"谷崎 潤一郎(たにざき じゅんいちろう、1886年〈明治19年〉7月24日 - 1965年〈昭和40年〉7月30日)は、日本の小説家。明治末期から昭和中期まで、戦中・戦後の一時期を除き終生旺盛な執筆活動を続け、国内外でその作品の芸術性が高い評価を得た。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。
初期は耽美主義の一派とされ、過剰なほどの女性愛やマゾヒズムなどのスキャンダラスな文脈で語られることが少なくないが、その作風や題材、文体・表現は生涯にわたって様々に変遷した。漢語や雅語から俗語や方言までを使いこなす端麗な文章と、作品ごとにがらりと変わる巧みな語り口が特徴。『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』など、情痴や時代風俗などのテーマを扱う通俗性と、文体や形式における芸術性を高いレベルで融和させた純文学の秀作によって世評高く、「文豪」「大谷崎」と称された。その一方、今日のミステリー・サスペンスの先駆的作品、活劇的な歴史小説、口伝・説話調の幻想譚、果てはグロテスクなブラックユーモアなど、娯楽的なジャンルにおいても多く佳作を残している。
谷崎倉五郎、関の次男として東京市日本橋区蛎殻町二丁目14番地(現・東京都中央区日本橋人形町一丁目7番10号)に誕生。長男・熊吉は生後3日で亡くなったため、潤一郎の出生届は、「長男」として出された。次男として誕生した弟の谷崎精二は、のちに作家、英文学者(早稲田大学教授)となる。
母方の祖父・谷崎久右衛門は、一代で財を成した人で、父は江澤家から養子に入ってその事業の一部を任されていた。しかし、祖父の死後事業がうまくいかず、谷崎が阪本尋常高小四年を卒業するころには身代が傾き、上級学校への進学も危ぶまれた。谷崎の才を惜しむ教師らの助言により、住込みの家庭教師をしながら府立第一中学校(現・日比谷高等学校)に入学することができた。散文や漢詩をよくし、一年生のときに書いた『厭世主義を評す』は周囲を驚かせた。成績優秀な潤一郎は「神童」と言われるほどだった。
1902年(明治35年)9月、16歳の時、その秀才ぶりに勝浦鞆雄校長から一旦退学をし、第二学年から第三学年への編入試験(飛級)を受けるように勧められる。すると合格し、さらに学年トップの成績をとった。本人が「文章を書くことは余技であった」と回顧しているように、その他の学科の勉強でも優秀な成績を修めた。卒業後、第一高等学校に合格。一高入学後、校友会雑誌に小説を発表した。
1908年(明治41年)、一高英法科卒業後に東京帝国大学文科大学国文科に進むが、後に学費未納により中退。在学中に和辻哲郎らと第2次『新思潮』を創刊し、処女作の戯曲『誕生』や小説『刺青』(1910年)を発表。早くから永井荷風によって『三田文学』誌上で激賞され、谷崎は文壇において新進作家としての地歩を固めた。以後『少年』、『秘密』などの諸作を書きつぎ、自然主義文学全盛時代にあって物語の筋を重視した反自然主義的な作風で文壇の寵児となった。
大正時代には当時のモダンな風俗に影響を受けた諸作を発表、探偵小説の分野に新境地を見出したり、映画に深い関心を示したりもし、自身の表現において新しい試みに積極的な意欲を見せた。
関東大震災の後、谷崎は関西に移住し、これ以降ふたたび旺盛な執筆を行い、次々と佳品を生みだした。長編『痴人の愛』では妖婦ナオミに翻弄される男の悲喜劇を描いて大きな反響を呼ぶ。続けて『卍』、『蓼喰ふ虫』、『春琴抄』、『武州公秘話』などを発表し、大正以来のモダニズムと中世的な日本の伝統美を両端として文学活動を続けていく。こうした美意識の達者としての谷崎の思想は『文章読本』と『陰翳禮讚』の評論によって知られる。この間、佐藤春夫との「細君譲渡事件」や2度目の結婚・離婚を経て、1935年(昭和10年)に、元人妻の森田松子と3度目の結婚をして私生活も充実する。
太平洋戦争中、谷崎は松子夫人とその妹たち四姉妹との生活を題材にした大作『細雪』に取り組み、軍部による発行差し止めに遭いつつも執筆を続け、戦後その全編を発表する(毎日出版文化賞、朝日文化賞受賞)。同作の登場人物である二女「幸子」は松子夫人、三女の「雪子」は松子の妹・重子がモデルとなっている。
同戦後は高血圧症が悪化、畢生の文業として取り組んだ『源氏物語』の現代語訳も中断を強いられた。しかし、晩年の谷崎は、『過酸化マンガン水の夢』(1955年)を皮切りに、『鍵』、『瘋癲老人日記』(毎日芸術賞)といった傑作を発表。 1950年代には『細雪』、『蓼喰ふ虫』が翻訳され、アメリカでも出版。ノーベル文学賞の候補には、判明しているだけで1958年と1960年から1964年まで7回にわたって選ばれ、特に1960年と1964年には最終候補(ショートリスト)の5人の中に残っていた。最晩年の1964年(昭和39年)6月には、日本人で初めて全米芸術院・米国文学芸術アカデミー名誉会員に選出された。
明治・大正期から近代日本文学の主流は私小説であり、作家の自我や私生活を描き、人生をいかに生きるべきかを追求する有様を読者に提供することが主な目的といわれてきた。その雰囲気は陰鬱で、陰鬱であることこそが芸術であるという考えかたが一般的だった。そのため、谷崎の作品はしばしば「思想がない」「俗世間との対決がない」「格闘していない」として低い評価が与えられてきた。
しかし、そういった類の私小説中心の文学観から離れたとき、谷崎の小説世界の豊潤さや、広い視野から見た思想(パンセ)、18世紀のフランス文学のような苛酷な人間認識と抽象主義を見せた作品(『卍』など)に高い評価が与えられてもいる。小谷野敦によると、私小説的風土からの断絶を指摘されてきた谷崎は、実は自身の女性遍歴や身辺にひろく材をとりながら、あれらの豪奢な物語群を書きついでいたとしている。
三島由紀夫は、野暮なことを嫌った都会人の谷崎は自身の格闘を見せることをせず、「なるたけ負けたような顔をして、そして非常に自己韜晦の成功した人」だと論じている。しかしながら、三島はその谷崎の小説家としての天才を賞揚しつつも、その作品群が激動の時代を生きながらも、あまりに社会批評的なものを一切含まずに無縁であることが逆に谷崎の本然の有り方でないともし、「谷崎氏の文学世界はあまりに時代と歴史の運命から超然としてゐるのが、かへつて不自然」とも述べて、岸田国士が戦時中に自ら戦地に踏み込み、時代を受け止めたのとは対極の意味合いで、「結局別の形で自分の文学を歪められた」作家であると論じている。
文章的には、谷崎が『文章読本』でみずから主張するような「含蓄」のある文体で、いわゆる日本的な美、性や官能を耽美的に描いた。情緒的で豊潤でありながら高い論理性を誇るその文体は、日本文学的情趣と西洋文学的小説作法の交合的なものであり、魅力的な日本語の文章が至りうるひとつの極致であるともいわれる。谷崎の文章は森鷗外や志賀直哉に代表される簡勁な表現とは対極的ではあるが、鴎外と並んで小説文体の理想のひとつとされることも多い。三島由紀夫などは谷崎と鴎外の双方を尊敬し,影響を受けている。
強く美しく(「刺青」の地の文においてこの二つはほぼ等価であると記されている)、そして抗いがたく魅力的な女性と、それに対するマゾヒスティックな主人公の思慕がしばしば作品に登場することから、谷崎と彼の作品は女性礼讃やフェミニズムの観点から論じられることがあるが、これらは谷崎の性愛と肉体に対する興味から発するものだと見るのが一般的である。『家畜人ヤプー』の作者(異説あり)天野哲夫は、谷崎文学はマゾヒズム抜きでは語り得ないと指摘。結婚前の松子夫人にあてた書簡などにもご主人様と下僕の関係として扱って欲しいなどの特異な文面が多く見られる。谷崎の諸作品にはしばしば女性の足に対するフェティシズム(足フェチ)が表れている。
関東大震災以前の谷崎の作風は、モダンかつ大衆的であることが知られているが、谷崎自身はそのことを後悔していたらしく、震災以前の作品は「自分の作品として認めたくないものが多い」と言った。そのために震災以前と以後の作品を文学史でも明確に分け、以前の作品を以後の作品に比して低い評価をすることが通例となっていた。しかし、近年、物語小説の復活の機運と、千葉俊二、細江光らにより震災以前の作品への再評価がなされている。また、後期にあっても『猫と庄造と二人のをんな』『台所太平記』のように大正期的な雰囲気をうけついだ作品を谷崎自身が書きついでいることも鑑み、作者自身の低評価については今すこし判断を保留すべき部分がある。
谷崎の特色が顕著な短編小説群は、代表作『刺青』(1910年)における耽美主義、マゾヒズム、江戸文明への憧れと近代化への拒絶、『幇間』(1911年)の自虐趣味、『お艶殺し』(1915年)の江戸趣味と歌舞伎のような豪奢な残虐性、『神童』(1916年)の幼年期に対する憧憬と堕落の愉悦、『人魚の嘆き』(1917年)のロマンティズムや幻想趣味、『異端者の悲しみ』(1917年)のエロティシズム、『母を恋ふる記』(1919年)の母性への憧れと女性崇拝、『鮫人』(1920年)の伝奇趣味などをあげることができる。
『呪われた戯曲』(1919年)や『途上』(1920年)など、ミステリーやサスペンスの先駆的な作品も残している。探偵小説の評論家でもあり、『金色の死』(1916年)で谷崎に着目するようになったという江戸川乱歩は小論『日本の誇り得る探偵小説』(1925年)において自身の名前の元ネタであり、最初の推理小説『モルグ街の殺人』を書いたことでも知られるエドガー・アラン・ポーを引き合いに出して、谷崎を日本のポーと評し、彼の作品の探偵小説としての側面を高く評価している。谷崎自身が自分を探偵小説家と自認せず、またその作品群を探偵小説とみなしてはいなかったとしても、乱歩はポーも同じであったとし、谷崎が日本における海外に誇れる探偵小説家の一人だと論じる。特に乱歩はそのトリック性において『途上』を高く評価しており、「プロバビリティーの犯罪」を扱った世界初のミステリーだとし、後にこれに触発されて短編『赤い部屋』(1925年)を書き、『D坂の殺人事件』(1925年)では明智小五郎が完全犯罪の例として『途上』に言及してその著者である谷崎を称賛する。また、日本における探偵小説の黎明期についても、一般に西洋の探偵小説からの影響に重点が置かれてしまうが、佐藤春夫や芥川龍之介なども含め、谷崎ら大正文壇の探偵小説的傾向の影響も大きかったと論じている。
また、1920年に発表された『藝術一家言』ではその理知的な芸術観や物語論を展開しており、後の芥川龍之介との文学論争を考える上で興味深い。良きライバルの芥川が1927年(昭和2年)に発言した「(小説において)話の筋と云ふものが芸術的なものかどうかと云ふ」疑問に対し激しく『饒舌録』で反論の応酬をしたことは文学史的に有名な論争である(芥川の『文芸的な、余りに文芸的な』を参照)。
三島由紀夫は、その芥川の自殺が、その後の谷崎文学に与えた「逆作用」の影響を指摘し、芥川の芸術家の敗北の死を目の当たりにした谷崎が、「持ち前のマゾヒストの自信を以て、『俺ならもつとずつとずつとうまく敗北して、さうして永生きしてやる』と呟いたにちがひない」として谷崎の文学変遷を論じ、谷崎がニヒリズムに陥ることなく、俗世への怒りや無力感にとらわれずに身を処して「おのれを救つた作家」だとしている。
関西移住後の代表作は長編が中心となり、ここで谷崎の物語作家としての質的な転換が起こる。『痴人の愛』(1924年)は長編における豊かな風俗性と物語構造の堅牢さがはじめて実を結んだ作品であり、特に風俗描写の問題は大正期諸作の総まとめとして、また戦中戦後の作品への手法論的な影響として大きな意味を持つ。傑作として名高い『卍』(1928年-1930年)、『蓼喰ふ虫』(1928年-1929年)は、いわゆる「夫人譲渡事件」などに題材を取った長編というべき作品だが、現代風俗を扱いながら男女愛欲のさまを丁寧に描き、性愛の底知れぬ深遠を見せて、しかも、それが一皮めくれば文明や社会とつながっているという状況を描いた傑作である。手法論としてもすでに吉田健一らが指摘するとおり、昭和初期に勃興したモダニズム文学の影響を受けている。また、この両作から谷崎の文体は目に見えて優れたものとなり、日本の土着的なものが残る関西文化への牽引が見られるものとなっている。
『乱菊物語』(1930年)、『吉野葛』、『盲目物語』、『武州公秘話』(すべて1931年)はいずれも当時の谷崎が関心を持っていた歴史物である。舞台や時代を変えつつも、大正期以来の耽美主義、マゾヒズム、残虐性、ロマン趣味、幻想趣味、エロティシズム、女性崇拝などが受継がれている点が注目される。
こうした一連の作品からの成果が『蘆刈』(1932年)や『春琴抄』(1933年)の女人像の造型だといえるだろう。特に正宗白鳥を脱帽させた中編『春琴抄』は谷崎的な主題をすべて含みつつ、かなり実験的な文体を用いることで作者のいわゆる「含蓄」を内に含んだ傑作となっており、その代表作と呼ぶにふさわしい。『陰翳礼讃』(1933年-1934年)、『文章読本』(1935年)と二つの批評により、みずからの美意識を遺憾なく開陳するとともに当時の文明を高度に批評した。この時期のしめくくりとなるのは『猫と庄造と二人のをんな』(1936年)である。あたかも大正期の谷崎がよみがえり、『卍』、『蓼喰ふ虫』の文体によって書いたかのような佳品である。
戦中・戦後の谷崎の活動は『細雪』と『源氏物語』現代語訳の執筆に代表される。『細雪』は1942年(昭和17年)ごろより筆を起こし、翌年に雑誌『中央公論』に掲載されたが、奢侈な場面が多いとして1回で掲載禁止となり、以降発表を断念。この年に私家版上巻のみを出版して、戦中何度かの断続を経ながら書き継いだ。1947年(昭和22年)ごろには下巻の相当な部分まで完成し、1948年(昭和23年)に全編の出版が終了。これによって谷崎の名声は揺るぎないものとして確立される。
一方の『源氏物語』は、1939年(昭和14年)から『潤一郎訳源氏物語』として発表されるが、中宮の密通に関わる部分は削除された。戦後手を入れ1951年(昭和26年)に『潤一郎新訳源氏物語』を、文体を刷新した『潤一郎新々訳源氏物語』が1964年(昭和39年)に刊行し、決定版となる。
戦後の代表作としては、ほかに母恋いと近親相姦的愛欲の系譜である『少将滋幹の母』(1949年)、『夢の浮橋』(1959年)がある。『鍵』(1956年)は抑圧される性欲と男女の三角関係をテーマにし、『卍』、『蓼喰ふ虫』の系譜の総決算といえる。さらに、『瘋癲老人日記』(1961年-1962年)の迫りくる死の恐怖と愉悦が被虐的な愛欲に重ねあわされた境地もきわめて優れたもので、その文体論的な実験は谷崎の戦後における到達点の一つを示している。
『現代語訳 源氏物語』、『作品集』・『全集』[注 2] は、中央公論社(現:中央公論新社)で文庫判も含め様々な版が刊行された。
谷崎は自身の作品に特定の政治的意図を込めることはなかったが、にも拘らず、いくつかの作品は当局から発禁処分を受けており『細雪』がその代表である。後に谷崎は、「文筆家の自由な創作活動が或る権威によつて強制的に封ぜられ、これに対して一言半句の抗議が出来ないばかりか、これを是認はしないまでも、深くあやしみもしないと云ふ一般の風潮が強く私を圧迫した。」と述べている。
当局の弾圧に抗してまで自らが思うものを書き、世に問おうとした姿勢もさることながら、そもそも太平洋戦争という未曾有の事態の中で、それとは何の関わりもない、優雅にして緩慢な、いわば絵巻物のような小説を構想したこと自体が既に谷崎の特異性を象徴している。
三島由紀夫の評によれば、谷崎は「大きな政治的状況を、エロティックな、苛酷な、望ましい寓話に変へてしまふ」のであり、「俗世間をも、政治をも、いやこの世界全体をも、刺青を施した女の背中以上のものとは見なかつた」のであり、谷崎が戦時下に於てさえこの思想を貫いた事が、意図せずとも、結果として逆説的に政治的態度の表明たり得たのである。
三島にとって、谷崎の、特に戦前の諸作品は、「今日よりもむかしの風俗の中に置くはうが、はるかに秘密めいてゐて、言葉の本当の意味で快楽的なので」あり、子供たちの間でサディズムとマゾヒズムが織り成す「少年」(1911年)や、男性が女性に扮装して密かに夜の街を彷徨する「秘密」(1911年)、女性の同性愛とその破滅を描いた「卍」(1928年)等に見られる性的倒錯の数々は、「かつては選ばれた者の快楽であり、そのやうな題材を扱ふことが一種の世紀末趣味を満足させ、知識階級の悪徳の表現たりえた」が、「今日の日本では、それらの題材の『新しさ』と別に、快楽も知的放蕩も悪徳の観念性も喪はれ、あらゆる性的変質はあからさまな人間性の具現にすぎなくなり、その風趣は消え、そのロマンティシズムは消失したのである」という。
20歳で迎えた敗戦を諸価値観の最大の転機と見なし、戦後の社会ではあらゆる背徳や放縦が自明のものになったという事実を前提としながらも、敢えて戦前の「禁忌」に固執する道を選び、その侵犯を目指すことである種のロマンティシズムを打ち立てようと目論んだ三島にとってすれば、谷崎が描き出した世界に更なる「新しさ」を見出すのは困難であった。
知能と感覚の全てをただひたすら官能へと費やすことで谷崎が描き出した「甘美にして芳烈」(異端者の悲しみ)、絢爛にして優雅な作品世界と、当局からの度重なる弾圧や世の善良を装った風潮に対し、戦前から戦中、戦後を通じてあくまで自己を貫いて見せるという尊大にして豪奢な反逆の精神は、今もってなお、谷崎をおいて他に類を見ない。谷崎文学は現代においてこそユニークであり、新しいのである。"
谷崎潤一郎(1886年7月24日 - 1965年7月30日),是日本的小說家。從明治時代末期到昭和時代中期,除了戰爭中和戰後的一段時間外,他一生都保持著旺盛的寫作活動,其作品的藝術性在國內外獲得了高度評價。他是日本藝術院會員、文化功勞者、文化勳章獲得者。
早期被認為是耽美主義的一派,他的作品常常以過分的女性愛和受虐狂等具爭議性的文脈被討論,但他的創作風格、題材、文體和表現在一生中經歷了多次變化。他以使用從漢語和雅語到俗語和方言的優美文句以及每部作品都有明顯變化的巧妙敘事風格而聞名。
他的作品《痴人之愛》、《春琴抄》和《細雪》等,高度融合了處理情愛和時代風俗等通俗主題的通俗性,以及在文體和形式上的藝術性,被譽為純文學的佳作,因此在文壇上享有很高的聲譽,被稱為「文豪」「大谷崎」。同時,他在娛樂性較強的類型,如推理懸疑的先驅作品、歷史小說、口述故事風格的幻想故事,甚至是帶有黑色幽默的怪誕作品中,也留下了許多佳作。谷崎藉五郎、關家的次男,在東京市日本橋區蠔殼町二丁目14號(現在的東京都中央區日本橋人形町一丁目7號10號)出生。長男熊吉在出生後3天就去世了,因此潤一郎的出生登記是作為「長男」提交的。
後來成為作家、英文學者(早稻田大學教授)的弟弟谷崎精二,則是作為次男誕生的。母系祖父谷崎久右衛門是一代致富的人,父親則是被江澤家收養,負責管理部分事業。然而,在祖父去世後,事業沒有成功,到谷崎從阪本尋常高小畢業時,家財已經開始衰敗,甚至他的進一步學業也變得岌岌可危。由於教師們珍惜谷崎的才華,他得以在做家庭教師的同時進入府立第一中學(現在的日比谷高等學校)。他擅長散文和漢詩,在一年級時寫的《論厭世主義》讓周圍人感到驚訝。成績優異的潤一郎被稱為「神童」。1902年9月,16歲的他被校長勝浦鞆雄建議退學,以便從第二學年直接跳到第三學年。他通過了考試,並且還取得了年級第一的成績。
如他本人回憶所說,雖然他將寫作看作是一種副業,但他在其他學科上也取得了優異的成績。畢業後,他考入了第一高等學校。進入一高後,他在校友會雜誌上發表了小說。1908年,一高英法科畢業後,他進入了東京帝國大學文科大學國文科,但後來因為未繳學費而退學。在校期間,他與和辻哲郎等人創辦了第二次《新思潮》,並發表了處女作戲劇《誕生》和小說《刺青》(1910年)。他很早就被永井荷風在《三田文學》雜誌上高度讚揚,因此在文壇上鞏固了新進作家的地位。
此後,他陸續寫作了《少年》、《秘密》等作品,在自然主義文學盛行的時代,他重視故事情節的反自然主義文風使他成為了文壇的寵兒。在大正時代,他受到了當時現代風俗的影響,發表了許多作品。他在偵探小說領域開闢了新天地,對電影也表現出了濃厚的興趣,並且在自己的表達中積極嘗試新的方法。
關東大地震後,谷崎搬到了關西地區,從此他再次開始了旺盛的寫作活動,陸續創作了許多佳作。在長篇小說《痴人之愛》中,他描繪了一個被妖婦Naomi擺布的男人的悲喜劇,引起了巨大的反響。接著,他發表了《卍》、《蓼食う虫》、《春琴抄》、《武州公秘話》等作品,他的文學活動以大正時代以來的現代主義和中世日本傳統美的兩端為基礎,持續進行。
谷崎作為美學達人的思想,通過《文章讀本》和《陰翳禮讚》的評論而為人所知。在這期間,他經歷了與佐藤春夫的「細君譲渡事件」和第二次婚姻離婚,1935年,他與前人妻森田松子結婚了第三次,私生活也變得充實。
在太平洋戰爭中,谷崎潤一郎投入大量心力於以松子夫人及其四位妹妹為生活題材的鉅作《細雪》。儘管遭到軍部的發行禁止,他仍持續進行寫作,並於戰後發表了全篇(獲得每日出版文化獎、朝日文化獎)。其中,二女「幸子」以松子夫人為原型,三女「雪子」則以松子的妹妹重子為模範。戰後,谷崎因高血壓症惡化,被迫中斷了他畢生致力於的《源氏物語》現代語譯工作。
晚年,谷崎發表了一系列傑作,包括《過氧化錳水之夢》(1955年)、《鑰匙》、《瘋癲老人日記》(獲得每日藝術獎)。1950年代,《細雪》和《食蓼蟲》被翻譯成英文在美國出版。他在1958年至1964年間,共7次被提名諾貝爾文學獎,特別是在1960年和1964年,他更是進入了最終候選人(短名單)的五人之列。
在1964年(昭和39年)6月,他成為第一位被選為全美藝術學院和美國文學藝術學院榮譽會員的日本人。從明治、大正時期到近代日本文學的主流是私小說,主要目的是透過描繪作家的自我和私生活,提供讀者如何生活的探求。這種氛圍普遍被認為是陰鬱的,並且認為陰鬱本身就是藝術。因此,谷崎的作品經常被批評為「缺乏思想」、「缺乏與俗世的對抗」、「缺乏格鬥」,從而獲得了較低的評價。然而,當脫離了這種以私小說為中心的文學觀時,谷崎的小說世界的豐潤、廣闊的視野中的思想(潘塞)、18世紀法國文學的殘酷人性認識和抽象主義等元素,也獲得了高度評價。據小谷野敦所說,雖然谷崎被指摘為與私小說的風土斷絕,但實際上,他從自己的女性經歷和周遭的素材中汲取靈感,創作了這些豪華的故事集。
三島由紀夫認為,講究城市人氣質的谷崎,沒有展示自己的格鬥,而是「盡可能地呈現一副失敗的樣子,並且非常成功地自我隱藏」。然而,三島在讚揚谷崎作為小說家的天賦的同時,也指出谷崎的作品群在經歷激動的時代卻幾乎不含有社會批評,這反而不是谷崎的本來面目,並說「谷崎先生的文學世界過於超然於時代和歷史的命運之上,反而顯得不自然」,並與岸田國士在戰時赴戰地,接受時代考驗的做法形成對比,認為谷崎是「以另一種形式扭曲了自己的文學」的作家。
在文體上,谷崎在《文章讀本》中主張的「含蓄」文風,描繪了所謂日本式的美、性與官能的耽美主義。這種情緒豐富而邏輯嚴密的文風,被認為是日本文學情趣和西洋文學小說作法交融的極致之一。谷崎的文風與森鷗外或志賀直哉那種簡潔有力的表達形成對比,但與鷗外一樣,也常被視為小說文體理想之一。三島由紀夫等人尊敬並受到谷崎和鷗外的影響。
谷崎及其作品中經常出現的強烈而美麗的女性形象及對這些女性的戀慕,使得谷崎和他的作品經常被從女性讚揚或女性主義的角度進行討論,但這些通常被認為是源於谷崎對性愛和肉體的興趣。《家畜人亞普》的作者(有異說)天野哲夫指出,談論谷崎文學不能忽略馬索希主義。
谷崎在與松子夫人婚前的信件中,也多次表達了希望被當作主人和僕人關係的特殊要求。谷崎的許多作品中經常出現對女性腳部的戀物癖(足戀)。關於谷崎早期的作風是現代而大眾化的,但谷崎本人似乎對此感到後悔,稱震災前的作品為「不願意認為是自己的作品」。
因此,在文學史上,震災前後的作品被明確分開,並通常將震災前的作品與震災後的作品相比較時給予較低的評價。然而,近年來,隨著敘事小說復興的機運,以及千葉俊二、細江光等人對震災前作品的重新評價,作者自身對早期作品的低評價應有所保留。
谷崎的特色顯著的短篇小說群,包括代表作《刺青》(1910年)中的耽美主義、馬索希主義、對江戶文明的憧憬和對現代化的拒絕,《幇間》(1911年)的自虐趣味,《妖艷殺手》(1915年)的江戶趣味和歌舞伎般的豪華殘酷,《神童》(1916年)的對幼年期的憧憬與墮落的愉悅,《人魚的嘆息》(1917年)的浪漫主義和幻想趣味,《異端者的悲傷》(1917年)的色情,《戀母記》(1919年)對母性的憧憬和女性崇拜,《鯊人》(1920年)的傳奇趣味等。
谷崎潤一郎在1919年的作品『呪われた戯曲』(被詛咒的劇本)和1920年的『途上』(在途中)等,留下了許多先驅性的懸疑和神秘作品。作為偵探小說的評論家,江戶川亂步在1925年的小論《日本的驕傲偵探小說》中提到,自己的筆名來源於以寫作第一部推理小說《莫爾格街的謀殺案》而聞名的埃德加·愛倫·坡,並將谷崎評為日本的坡,高度評價他作品中的偵探小說側面。即使谷崎自己並不認為自己是偵探小說家,也不將其作品群視為偵探小說,亂步認為坡也是如此,並論證谷崎是日本可以向海外驕傲的偵探小說家之一。特別是在謎題的技巧上,亂步高度評價了《在途中》,稱其為處理「概率犯罪」的世界首創的神秘作品,後來他受此啟發寫了短篇《紅色房間》(1925年),在《D坂的謀殺案》(1925年)中,明智小五郎提到了《在途中》作為完美犯罪的例子,並讚揚其作者谷崎。此外,對於日本偵探小說的黎明期,一般都著重於西洋偵探小說的影響,但亂步也論證了包括佐藤春夫和芥川龍之介在內的大正文壇的偵探小說傾向也有重大影響。
在1920年發表的《藝術一家言》中,谷崎展開了他的理智藝術觀和敘事論,這對於後來與芥川龍之介的文學爭論來說是相當有趣的。良好的對手芥川在1927年(昭和2年)提出了「(小說中)故事情節是否藝術性」的問題,對此谷崎在《饒舌錄》中激烈反駁,這場爭論在文學史上是著名的(參見芥川的《文藝的,過於文藝的》)。
三島由紀夫指出,芥川的自殺對谷崎文學產生了「逆作用」的影響,谷崎見證了芥川作為藝術家的失敗之死,並認為谷崎是一位「憑藉著天生的受虐者自信,能更好地敗北,然後長生不老」的作家。
谷崎搬遷到關西後的代表作主要是長篇小說,這時他作為敘事作家的質變開始發生。《痴人之愛》(1924年)是他首次在長篇小說中展現豐富風俗性和堅固敘事結構的作品,尤其是風俗描寫問題,對於大正時期的作品以及戰中戰後作品的技法論具有重要意義。著名的傑作《卍》(1928年-1930年)和《食蓼蟲》(1928年-1929年)是以「夫人讓渡事件」等為題材的長篇小說,雖然處理當代風俗,但細膩描繪了男女愛慾的情形,顯示出性愛深不可測的深度,並且揭示了一旦剝開表面,便與文明和社會相連的情況。這兩部作品也反映了谷崎文體的明顯改善,並展示了對關西文化的牽引。
《亂菊物語》(1930年)、《吉野葛》、《盲目物語》、《武州公秘話》(全部1931年)都是谷崎當時關注的歷史題材作品。這些作品雖然改變了舞台和時代背景,但大正時期以來的耽美主義、受虐狂、殘酷性、浪漫趣味、幻想趣味、色情、女性崇拜等特點仍然被繼承。
從這些作品中可以看出,《蘆刈》(1932年)和《春琴抄》(1933年)中的女性形象的造型。特別是中篇《春琴抄》令正宗白鳥脫帽,包含了谷崎式的主題,並使用了相當實驗性的文體,成為一部包含作者所謂的「含蓄」的傑作,值得被稱為代表作。《陰翳禮讚》(1933年-1934年)、《文章讀本》(1935年)這兩部評論充分展現了自己的美學觀,並對當時的文明進行了深刻的批評。這一時期的終結是《貓與庄造和兩個女人》(1936年),彷彿大正時期的谷崎復活了,以《卍》、《食蓼蟲》的文體寫成的佳品。
戰中和戰後谷崎的活動主要是《細雪》與《源氏物語》現代語翻譯的撰寫。《細雪》於1942年(昭和17年)開始撰寫,次年在雜誌《中央公論》上發表,但因奢侈場面過多而在一次發表後被禁,此後谷崎放棄發表。這年他僅出版了私家版的上卷,並在戰中斷斷續續地繼續寫作。到了1947年(昭和22年),下卷的相當部分已經完成,1948年(昭和23年)全編出版完成。這確立了谷崎作為名聲穩固的作家。
一方的《源氏物語》,在1939年(昭和14年)以《潤一郎譯源氏物語》的名稱發表,但中宮的密通部分被刪除。戰後經過修改,在1951年(昭和26年)以《潤一郎新譯源氏物語》出版,並在1964年(昭和39年)推出文體更新的《潤一郎新新譯源氏物語》,成為決定版。
戰後的代表作還有描述母愛和近親相姦情慾的《少將滋幹之母》(1949年)、《夢之浮橋》(1959年)。《鑰匙》(1956年)則以被壓抑的性慾和男女三角關係為主題,可以說是《卍》、《食蓼蟲》系列的總結。此外,《瘋癲老人日記》(1961年-1962年)描寫逼近死亡的恐懼和快樂與受虐情慾交織的境界,其文體論的實驗是谷崎戰後創作的一個高峰。《現代語譯 源氏物語》、《作品集》和《全集》[注 2] 由中央公論社(現在的中央公論新社)出版了各種版本,包括文庫版。谷崎雖然沒有在自己的作品中加入特定的政治意圖,但一些作品仍然受到當局的禁止發行處分,《細雪》就是一例。
谷崎後來表示:"文筆家的自由創作活動被某些權威強制封鎖,對此不僅無法提出半句抗議,甚至沒有深入懷疑的風潮,這強烈壓迫了我。"
谷崎堅持寫下自己的想法,並將其呈現給世界,不僅是他的態度,而且在太平洋戰爭這種前所未有的情況下,他構想出與戰爭無關的、優雅而緩慢的、像繪巻物一樣的小說,這本身就已經象徵了谷崎的特殊性。
三島由紀夫認為,谷崎能夠"將重大的政治情況轉化為令人渴望的殘酷而色情的寓言",並且"不僅是世俗、政治,甚至整個世界在他眼中都不如刺青女子的背部",即使在戰時,谷崎仍堅持這種思想,無意中表達了一種政治態度。對三島來說,谷崎的尤其是戰前的作品,"放在今天之前的風俗中,會顯得更加神秘,真正意義上的快樂",如《少年》(1911年)中孩子們展現的虐戀和自虐戀,以及《秘密》(1911年)中男性偽裝成女性在夜晚的街道上徘徊,以及《卍》(1928年)描述女性同性戀和其毀滅,這些性倒錯的主題"曾是選定者的快樂,處理這樣的題材滿足了一種世紀末的趣味,成為知識階級的惡德表現",但在今天的日本,這些主題的"新奇性"以外,快樂、知性放蕩和惡德的概念性都消失了,所有的性變態都變成了赤裸裸的人性具現,其風趣消失了,其浪漫主義也消失了。
將戰敗視為價值觀最大的轉折點的三島,即使在戰後社會中,所有的背德和放蕩都變得理所當然,但他仍然選擇堅持戰前的"禁忌",並通過侵犯它們來建立某種浪漫主義。對三島來說,谷崎描繪的世界更加"新奇"是困難的。谷崎通過將所有的智慧和感覺完全投入到官能中,創造了"甘美而芳烈"(異端者的悲傷)的作品世界,以及在戰前、戰中和戰後,面對當局的重重壓迫和世俗的善良偽裝,他始終保持自我的傲慢和豪華的反叛精神,這使得谷崎的文學在現代依然獨特和新穎。
1.
"どんな人間でも、大概一生に一度はその人間に相応した華々しい時期と云うものがある。"
每個人一生中至少都會有一段適合自己的輝煌時期。
2.
"恋愛は芸術である。血と肉とを以て作られる最高の芸術である。"
愛是一門藝術。它是用血和肉創造的最高藝術。
3.
"美は考えるものではない。一見して直に感ずる事の出来る、極めて簡単な手続きのものだ。"
美不是你想出來的事。這是一個極為簡單的過程,第一眼就能感受到。
4.
"人は健康になろうと思ったら、西洋流に強く明るく、積極的に生きることだ。食物であろうが、色欲であろうが、欲するままに精一杯貪ることだ。"
人要健康,就應該按照西方的方式堅強、快樂、積極地生活。無論是食物還是慾望,都是要盡可能地消費。
5.
"死ぬということは、生きているよりイヤなことです。けれども、喜んで死ぬことができれば、くだらなく生きているよりは幸福なことです。"
死比活著更糟。然而,如果你能快樂地死去,你會比過著毫無意義的生活更快樂。
6.
"議論を吹っかける場合には、わざと隙間を拵えておくほうが良いんです。そうしないと敵が乗って来ないんです。"
當開始爭論時,最好故意製造點距離。如果你不這樣做,敵人就不會上船。
7.
"意地の悪い人間は、その意地悪さを発揮する相手がいないと寂しいに違いない。"
一個卑鄙的人如果沒有人向他表達他的卑鄙,他就會感受自己是孤獨的。
8.
"筋の面白さは、言ひ換えれば物の組み立て方、構造の面白さ、建築的の美しさである。"
換句話說,讓情節有趣的是事物的組合方式、有趣的結構和塑造之美。
9.
"我という人の心はただひとり、われより外に知る人はなし。"
我這個人的心是孤獨的,除了我之外沒有人知道。
10.
"たとへ神に見放されても私は私自身を信じる。"
即使上帝拋棄了我,我仍然相信自己。
11.
"文章のコツ、即ち人に「わからせる」ように書く秘訣は、文字や言葉で表現できることとできないことの限界を知り、その限界内に止まることが第一。"
寫作的秘訣,即以讓人理解的方式寫作的秘訣,就是知道什麼可以用字母和文字表達,什麼不能表達,並保持在這些限制之內。
12.
"悲しい時には、桜の花の咲くのを見たって涙が出るんだ。"
感傷之際,即便見證櫻花盛開,也止不住淚水。
13.
"世間はただ私の作品をさへ見てくれればよいのであります、それが立派なものなら、私という個人に用はない訳であります。"
只要世界能看看我的作品就行了,如果只是作品寫得好,對我個人來說就沒啥用了。
14.
"物と物のあいだにできる影にこそ、美がある。"
事物之間形成的陰影是美麗的。
15.
"いい宝石は泥土に投げ捨て、火の中へ燻べても固有の輝きを失わない。"
好的寶石即使被丟進泥巴或被火燻過,也不會失去原有的光澤。
16.
"他の一切を放擲して、全然助手を使わずに、自分一人だけでこの仕事に没頭し、殆ど文字通り「源氏に起き、源氏に寝る」という生活を続けた。"
他拋棄了一切,獨自一人投入到這項工作中,沒有任何助手,幾乎過著「像源氏一樣起床,像源氏一樣睡覺」的生活。
17.
"名文とは、長く記憶に留まるような深い印象を与えるもの、何度も繰り返して読めば読むほど滋味のでるもの。"
名言是指給人留下深刻印象、長期留在記憶中、讀得越多、記憶越豐富的句子。
18.
"誰しも「怠け者」と言われて名誉に思う者はないが、年中あくせくと働く者を冷笑し、時には俗物扱いする考えは絶無ではない。"
沒有人會因為被稱為「懶人」而感到榮幸,但人們嘲笑常年努力工作的人,有時甚至把他們視為勢利小人的情況也並非聞所未聞。
19.
"女の顔は男の憎しみがかかればかかる程美しくなる。"
男人的仇恨越多塗在女人的臉上,女人的臉就越美麗。
20.
"だれしも離別は悲しいものにきまっている。それは相手が何者であろうとも、離別ということ自身のうちに悲しみがあるのである。"
分離對每個人來說都必然是悲傷的。不管對方是誰,分離本身就有悲傷。
21.
"自分の欲望を制すれば成功し、自分本位では失敗するということ。人間が言葉を使うと同時に、言葉も人間を使うことがある。"
控制自己的慾望,就會成功,如果只想到自己,就會失敗。人類使用文字的同時,文字也在使用著使用人類。