"永井 荷風(ながい かふう、1879年〈明治12年〉12月3日 - 1959年〈昭和34年〉4月30日)は、日本の小説家。本名は永井 壯吉(ながい そうきち)。号に金阜山人(きんぷさんじん)、断腸亭(だんちょうてい)ほか。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。
東京市小石川区(現在の文京区)出身。父・久一郎は大実業家だったが、荷風は落語や歌舞伎の世界に入り浸った。父は荷風を実業家にするために渡米させるが、荷風はアメリカ駐在を経てフランスにも滞在、同時代のフランス文学を身につけ帰国した。明治末期に師・森鷗外の推薦で慶応義塾教授となるが、江戸文化を無秩序に破壊しただけの幕末維新以後の東京の現状を嘆き、以後は、江戸期の戯作者的な態度を装った生涯を貫いた。
永井久一郎と恒(つね)の長男として、東京市小石川区金富町四十五番地(現:文京区春日二丁目)にて出生。父・久一郎はプリンストン大学やボストン大学に留学経験もあるエリート官吏で、内務省衛生局に勤務していた(のち日本郵船に天下った)。母・恒は、父久一郎の師でもあった儒者鷲津毅堂の次女。
東京女子師範学校附属幼稚園(現在のお茶の水女子大学附属幼稚園)、小石川区小日向台町(現:文京区小日向二丁目)に存在した黒田小学校初等科、東京府尋常師範学校附属小学校高等科(現:東京学芸大学附属竹早小学校)と進み、1891年に神田錦町にあった高等師範学校附属尋常中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)2年に編入学した。また芝居好きな母親の影響で歌舞伎や邦楽に親しみ、漢学者・岩渓裳川から漢学を、画家・岡不崩からは日本画を、内閣書記官の岡三橋からは書をそれぞれ学ぶ。
文学への目覚め
1894年に病気になり一時休学するが、その療養中に『水滸伝』や『八犬伝』『東海道中膝栗毛』などの伝奇小説や江戸戯作文学に読みふけった。彼自身「もしこの事がなかったら、わたくしは今日のように、老に至るまで閑文字を弄ぶが如き遊惰の身とはならず、一家の主人ともなり親ともなって、人間並の一生涯を送ることができたのかもしれない」(『十六、七のころ』岩波文庫より)と書いているように、後の文学活動への充電期間でもあった。また、帝国大学第二病院に入院中に恋心を寄せた看護婦の名・お蓮に因み「荷風」の雅号を用いたのもこの頃である。
中学在学中は、病気による長期療養が元で一年留年し、「幾年間同じ級にいた友達とは一緒になれず、一つ下の級の生徒になったので、以前のように学業に興味を持つことが出来ない。……わたくしは一人運動場の片隅で丁度その頃覚え始めた漢詩や俳句を考えてばかりいるようになった」(『十六、七のころ』より)とあるように文学活動を始めていたが、軟派と目を付けられ寺内寿一(後の元帥)らに殴打される事件に遭っている。1897年3月中学を卒業する。同年7月第一高等学校入試に失敗、9月には家族と上海に旅行し、帰国後の1898年、旅行記『上海紀行』を発表。これが現存する荷風の処女作といわれている。
1897年、神田区一ツ橋に新設された官立高等商業学校附属外国語学校清語科(現:東京外国語大学)に入学し、99年に中退した。
新進作家として
1898年、広津柳浪に入門、1899年清の留学生羅蘇山人の紹介で巖谷小波の木曜会に入る。1900年、『文藝倶楽部』の三宅青軒の紹介で、歌舞伎座に座付作者として入る。1901年、暁星中学の夜学でフランス語を習い始め、エミール・ゾラの『大地』ほかの英訳を読んで傾倒した。1898年から習作を雑誌に発表し、1902年から翌年にかけ、『野心』(1902年4月8日)、『地獄の花』(1902年9月10日)、『夢の女』、翻訳『女優ナナ』(ゾラ作、1903年9月24日)を刊行する。特に『地獄の花』は森鷗外に絶賛され、彼の出世作となる。一方、江戸文学の研究のために落語家六代目朝寝坊むらくの弟子となり、夢之助を名乗って活動したのもこの頃である。
旺盛な創作活動の一方では、荷風の権力に対する反骨精神も作品に反映することもあった。特に1902年発表の『新任知事』は、叔父の福井県知事阪本釤之助をモデルとしたといわれ、これがもとで釤之助は荷風を絶縁する事件が起こっている。
1908年(29歳)、『あめりか物語』を発表。翌1909年の『ふらんす物語』と『歓楽』は風俗壊乱として発売禁止の憂き目にあうが(退廃的な雰囲気や日本への侮蔑的な表現などが嫌われたようである)、夏目漱石からの依頼により1909年12月13日から1910年2月28日まで東京朝日新聞に『冷笑』が連載され、その他『新帰朝者日記』『深川の唄』などの傑作を発表するなど荷風は新進作家として注目され、鷗外、漱石や小山内薫、二代目市川左團次など文化人演劇関係者たちと交友を持った。
1910年、森鷗外と上田敏の推薦で慶應義塾大学文学部の主任教授となる。教育者としての荷風はハイカラーにボヘミアンネクタイという洒脱な服装で講義に臨んだ。内容は仏語、仏文学評論が主なもので、時間にはきわめて厳格だったが、関係者には「講義は面白かった。しかし雑談はそれ以上に面白かった」と佐藤春夫が評したように好評だった。この講義から澤木四方吉、水上瀧太郎、松本泰、小泉信三、久保田万太郎などの人材が生まれている。この頃の荷風は八面六臂の活躍を見せ、木下杢太郎らのパンの会に参加して谷崎潤一郎を見出したり、訳詩集『珊瑚集』の発表、雑誌『三田文学』を創刊し谷崎や泉鏡花の創作の紹介などを行っている。
そのうちに一人、痩躯長身に黒つぽい背広を着、長い頭髪をうしろの方へ油で綺麗に撫でつけた、二十八九歳の瀟洒たる紳士が会場の戸口へ這入つて来た。
彼はその顔の輪廓が俎板の如く長方形で頤の骨が張り、やゝ病的な青く浅黒い血色をし、受け口の口元にだだツ児みたいな俤を残してゐて、黒い服とひよろ高い身の丈とが、すつきりしてゐる反面に、何処かメフィストフェレスのやうな感じがしないでもなかつた。
「永井さんだ」と、誰かゞ私の耳の端はたで云つた。私も一と眼で直ぐさう悟つた。そして一瞬間、息の詰まるやうな気がした。
と、永井氏は控へ室の知人と顔を見合はせて、莞爾として、その長い上半身を丁寧に折り曲げつゝお辞儀をした。
氏のその動作が甚だ優雅に見えた。「いゝね!」と、大貫が私に云つた。「いゝね!」と、私も同じことを云つた。(これが私の永井先生を「見た」最初であつた。と云ふのは、木村は前から先生を知つてゐたので、或る日彼が電話で先生と話してゐた時、その電話には受話器が二つ附いてゐたのを幸ひ、私はもう一つの受話器を取つて、余所ながら先生の声を「聞いた」ことはあつた)
—谷崎潤一郎『青春物語』「パンの会」のこと
また、文学者のパトロン的存在だった西園寺公望にも可愛がられ、西園寺邸で行われた雨聲会に、鷗外、鏡花、島崎藤村、大町桂月、広津柳浪、田山花袋ら先輩の文学者らと参加した。西園寺は父と交際があり、「西園寺公は荷風君を見て『イヤ君のお父さんには、ずゐぶん君のことで泣かれたものだよ』と笑ってゐた」という。
1910年の大逆事件の際、荷風は「日本はアメリカの個人尊重もフランスの伝統遵守もなしに上辺の西欧化に専心し、体制派は、逆らう市民を迫害している。ドレフュス事件を糾弾したゾラの勇気がなければ、戯作者に身をおとすしかない」と考えたという(「花火」1919年)。
以降は江戸の面影を求めて、杖は先哲の墓や遊里に向かい、筆は懐古の随筆や花柳小説の創作に向かい、1914年に『江戸藝術論』、『三田文学』1914年8月-1915年6月に江戸の名残を求めた散策を主題とする随筆『日和下駄』を発表、11月刊行。同年1月20日の『夏姿』は発禁となった。フランス文学に関しても少なからぬ造詣を持ち、アンドレ・ジッドやポール・クローデルの原書を読めと、後進に勧めている。
1916年ごろには『三田文学』の運営をめぐって慶應義塾側との間に意見の対立が深刻化し、荷風は大学教授職を辞している。その後は創作に専念する傍ら雑誌『文明』(1916年4月-1918年9月。30号)を友人の井上唖々とともに立ち上げ、太田蜀山人、寺門静軒、柏木如亭、成島柳北などの江戸戯作者や文人の世界に耽溺するようになった。
慶應大を辞して間もなく、余丁町の邸内の一隅に戻り住んで「断腸亭」と名付け、1917年9月16日から『断腸亭日乗』を綴り始めた。断腸亭の名は荷風が腸を病んでいた事と秋海棠(別名、断腸花)が好きだった事に由来する。 。1918年、余丁町の屋敷を売り、築地二丁目に寓居して翌年、麻布市兵衛町一丁目(現港区六本木一丁目)に新築した偏奇館へ移る[注釈 8]。外装の「ペンキ」と己の性癖の「偏倚」にかけた命名である。ここでは時折、娼婦や女中を入れることはしたが、妻帯し家族を持つのは創作の妨げと公言し、基本的には一人暮らしだった。
この頃、中期の名作『腕くらべ』、『おかめ笹』(『中央公論』1918年1月、続編は『花月』5月-11月。1920年4月刊)などを発表するなど旺盛な創作活動の傍ら、左團次、小山内のほか川尻清潭、岡鬼太郎、山崎紫紅、池田大伍らと交流をもち、南北物の復活狂言の演出や江戸期の文人墨客の研究を行っている。1952年、「温雅な詩情と高邁な文明批評と透徹した現実観照の三面が備わる多くの優れた創作を出した他江戸文学の研究、外国文学の移植に業績を上げ、わが国近代文学史上に独自の巨歩を印した」との理由で文化勲章を受章する。翌年日本芸術院会員に選ばれるなど名誉に包まれた。その一方では相変わらず浅草へ通い、フランスやアメリカの映画を繁く見ている。
創作活動は衰えてはいるが、それでもいくつかの短編が書かれたり、旧作の『あぢさゐ』が久保田万太郎の脚色で、新派の花柳章太郎により演じられるなど話題を集めた。1954年、恩師森鷗外の三十三回忌として、団子坂観潮楼跡に荷風揮毫による『沙羅の木』の碑文が建てられた。この時荷風は記念館造営のため五万円寄付している。
1959年3月1日、長年通い続けた浅草アリゾナで昼食中、「病魔歩行殆困難」(日乗)となる。その後は自宅に近い食堂大黒屋で食事をとる以外は家に引きこもり、病気に苦しむ荷風を見かねた知人が医者を紹介しても全く取り合わなかったという。
4月30日朝、自宅で遺体で見付かった。通いの手伝い婦が血を吐いて倒れているのを見つけ、最後の食事は大黒屋のかつ丼で血の中に飯粒が混ざっていた。胃潰瘍に伴う吐血による心臓麻痺と診断された。傍らに置かれたボストンバッグには常に持ち歩いた土地の権利証、預金通帳、文化勲章など全財産があった。中身の通帳の額面は総額2334万円を超えており、他に現金31万円余が入れられていた。
雑司ヶ谷霊園1種1号7側3番の、父久一郎が設けた墓域に葬られた。なお、故人は吉原の遊女の投込み寺、荒川区南千住二丁目の浄閑寺を好んで訪れ、そこに葬られたいと記していた。
宮尾しげをと住職とが発議し、森於菟・野田宇太郎・小田嶽夫らが実行委員となり、計42人の発起人によって、1963年(昭和38年)5月18日、遊女らの「新吉原総霊塔」と向かい合わせに、谷口吉郎設計の詩碑と筆塚が建立された。"
永井荷風(ながい かふう,1879年〈明治12年〉12月3日 - 1959年〈昭和34年〉4月30日)是日本的小說家。本名為永井壯吉(ながい そうきち)。號有金阜山人(きんぷさんじん)、斷腸亭(だんちょうてい)等。日本藝術院會員、文化功勞者、文化勳章受章者。出生於東京市小石川區(現今的文京區)。父親久一郎是一位大實業家,但荷風卻沉迷於落語和歌舞伎的世界。
父親為了讓荷風成為實業家,將他送往美國,但荷風在美國駐站後,也曾停留在法國,並吸收了當代法國文學,後返回日本。明治末期,在師父森鷗外的推薦下成為慶應義塾的教授,但他對於幕末維新之後東京無秩序地摧毀江戸文化的現狀感到哀嘆,自此以後,選擇了裝扮成江戶時期的戲作家般的生活方式。永井久一郎與恒(つね)的長男,在東京市小石川區金富町四十五番地(現:文京區春日二丁目)出生。父親久一郎是曾經留學普林斯頓大學和波士頓大學的精英官員,曾任職於內務省衛生局(後來轉職到日本郵船)。母親恒是儒家鷲津毅堂的次女。
荷風先後就讀於東京女子師範學校附屬幼稚園(現為お茶の水女子大學附屬幼稚園)、小石川區小日向台町(現:文京區小日向二丁目)的黑田小學校初等科,以及東京府尋常師範學校附屬小學校高等科(現:東京學藝大學附屬竹早小學校),並在1891年轉學至位於神田錦町的高等師範學校附屬尋常中學校(現:茿波大學附屬中學校・高等學校)二年級。
受到喜愛戲曲的母親影響,荷風對歌舞伎和邦樂頗有親近感,並分別向漢學家岩渓裳川學習漢學,向畫家岡不崩學習日本畫,以及向內閣書記官岡三橋學習書法。文學覺醒1894年因病休學,治療期間沉醉於《水滸傳》、《八犬傳》、《東海道中膝栗毛》等傳奇小說和江戸戲曲文學之中。荷風自述,如果沒有這段經歷,或許他不會成為今天這樣沉迷於文字遊戲的閒散身份,可能會成為一個家庭的主人,過著平凡人的一生(來自《十六、七的那時候》岩波文庫)。
另外,在帝國大學第二病院住院期間,因懷有對護士お蓮的愛慕之情,而取用了「荷風」這個雅號。中學時因長期病休而留級,與原本同級的朋友分開,對學業失去了興趣,轉而投入文學創作,但也因此被視為軟派,甚至遭受寺內寿一(後來的元帥)等人的毆打。1897年3月畢業於中學,同年7月參加第一高等學校入試落榜,9月與家人前往上海旅行,歸國後於1898年發表旅行記《上海紀行》,這被認為是現存的荷風處女作。1897年,荷風進入位於神田區一ツ橋新設的官立高等商業學校附屬外國語學校清語科(現:東京外國語大學),並於99年中退。
1898年,永井荷風拜入廣津柳浪門下,1899年透過清國留學生羅蘇山人的介紹加入了巖谷小波主持的木曜會。1900年,經由《文藝俱樂部》的三宅青軒推薦,成為歌舞伎座的座付作家。1901年,開始在暁星中學的夜學中學習法語,並閱讀了埃米爾·左拉的《大地》等英譯作品,對其產生了深厚的傾慕。
從1898年起在雜誌上發表作品,並在1902年至次年間出版了《野心》(1902年4月8日)、《地獄的花》(1902年9月10日)、《夢之女》,以及翻譯作品《女演員娜娜》(左拉所著,1903年9月24日)。特別是《地獄的花》受到森鷗外的高度讚賞,成為他的成名作。同時,為了研究江戶文學,他拜入了落語家六代目朝寢坊むらく為徒弟,以夢之助之名活躍於此。
在旺盛的創作活動之餘,荷風對權力的反骨精神也反映在作品中。特別是1902年發表的《新任知事》,據說是以叔叔、福井縣知事阪本釤之助為原型,此作品的出版導致釤之助與荷風斷絕關係。1908年(29歲),發表了《美國物語》。
隔年的《法蘭西物語》和《歡樂》因為被視為風俗敗壞而遭到禁止發售(可能是因為其中退化的氛圍或對日本的蔑視表現),但在夏目漱石的邀請下,1909年12月13日至1910年2月28日在《東京朝日新聞》上連載《冷笑》,同時發表了其他佳作如《新歸朝者日記》和《深川之歌》等。
荷風作為新進作家受到矚目,與鷗外、漱石、小山內薰、二代目市川左團次等文化人演劇關係者建立了友誼。1910年,在森鷗外和上田敏的推薦下,成為慶應義塾大學文學部的主任教授。作為教育者的荷風,以時髦的波西米亞風領帶、灑脫的服裝出現在講台上。
講授的內容主要是法語和法國文學評論,對時間管理非常嚴格,但同時也因其講義有趣而受到好評,佐藤春夫曾評論說「講義很有趣,但閒聊更加有趣」。從這些講義中,湧現了澤木四方吉、水上瀧太郎、松本泰、小泉信三、久保田萬太郎等人才。在這個時期,荷風展現了多面手的活躍,參與了木下杢太郎等人的麵包會,發掘了谷崎潤一郎,發表了譯詩集《珊瑚集》,創辦了雜誌《三田文學》,介紹了谷崎和泉鏡花的創作等。
在那之中,一位穿著黑色西裝,瘦長身材的二十八九歲的儒雅紳士,將長髮用油梳得整整齊齊往後,走進了會場的門口。
他的臉龐輪廓像切菜板一樣長方形,下巴的骨頭突出,略帶病態的青灰膚色,在微微突出的下唇處留有孩子般的痕跡,黑色的衣服和修長的身材使他看起來整潔,但在某種程度上,也讓人感到有點像梅菲斯特。“那是永井先生”,有人在我耳邊說。我一眼就認出來了。我感到一陣窒息。
永井先生與休息室裡的熟人對視,微笑著,彬彬有禮地深深鞠了一躬。他的動作看起來非常優雅。“好棒啊!”大貫對我說。“好棒啊!”我也說了同樣的話。(這是我第一次「看到」永井先生。之所以這麼說,是因為木村先前就認識先生,有一天他在打電話與先生談話時,幸運的是電話上有兩個聽筒,我拿起了另一個,雖然是在一旁,卻「聽到」了先生的聲音)
—谷崎潤一郎《青春物語》“麵包會”的故事
他還受到文學家的庇護者西園寺公望的寵愛,在西園寺宅邸舉行的雨聲會上,與鴎外、鏡花、島崎藤村、大町桂月、廣津柳浪、田山花袋等前輩文學家一同參加。西園寺與他的父親有交往,曾笑著說:「西園寺公看著荷風君說『嘩,你的父親因為你哭過不少次啊』」。
1910年大逆事件時,荷風認為「日本專注於表面的西化,既沒有美國的個人尊重也缺乏法國的傳統遵守,體制派迫害反對的市民。如果沒有像左拉那樣勇敢糾弾德雷福斯事件的人,那只能沉落到戲作家的地步」(《煙火》,1919年)。
此後,他追尋著江戶的影子,用手杖探訪先賢的墓地和遊里,用筆創作懷舊的隨筆和花柳小說,1914年發表了《江戶藝術論》和以江戶的遺跡為主題的隨筆《日和下駄》(《三田文學》,1914年8月至1915年6月),11月出版。同年1月20日的《夏姿》被查禁。他對法國文學也頗有研究,推薦後進讀安德烈·紀德和保羅·克洛岱爾的原著。
1916年左右,因《三田文學》的經營與慶應義塾發生嚴重意見對立,荷風辭去大學教授職位。之後,他專注於創作,並與朋友井上啞啞一起創辦了雜誌《文明》(1916年4月至1918年9月,共30期),沉迷於江戶時代戲作家和文人的世界。
從慶應大學辭職不久後,荷風回到余丁町的住宅的一角,並命名為「斷腸亭」,從1917年9月16日開始記錄《斷腸亭日誌》。斷腸亭的名字來自於荷風患有腸病和他喜歡的秋海棠(又名斷腸花)。1918年,他賣掉余丁町的住宅,搬到築地二丁目居住,次年搬到新建的偏奇館(現港區六本木一丁目)。這個名字是以外牆的「油漆」和他自己的性癖「偏依」來命名的。在這裡,他偶爾會讓妓女或女僕進來,但他公開聲稱結婚和擁有家庭會妨礙創作,所以基本上是獨居。
這段時間,他發表了中期名作《腕比》、《おかめ笹》(《中央公論》,1918年1月,續篇在《花月》5月至11月,1920年4月出版)等作品,並與左團次、小山內以及川尻清潭、岡鬼太郎、山崎紫紅、池田大伍等人交流,從事南北物的復興狂言演出和江戶時代文人墨客的研究。1952年,因為「溫雅的詩情、高邁的文明批評和透徹的現實觀照相結合的優秀創作,以及對江戶文學的研究和外國文學的移植,為我國近代文學史留下了獨特的足跡」而獲得文化勳章。隔年被選為日本藝術院會員等榮譽。他仍然經常去浅草,看法國和美國的電影。
創作活動雖然有所衰退,但仍然有一些短篇作品被寫出,舊作《紫陽花》由久保田萬太郎改編,由新派的花柳章太郎演出,引起了不少話題。1954年,在森鷗外逝世三十三週年紀念日,於團子坂観潮樓跡建立了由荷風提筆的《沙羅之木》碑文。當時,荷風捐贈五萬日元用於建造紀念館。
1959年3月1日,荷風在常去的浅草亞利桑那吃午餐時,變得「病魔步行幾乎困難」(日誌)。之後,除了在鄰近的食堂大黑屋吃飯外,幾乎不外出,病痛折磨的荷風即使有知人介紹醫生,他也完全不理會。
4月30日早上,在家中發現他的遺體。通勤的幫傭發現他吐血倒下。最後的食物是大黑屋的炸豬排飯,飯粒中混有血跡。死因被診斷為因胃潰瘍引起的吐血導致的心臟麻痺。旁邊放著他常帶的波士頓包,裡面有土地權利證、存款簿、文化勳章等所有財產。通帳總額超過2334萬日元,另有現金31萬日元。
他被埋葬在父親久一郎設立的墓地,位於雜司ヶ谷霊園1種1號7側3號。荷風曾記載希望被埋葬在喜歡的吉原遊女的投込み寺、荒川區南千住二丁目的淨閑寺。
由宮尾茂和住持提出,森於菟、野田宇太郎、小田嶽夫等人成為執行委員,1963年(昭和38年)5月18日,由42人的發起人建立了詩碑和筆塚,與新吉原總靈塔相對,由谷口吉郎設計。
1.
"ぼくは自分のやりたいことはドンドンやって楽しむ。楽しんだことは後で後悔しない。"
我喜歡做我想做的事。如果玩得開心,以後就不會後悔。
2.
"人間の最大不幸は、其の成功を意識した瞬間から始まる。"
人最大的不幸開始於他意識到自己成功的那一刻。
3.
"自覚さえすればどんな生活にだって深い意味が出来る。"
如果你意識到這一點,任何生命都可以具有深刻的意義。
4.
"同じ食物でも、場所が悪いと食う気になれない。ものをうまく食うには料理よりか周囲の道具立てのほうが肝腎なものです。"
即使吃同樣的食物,如果位置不好,你也不會想吃。為了吃得好,身邊的器皿比食物本身更重要。
5.
"日本人は三十の声を聞くと青春の時期が過ぎてしまったように云うけれども、情熱さえあれば人間は一生涯青春で居られる。"
日本人一聽到三十歲的聲音,就認為自己的青春已經過去了,但只要有激情,就可以青春永駐。
6.
"子供の楽しみに対する敵はいつでも父か教師である。"
孩子享受快樂的敵人永遠是父親或老師。
7.
"世間のつまらぬ不平や不愉快を忘れるには学問に遊ぶのが第一の方法である。"
忘記世界上無聊的抱怨和不愉快的最好方法就是玩學習。
8.
"愛することは、憎むことを知る始めである。"
愛開始是懂得如何恨。
9.
"詭弁はよしたまえ。つまらんパラドックスは自分で自分を不幸にするようなものだ。"
避免詭辯。無聊的悖論就像讓自己不快樂。
10.
"悲哀や苦痛はつまり、楽しい青春の夢をなお楽しく強く味わわせる酒のようなものだ。"
悲傷和痛苦就像酒精一樣,讓青春的美好夢想變得更加愉悅和強烈。
11.
"その女に捨てられたという時には、多少なりと精神上に傷害を残す位な濃艶に狂激な女が欲しいのです。"
當他被一個女人拋棄的時候,他想要一個充滿激情、熱情到足以留下一些精神傷害的女人。
12.
"どんな女でもいいのです。心底から私を有頂天にさせてくれる、身も世も忘れさせてくれるような女なら、どんな女でもいいのです。"
任何女人都好。任何女人只要能讓我從心底感到欣喜若狂,讓我忘卻自己、忘卻世界就可以了。
13.
"ねぇ、あなた。話をしながらご飯を食べるのは楽しみなものね。"
嘿,你。邊吃邊聊很有趣。
14.
"女人は、生活をともにして自分の内側に入らせないかぎり、愛好すべきものなり。"
女人是值得欽佩的,除非你和她們一起生活並讓她們進入你的內心。
15.
"早く結婚しては不可(いけな)い。男の側から世に此上(このうえ)の美人は無いと云う位な人の妻と、其れ程ではない処女(むすめ)とを比較(くら)べて見て、何(いず)れがより強い空想を起こさせるか。男の魔力も其れと同じ事だ。"
早結婚是不好的。當一個男人將一個被稱為世界上最美麗的女人的妻子與一個不那麼漂亮的處女女兒進行比較時,你會想到什麼?人的魔力也是如此。
16.
"月の光も雨の音も、恋してこそ初めて新しい色と響(ひびき)を生ずる。"
只有當你墜入愛河時,月光和雨聲才會呈現出新的色彩和聲音。
17.
"花が咲いたら其(そ)れをば二人同じような心持で眺めたい。蝶が飛んだら二人して其れを追いたい。"
當花開的時候,我也想以同樣的感覺來看待它們。當蝴蝶飛過時,我們都想追它。
18.
"連日銀行に出なければならないので、此れが何よりもつらい。僕は西洋に居たいばかりに、ふなれなソロバンをはじき、俗人と交際をして居る。"
這是最難的部分,因為我每天都要去銀行。我只想生活在西方,所以我拒絕聯誼會並與普通人約會。
19.
"つれづれなるあまり余が帰朝以来、馴染を重ねたる女を左に列挙すべし。"
我太無聊了,我應該在左邊列出我回到日本後認識的女性。
20.
"今にして思い返せば、わが身に定まる妻のなかりしも幸の一なり、妻なければ子孫もなし、子孫なきが故にいつ死にても気が楽にて心残りのすることなし。"
現在回想起來,我發現有一個妻子對我來說是一件幸事。會後悔了。
21.
"余死する時葬式無用なり。(略)葬式不執行の理由は御神輿の如き霊柩自動車を好まず、又紙製の造花、殊に鳩などつけたる花環を嫌うためなり。"
當你快要死的時候,沒有必要舉行葬禮。 之所以不舉行葬禮,是因為他們不喜歡像神轎一樣的靈車,也不喜歡人造紙花,尤其是鴿子花環。