて活躍した現代日本文学を代表する作家の一人である。
東京府で生まれ、満洲で少年期を過ごす。高校時代からリルケとハイデッガーに傾倒していたが、戦後の復興期にさまざまな芸術運動に積極的に参加し、ルポルタージュの方法を身につけるなど作品の幅を広げ、三島由紀夫らとともに第二次戦後派の作家とされた。作品は海外でも高く評価され、世界30数か国で翻訳出版されている。
主要作品は、小説に『壁 - S・カルマ氏の犯罪』 (芥川賞受賞)、『砂の女』 (読売文学賞受賞)、『他人の顔』『燃えつきた地図』『箱男』『密会』など、戯曲に『幽霊はここにいる』『友達』『棒になった男』『緑色のストッキング』などがある。演劇集団「安部公房スタジオ」を立ちあげて俳優の養成にとりくみ、自身の演出による舞台でも国際的な評価を受けた。晩年はノーベル文学賞の有力候補と目された。ノーベル文学賞委員会のペール・ベストベリー委員長は読売新聞のインタビューで、「急死しなければ、ノーベル文学賞を受けていたでしょう。」と述べている。
北海道開拓民の両親をもつ安部浅吉と井村よりみの二男二女の長男として、1924年 (大正13年) 3月7日、東京府北豊島郡滝野川町 (現東京都北区西ケ原) に生まれる。 本籍地は北海道上川郡東鷹栖町 (現旭川市)。1923年 (大正12年)、満洲医科大学 (現中国医科大学) の医師であった浅吉は勤務先の奉天市から一時出向していた東京でよりみと結婚。翌年、よりみは公房を妊娠中に唯一の小説『スフィンクスは笑う』 (異端社)を上梓するが、以後は一切の筆を折った。
1925年 (大正14年)、生後8ヵ月の安部公房は家族と共に満洲に渡り、奉天の日本人地区で幼少期を過ごした。小学校での実験的な英才教育「五族協和」の理念は、後に安部の作品や思想へ大きな影響を及ぼした。1937年 (昭和12年) 4月、旧制奉天第二中学校に入学。奉天の実家にあった新潮社の世界文学全集や第一書房の近代劇全集などを読み、特にエドガー・アラン・ポーの作品に感銘を受ける。1940年 (昭和15年)、中学校を4年で飛び級して卒業。日本に帰国し旧制成城高等学校 (現成城大学) 理科乙類に入学。ドイツ語教師の阿部六郎 (阿部次郎の実弟) からの影響で戯曲や実存主義文学を耽読する。在学中、高木貞治の『解析概論』を愛読し、成城始まって以来の数学の天才と称された。
同年冬に、軍事教練の影響で風邪をこじらせ肺浸潤を発症。一時休学し、奉天の実家に帰り療養。恢復を待って1942年 (昭和17年) 4月に復学。同年12月9日、エッセイ『問題下降に依る肯定の批判』を書き、翌年2月に発行された高校の校友会誌「城」の第40号に掲載される。これが安部の活字化された最初の作品となった。
1943年 (昭和18年) 3月、戦時下のため繰上げ卒業。この頃、安部の初の小説とされる『(霊媒の話より) 題未定』を書く[6]。同年10月、東京帝国大学医学部医学科に入学。1944年、文科系学生の徴兵猶予が取り消されて次々と戦場へ学徒出陣していく中、「次は理科系が徴兵される番だ」という想いと「敗戦が近い」という噂から家族の安否を気遣い、同年末に大学に無断で満洲に帰るが、友人が代返をして取り繕ってくれていた。1945年 (昭和20年)、奉天で開業医をしていた父の手伝いをしていた頃に召集令状が届くが、入営前に8月15日の終戦を迎えた。同年冬、発疹チフスが大流行して、診療にあたっていた父が感染して死亡する。
1946年 (昭和21年)、敗戦のために家を追われ、奉天市内を転々としながらサイダー製造などで生活費を得る。同年の暮れに引き揚げ船にて帰国。北海道の祖父母宅へ家族を送りとどけたのち帰京する。以後、安部は中国を再訪することはなく、小説家としても満洲における体験を書くことはなかった。
1947年 (昭和22年) 3月、女子美術専門学校 (現女子美術大学) の学生で日本画を専攻していた山田真知子 (後年、安部真知名義で安部の著書の装幀や芝居の舞台美術を手掛ける) と結婚し、それまで真知子が住んでいたアパートで同居生活を始める。同年、安部は満洲からの引き揚げ体験のイメージに基づく『無名詩集』を、謄写版印刷により自費出版する。ライナー・マリア・リルケやマルティン・ハイデッガーの影響を受けたこの62ページの詩集には、失われた青春への苦悩と現実との対決の意思が強く込められていた。
1948年 (昭和23年)、東大医学部を卒業。ただし、医師にならないことを前提とした条件付きの卒業単位付与であり、医師国家試験は受験しなかった。
同年、安部は「粘土塀」と題した処女長篇を、成城高校時代のドイツ語教師・阿部六郎のもとに持ち込んだ。この長篇は、一切の故郷を拒否する放浪の末に、満洲の匪賊の虜囚となった日本人青年が書き綴った、3冊のノートの形式を取った物語であったが、阿部六郎はこの作品を文芸誌『近代文学』の編集者の1人である埴谷雄高に送った。埴谷はただちに安部の才能を認めたが、当時の「近代文学」の編集は合議制であり、埴谷は同人の平野謙に却下されることを危惧し、他の雑誌へ安部を推挙した。その結果「粘土塀」の内の「第一のノート」が翌年2月の「個性」に掲載された。これが安部にとってはじめての商業誌への作品発表となる。これがきっかけとなり、安部は埴谷、花田清輝、岡本太郎らが運営する「夜の会」に参加。埴谷、花田らの尽力により、1948年10月、「粘土塀」は『終りし道の標べに』と改題され、真善美社から単行本で上梓された。
1949年 (昭和24年) 4月、初めてシュルレアリスムの手法を採り入れた短篇小説、『デンドロカカリヤ』を発表する。
1950年 (昭和25年)、勅使河原宏や瀬木慎一らと共に「世紀の会」を結成。埴谷によると、この時期の安部は食うや食わずの極貧で、売血をしながら何とか生活をしているという有様であり、埴谷は幾度か安部に生活費をカンパしたほどだったという。 同年夏ごろ、日本共産党に入党。1951年 (昭和26年)、「近代文学」2月号に安部の短篇「壁 - S・カルマ氏の犯罪」が掲載される。これは、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」に触発された作品であり、テーマとして満洲での原野体験や、花田清輝の鉱物主義の影響が見られる超現実主義的な内容である。
「壁 - S・カルマ氏の犯罪」は1951年上半期の第25回芥川賞の候補となり、選考委員の宇野浩二からは酷評されたものの、川端康成と瀧井孝作の強い推挙が決め手となり、同じく候補に挙げられていた石川利光の『春の草』とともに受賞を果たす。川端は『壁』のような作品の出現に今日の必然性を感じ、新味があり好奇心をそそったとしている。同年5月28日、この短篇は「S・カルマ氏の犯罪」と改題され、短篇「バベルの塔の狸」と、4つのパートからなる中篇「赤い繭」を加え、石川淳の序文、勅使河原宏による装幀、桂川寛の挿絵を得て、安部の最初の短篇集『壁』が刊行された。
同年、友人である赤塚徹の伝手で画家の黒崎義介が茗荷谷に所有していた敷地内の納屋を借り、真知や友人たちの手を借りて改装し転居する。11月、短篇小説『闖入者』を発表。 1952年 (昭和27年) 5月、江馬修、徳永直、野間宏、藤森成吉らとともに『人民文学』に参加。『人民文学』が『新日本文学』と合流した後は新日本文学会に移る。6月、短篇小説『水中都市』を発表。
1960年 (昭和35年) 3月、前年放送のドラマ『日本の日蝕』を再び戯曲化し、舞台劇『巨人伝説』として劇団俳優座により上演。6月、長篇小説『石の眼』を発表。9月、短篇小説『チチンデラ・ヤパナ』を発表。同月より子供向けのラジオドラマ『お化けが街にやって来た』を益田喜頓ほかの出演により1年間放送。10月20日、ルポルタージュの手法を採り入れたテレビドラマ『煉獄』放送。同月26日、安保闘争をテーマとした戯曲『石の語る日』を千田是也の演出、林光の音楽、久米明ほかの出演により、中国にて試演。翌27日には小説「赤い繭」をラジオドラマ化した『ラジオのための作品 赤い繭』を諸井誠の音楽、芥川比呂志ほかの出演で、NHK第2放送およびNHK-FM実験放送にて放送。12月15日、初めて自己の年譜を書く。クリスマスには子供向けのミュージカル・コメディ『お化けの島』を南美江ほかの出演にて上演。 1961年 (昭和36年)、日本共産党が綱領を決定した第8回党大会に批判的な立場をとり、党の規律にそむいて意見書を公表し、その過程で党を除名される。 4月、短篇小説『無関係な死』を発表。7月から9月にかけて福岡県の三菱鯰田鉱業所にて『煉獄』の脚本を改作した映画『おとし穴』(勅使河原宏監督作品)のロケ撮影が行なわれ、安部もエキストラ出演する。
1962年 (昭和37年)、昆虫採集の途次に迷い込んだ村に閉じ込められ、そこから脱出を図ろうとする教師とそれを阻もうとする村人を描いた『砂の女』を発表。以後は創作活動の比重を書き下ろし長篇に移し、都市に住む人々の孤独と他者との通路の回復を主たるテーマとして、次々と実験精神あふれる作品を発表し、国際的な評価を得るようになる。1964年 (昭和39年) 発表の『他人の顔』では事故で顔を失った男性が引き起こす騒動を、1967年 (昭和42年) の『燃えつきた地図』では失踪者を追う興信所員を主人公とし、その両者の末路を書いた。
1980年以降は、文壇との付き合いをほとんど断ち、真知とも疎遠となり、箱根の芦ノ湖を見下ろす高台に建てた山荘を仕事場として独居するようになる。同年1月より『芸術新潮』に自ら撮った写真を用いた『フォト&エッセイ - 都市を盗る』を翌年12月にかけて連載する。 1982年 (昭和57年)、自身の体調不良を理由に安部公房スタジオの活動を休止する。1984年 (昭和59年) 11月、シェルター構想などをモチーフとしてワープロで執筆した初めての小説『方舟さくら丸』を発表。1985年 (昭和60年) 1月、NHK「訪問インタビュー」にテレビ出演する。番組では箱根での仕事ぶりが紹介され、以後も1987年まで同局の番組に数回出演した。1986年 (昭和61年) 9月、1980年代に書いたエッセイやインタビューをもとにした単行本『死に急ぐ鯨たち』を刊行。以後はいくつかのエッセイや寄稿を残して80年代を締めくくる。
1991年 (平成3年)、奇病にかかった患者を主人公とした小説『カンガルー・ノート』を発表。結果としてこれが安部公房が執筆した最後の小説となった。この頃、安部はクレオールに強い関心を寄せ、それをテーマとした長篇『飛ぶ男』の執筆に取り組んでいたが、同年12月1日に行なわれた談話ではそれに続く新しい構想として「アメリカ論」を挙げ、「チョムスキー風に言えば、学習無用の普遍文化。コカ・コーラやジーンズなどに代表される、反伝統の生命力と魅力をもう一度見直してみたい。」と語っている。
1992年 (平成4年) 12月25日深夜、執筆中に脳内出血による意識障害を起こし、東海大学病院に入院。1993年 (平成5年) 1月16日には経過良好で退院したが、自宅療養中にインフルエンザを発症し、1月20日に多摩市の日本医科大学多摩永山病院に入院。1月22日には解熱し一時的に恢復したものの、就寝中の同日7時1分、急性心不全により死去。68歳没。1992年12月に執筆していた小説『さまざまな父』が未完のまま絶筆となった。なお、入院時に愛人であり女優の山口果林宅より搬出されたためスキャンダル扱いとされたが、最期は家族に看取られた。"
安部公房(あべ こうぼう,1924年(大正13年)3月7日 - 1993年(平成5年)1月22日),是日本的小說家、劇作家、導演。出生於東京府北豐島郡(現在的東京都北區)。真名為安部公房(あべ きみふさ)。在獲得諾貝爾委員會的高度評價,被稱為「最接近諾貝爾文學獎的人物」時,因腦內出血突然去世。他是昭和中期到平成初期間活躍的現代日本文學代表作家之一。
他出生於東京府,少年時期在滿洲度過。高中時代開始崇拜里爾克和海德格爾,戰後復興時期積極參與各種藝術運動,學習報導文學的方法,拓寬了作品的範疇,與三島由紀夫等人一起被稱為戰後第二代作家。他的作品在海外也受到高度評價,已被翻譯出版於世界30多個國家。
他的主要作品包括小說《牆 - S・卡爾瑪先生的罪行》(獲得芥川獎)、《砂之女》(獲得讀賣文學獎)、《他人的臉》、《燒盡的地圖》、《箱男》、《密會》等,戲劇作品有《幽靈在此》、《朋友》、《成為棒子的男人》、《綠色的絲襪》等。他創立了「安部公房工作室」劇團,致力於培養演員,自己導演的舞台作品也獲得了國際性的評價。晚年被視為諾貝爾文學獎的有力候選人。諾貝爾文學獎委員會主席佩爾·維斯特貝里在讀賣新聞的訪談中表示,「如果不是突然去世,他應該會獲得諾貝爾文學獎。」
他是北海道開拓民的孩子,父親安部淺吉和母親井村依美生有兩男兩女,他是長子。1924年(大正13年)3月7日,他出生於東京府北豐島郡滝野川町(現東京都北區西ヶ原),戶籍地是北海道上川郡東鷹栖町(現旭川市)。1923年(大正12年),在滿洲醫科大學(現中國醫科大學)工作的醫生父親淺吉,從奉天市的工作地點暫時回到東京與依美結婚。次年,依美在懷孕安部公房時出版了唯一的小說《斯芬克斯在笑》(異端社),之後就再也沒有寫作。
1925年(大正14年),8個月大的安部公房與家人一起遷往滿洲,在奉天的日本人區度過了童年。小學時接受的實驗性質的英才教育“五族協和”的理念,後來對安部的作品和思想產生了重大影響。1937年(昭和12年)4月,他進入了舊制奉天第二中學。在奉天的家中,他讀到了新潮社的世界文學全集和第一書房的近代劇全集等書籍,特別是對愛倫·坡的作品印象深刻。1940年(昭和15年),他以優異成績跳級畢業於中學,回到日本進入舊制成城高等學校(現成城大學)理科乙類。受到德語教師阿部六郎(阿部次郎的弟弟)的影響,沉迷於戲劇和存在主義文學。在學期間,他酷愛讀高木貞治的《解析概論》,被譽為成城有史以來的數學天才。
同年冬天,受到軍事訓練的影響,感冒加重引發肺部感染,一度休學回到奉天的家中療養。等待康復後,1942年(昭和17年)4月復學。同年12月9日,他寫了一篇名為《問題下降所依的肯定批判》的散文,在隔年2月發行的高中校友會雜誌《城》第40號上發表,這是安部公房首次公開發表的作品。
1943年(昭和18年)3月,由於戰時情況,他提前畢業。當時,他寫下了被認為是他的第一部小說《(靈媒的故事)未定題》[6]。同年10月,他進入東京帝國大學醫學部醫學科學習。1944年,由於文科學生的兵役延緩被取消,很多學生被送上了戰場。在擔心「接下來理科生將被徵召」和「戰敗即將到來」的傳言下,擔心家人的安危,他在年底未經大學許可返回滿洲,但朋友幫他代簽到,掩蓋了這一行為。1945年(昭和20年),他在奉天幫助開業醫生的父親工作時,收到了召集通知,但在入伍前迎來了8月15日的戰爭結束。同年冬天,發疹傷寒大流行,負責治療的父親被感染後去世。
1946年(昭和21年),因戰敗被迫離開家園,在奉天市內流浪,靠製造汽水等活動來維持生計。同年底,他乘坐回國的船隻返回日本,將家人送至北海道祖父母家後,自己返回東京。此後,安部再也沒有回訪中國,作為小說家也沒有寫作關於滿洲的經歷。
1947年(昭和22年)3月,他與就讀於女子美術專門學校(現女子美術大學)專攻日本畫的山田真知子結婚(後來以安部真知名義為安部的著作設計封面和戲劇舞台美術),並開始在真知子原本居住的公寓共同生活。同年,安部自費出版了基於從滿洲撤退經歷的形象創作的《無名詩集》,這本62頁的詩集受到萊納·瑪利亞·里爾克和馬丁·海德格爾的影響,充滿了對失去的青春的苦惱和與現實抗爭的決心。
1948年(昭和23年),安部從東京大學醫學部畢業。但這是在不成為醫師這個前提下條件性地授予的畢業學分,他並未參加醫師國家考試。
同年,安部將其首部長篇小說《粘土塀》帶給了成城高中時代的德語老師阿部六郎。這部長篇小說採用了三冊筆記本的形式,講述了一位在漂泊中拒絕一切故鄉後,成為滿洲匪徒俘虜的日本青年的故事。阿部六郎將這部作品送給了文學雜誌《近代文學》的編輯之一埴谷雄高。埴谷立刻認可了安部的才華,但由於當時《近代文學》的編輯採取合議制,他擔心同人平野謙會否決,於是將安部推薦給其他雜誌。結果,《粘土塀》中的「第一的筆記」在次年2月的《個性》上發表,這成為了安部首次在商業雜誌上發表作品。這成為了轉機,安部開始參加由埴谷、花田清輝、岡本太郎等人運營的「夜之會」。在埴谷和花田等人的幫助下,1948年10月,《粘土塀》以《終了之路的標誌》為新標題,由真善美社出版為單行本。
1949年(昭和24年)4月,安部發表了首次採用超現實主義手法的短篇小說《樹木花果》。
1950年(昭和25年),安部與勅使河原宏、瀬木慎一等人一起成立了「世紀之會」。埴谷表示,這段時間的安部極度貧困,靠賣血來維持生計,埴谷甚至多次給予他生活費。同年夏天,安部加入了日本共產黨。1951年(昭和26年),安部的短篇小說《牆 - S・卡爾瑪先生的罪行》在《近代文學》2月號上發表。這是一部受到劉易斯·卡羅爾《愛麗絲夢遊仙境》啟發的作品,主題包含了滿洲的荒野體驗和花田清輝的礦物主義影響的超現實主義內容。
《牆 - S・卡爾瑪先生的罪行》成為了1951年上半期第25屆芥川獎的候選作品,雖然遭到選評委員宇野浩二的嚴厲評論,但在川端康成和瀧井孝作的強烈推薦下,與同為候選的石川利光的《春之草》一起獲獎。川端認為《牆》這樣的作品出現在今天是必然的,它新穎並引起好奇心。同年5月28日,這部短篇被改名為《S・卡爾瑪先生的罪行》,並與短篇《巴別塔的貍》、由四部分組成的中篇《紅色繭》一起出版,並有石川淳的序言、勅使河原宏的裝幀、桂川寬的插圖,成為了安部的首部短篇集《牆》。
同年,經由朋友赤塚徹的介紹,安部借用了畫家黑崎義介在茗荷谷擁有的土地上的倉庫,並在真知和朋友們的幫助下進行改造後搬家。11月,發表了短篇小說《闖入者》。1952年(昭和27年)5月,安部與江馬修、徳永直、野間宏、藤森成吉等人一起參與了《人民文學》的創作。在《人民文學》與《新日本文學》合併後,安部轉至新日本文學會。6月,發表了短篇小說《水中城市》。
1960年(昭和35年)3月,將前年播出的電視劇《日本的日蝕》再次改編為舞台劇《巨人傳說》,由劇團俳優座上演。6月,發表長篇小說《石之眼》。9月,發表短篇小說《奇欽德拉・亞帕納》。同月開始為兒童播放的廣播劇《鬼怪來到了城市》,由益田喜頓等人出演,連續播放一年。10月20日,採用報導文學手法的電視劇《煉獄》播出。同月26日,以安保鬥爭為主題的戲劇《石之日語》在中國試演,由千田是也導演,林光配樂,久米明等人出演。翌日27日,將小說《紅色繭》改編為廣播劇《為廣播而作的紅色繭》,由諸井誠配樂,芥川比呂志等人出演,在NHK第二廣播及NHK-FM實驗廣播中播放。12月15日,首次撰寫自己的年譜。聖誕節時,上演了兒童音樂喜劇《鬼怪之島》,由南美江等人出演。
1961年(昭和36年),對日本共產黨決定的第8次黨大會綱領持批判態度,公開發表了違反黨紀的意見書,過程中被黨除名。4月,發表短篇小說《無關的死》。7月至9月,在福岡縣的三菱鯰田礦業所拍攝了以《煉獄》劇本改編的電影《陷阱》,由勅使河原宏導演,安部也參與了客串演出。
1962年(昭和37年),發表了描述一位在採集昆蟲途中誤入村莊並被困住,試圖逃脫而被村民阻攔的教師的長篇小說《沙之女》。此後,將創作重心轉移到原創長篇,以城市居民的孤獨和恢復與他人的溝通為主題,陸續發表了充滿實驗精神的作品,獲得了國際性的評價。1964年(昭和39年)發表的《他人的臉》描述了一位因事故失去臉部的男性引發的騷動,1967年(昭和42年)的《燒盡的地圖》則以追尋失蹤者的興信所員工為主角,寫下了他們的結局。
1980年以後,幾乎斷絕了與文壇的往來,與真知也變得疏遠,獨自居住在眺望箱根芦之湖的高台上所建的山莊中工作。同年1月起在《藝術新潮》上連載以自己攝影的《照片&散文 - 偷取城市》,直至翌年12月。1982年(昭和57年),以健康不佳為由暫停了安部公房工作室的活動。1984年(昭和59年)11月,發表了使用文字處理器撰寫,以避難所構想等為主題的首部小說《方舟櫻丸》。1985年(昭和60年)1月,出演了NHK「訪問訪談」電視節目。節目中介紹了他在箱根的工作情況,此後直至1987年還數次出演了同局的節目。1986年(昭和61年)9月,出版了基於1980年代撰寫的散文和訪談整理的書籍《急於死亡的鯨魚》。之後留下了一些散文和寄稿,結束了80年代。
1991年(平成3年),發表了以患有奇病的病人為主角的小說《袋鼠筆記》,這最終成為安部公房的遺作。這段時間,安部對克里奧爾文化產生了濃厚的興趣,並著手撰寫以此為主題的長篇小說《飛翔的男人》,但在同年12月1日的對話中提到了繼續後續新構想的「美國論」,他說道:「如果用喬姆斯基的話來說,那就是無需學習的普遍文化。像可樂和牛仔褲這樣代表反傳統的生命力和魅力,我想再次重新審視。」
1992年(平成4年)12月25日深夜,在寫作中因腦內出血導致意識障礙,被送往東海大學醫院住院。1993年(平成5年)1月16日因病情好轉而出院,但在家中療養期間感染流感,於1月20日被送往多摩市的日本醫科大學多摩永山醫院。1月22日雖然發燒退了並暫時恢復了一些,但在當天凌晨7時1分,因急性心衰竭去世,享年68歲。1992年12月正在撰寫的小說《各種各樣的父親》未完成便成了遺作。另外,因為他在住院時從情婦兼女演員山口果林的家中被搬出,所以被當作醜聞處理,但他最後是在家人的陪伴下去世的。
1.
"忍耐そのものは別に敗北ではないのだ。むしろ、忍耐を敗北だと感じたときが真の敗北の始まりなのだろう。"
耐心本身並不是失敗。事實上,當你覺得堅持就是失敗的時候,真正的失敗就開始了。
2.
"希望とは、絶望の一形式である。"
希望是絕望的一種形式。
3.
"道にこだわりすぎるものは、かえって道を見失う。"
過於專注於道路的人最終會迷失道路。
4.
"欠けて困るようなものばかりだったら、現実はうっかり手も触れられない、危なっかしいガラス細工になってしまう。…要するに、日常とは、そんなものなのだ。"
如果所有碎片都碎了,現實將是用手無法觸摸的危險玻璃製品。 ……總而言之,日常生活就是這樣。
5.
"弱者への愛には、いつだって殺意がこめられている。"
對弱者的愛總是充滿殺機。
6.
"弱者を哀れみながらもそれを殺したいという願望、つまり弱者を排除したい、強者だけが残るということなんだね。"
他雖然憐憫弱者,但也有殺死弱者的慾望。
7.
"現実の社会関係の中では、必ず多数派が強者なんだ。平均化され、体制の中に組み込まれやすい者がむしろ強者であって、はみ出し者は弱者とみなされる。"
在現實的社會關係中,多數總是最強的。那些容易被平均並納入體系的人被認為是強者,那些被排除在外的人被認為是弱者。
8.
"共同体に復帰したい、共同体の中に逆らわずに引き返して、決められた場所の穴の形に自分を合わせたい、という衝動と、強者願望とは、意外に似通っているんだね。"
想要回歸社區的衝動,想要回到社區而不反抗的衝動,以及將自己融入指定地點的洞的形狀,和想要堅強的願望驚人地相似。
9.
"たとえば発明・発見などを考えてみても、弱者が自分の弱い欠落を埋めるための衝動じゃないか。
衣服を例にとってみようか。非常に体が強健で、寒くても平気な奴には衣服は要らない。すぐにブルブルッとくる奴が寒さしのぎに衣服を発明する。そういう弱者の組織力というものが、社会を展開し構築していくわけだ。"
當我們思考發明和發現時,它們不正是弱者想要彌補自己弱點的衝動嗎?
我們以服裝為例。體力極強、不怕冷的人是不需要衣服的。興奮的人很容易發明衣服來禦寒。發展和建立社會的是弱者的組織力量。
10.
"強者の論理に対しての弱者の復権、人間の歴史っていうのは根本的にはそうなんだね。逆に言えば弱者のある部分が強者に転化していく歴史でもあったわけだ。
よくよく見るとそこに踏まえている一つの殺意みたいなものが我々の未来に対する希望みたいなものに水をさしてる部分が非常に多いわけだ。"
從根本上來說,人類的歷史就是這樣:弱者的復闢違背了強者的邏輯。反過來說,這也是一段由弱者轉變為強者的歷史。
如果你仔細觀察,你會發現,很多時候,蘊含在其中的殺機正在澆熄我們對未來的希望。
11.
"人類の歴史は弱者の生存権の拡張だった。社会の能力が増大すればするほど、より多くの弱者を社会の中に取り込んできた。弱者をいかに多く取り込むかが文明の尺度だったとも言える。"
人類歷史就是弱者生存權的擴張。隨著社會能力的增強,越來越多的弱勢群體融入社會。可以說,衡量文明程度的標準就是有多少人能夠包容弱者。
12.
"ふと未来が、今までのように単なる青写真ではなく、現在から独立した意志をもつ、狂暴な生きもののように思われた。"
突然之間,未來似乎不只是一個藍圖,而是一個具有獨立於現在的意志的兇猛生物。
13.
"未来は個人の願望から類推のできないほど、断絶したものであり、しかもその断絶のむこうに、現実のわれわれを否定するものとしてあらわれ、しかもそれに対する責任を負う、断絶した未来に責任を負う形以外には未来に関り合いをもてないということなのです。"
未來與個人的慾望難以理解地脫節,除了這種脫節之外,它似乎否定了我們是誰的現實,更重要的是,我們要對此負責,這是對脫節的未來的一種責任。此之外,我們與未來無法有任何關係。
14.
"未来は、日常的連続感へ、有罪の宣告をする。"
未來譴責日常連續性的感覺。
15.
"失明宣告を受けた人間が、最後に見る眼で、街を描写すること。"
透過被宣布失明的人,他的最後一眼人間,來描述這座城市。
16.
"実につまらないこと、平凡無味なくだらないことが、すべて興味や詩情を誘惑する。あの一室に閉ぢこもつて、長い病床生活をしてゐた子規が、かうした平淡無味の歌を作つたことが、初めて私に了解された。"
最瑣碎的事情,最平凡無味的廢話,都勾起興趣和詩意。我第一次明白,長期被關在一個房間裡、在病床上度過了很長一段時間的志木,竟然寫出了這樣一首平淡無味的歌曲。
17.
"子規の歌は、長い間私にとつての謎であつた。何のために、何の意味で、あんな無味平淡なタダゴトの詩を作るのか。作者にとつて、それが何の詩情に価するかといふことが、いくら考へても疑問であつた。"
子規之歌,我一直以來無法參透。他出於什麼目的、在什麼意義上寫出如此無味、淡漠的詩歌?對作者來說,無論他如何思考,他仍懷疑它到底有什麼樣的詩意。
18.
"選ぶ道がなければ、迷うこともない。私は嫌になるほど自由だった。"
如果你沒有路可以選擇,你就不會迷失方向。我如此自由以至於我討厭它。
19.
"この鞄のせいでしょうね。
ただ歩いている分には、楽に搬(はこ)べるのですが、ちょっとでも階段のある道にさしかかると、もう駄目なんです。おかげで、運ぶことの出来る道が、おのずから制約されてしまうわけですね。鞄の重さが、ぼくの行き先を決めてしまうのです。"
因為這個背包吧。
走路時攜帶很方便,但一旦走到了哪怕幾步之遙的路,它就變得毫無用處了。這樣一來,可以運輸的道路自然就受到了限制。我的行李的重量決定了我的目的地。
20.
"「ユープケッチャ」の説明をしておきますと、これは甲虫の一種で肢が退化し、自由に移動することが出来ない。かわりに自分の排便を餌にして、ぐるぐる小さな円を描いて生きているわけです。一日に一周するので「時計虫」とも呼ばれている。
これは、実際にはあり得ないんだけど、ぼくらの中には、こういうものに対する憧れというか、そういう生き方をできればしたいと思うんだよね。同時に今度は外に拡張してゆく自己拡張の願望が、自動的に対立物として出てくるんだ。"
“Yupketcha”,一種四肢退化、無法自由活動的甲蟲。相反,它們生活在小圈子裡,以自己的排泄物為食。它也被稱為“時鐘蟲”,因為它每天繞行一次。
這實際上是不可能的,但我們中的一些人渴望這樣的事情,並希望如果可能的話我們能那樣生活。同時,向外擴張的自我擴張的慾望自然而然地表現為對立面。
21.
"読まなかったら、こういう世界を結局もたずに済ませてしまうわけだからね。決まった尺度でしか物が見えないなんて、考えてみたらこわいことじゃないか。"
如果不閱讀,最終就不會擁有這樣的世界。當您想到只能以固定比例看到事物時,是不是很可怕?