"井原 西鶴(いはら さいかく、寛永19年〈1642年〉[注釈 1] - 元禄6年8月10日〈1693年9月9日〉)は、江戸時代の大阪の浮世草子・人形浄瑠璃作者、俳諧師。別号は鶴永、二万翁、西鵬。『好色一代男』をはじめとする浮世草子の作者として知られる。談林派を代表する俳諧師でもあった。"
井原西鶴(日語:いはら さいかく、本名平山藤五(ひらやま とうご),1642年(寬永19年) - 1693年9月9日(元祿6年8月10日)),別號是鶴永、二萬翁,晩年所用的名號西鵬。井原西鶴是江戶時代的浮世草子·人形淨瑠璃的作者以及俳人(俳句詩人)。井原西鶴獨創了文學體裁「浮世草子」,從而促使町人文學的誕生,被譽為「日本近代文學大師」。
井原 西鶴(いはら さいかく、寛永19年〈1642年〉[注釈 1] - 元禄6年8月10日〈1693年9月9日〉)は、江戸時代の大阪の浮世草子・人形浄瑠璃作者、俳諧師。別号は鶴永、二万翁、西鵬。『好色一代男』をはじめとする浮世草子の作者として知られる。談林派を代表する俳諧師でもあった。
延宝元年(1673年)春、大坂・生國魂神社の南坊で万句俳諧の興行をし、同年6月28日『生玉万句』として出版[3]。この自序に「世こぞつて濁れり、我ひとり清すめり」「賤やつがれも狂句をはけば、世人阿蘭陀流などさみして、かの万句の数にものぞかれぬ」「雀の千こゑ鶴の一声」と記し、自らの新風を強調した。その結果、談林俳諧師の先鋭とされ、「おらんだ西鶴」と称された。
西山宗因の『蚊柱百句』に先立つこと1年、談林俳諧成立の記念碑的作品と見る見方もある。また、その興行の出句者を見ると宗因の影が濃く、既に師・宗因と出会っていた可能性が高い。西鶴号が、翌年正月の『歳旦発句集』に初めて見える。
延宝3年(1675年)、34歳の時に妻を亡くし1000句の追善興行、『誹諧独吟一日千句』(同年4月8日自序)と題して出版する。大坂俳壇の重鎮の多くを含む105名の俳諧師の追善句も載せる。同年に剃髪し、法体になっている。
延宝5年(1677年)3月、大坂の生國魂神社で一昼夜1600句独吟興行し、5月にそれを『俳諧大句数』と題して刊行[3]。序文にて「今又俳諧の大句数初て、我口拍子にまかせ」と矢数俳諧(cf.通し矢)の創始を主張し「其日数百人の連衆耳をつぶして」と自慢気に語ったが、同年9月に月松軒紀子が1,800句の独吟興行で西鶴の記録を抜く。翌年、月松軒の独吟が『俳諧大矢数千八百韵』と題して刊行され、点を加えた菅野谷高政が序で西鶴を皮肉るような物言いをする[要出典]。延宝7年(1679年)、大淀三千風が独吟3,000句を達成し『仙台大矢数』として出版、その跋文に西鶴は「紀子千八百はいざ白波の跡かたもなき事ぞかし」「其上かゝる大分の物、執筆もなく判者もなし、誠に不都合の達者だて」と紀子の一昼夜独吟に疑いをかけ「中々高政などの口拍子にては、大俳諧は及ぶ事にてあらず」と返す刀で高政をも切る。延宝8年5月7日(1680年6月3日)に生國魂神社内で4,000句独吟を成就、翌年4月に『西鶴大矢数』と題して刊行した。貞享元年(1684年)には摂津住吉の社前で一昼夜23,500句の独吟、以後時に二万翁と自称。1684年刊行『俳諧女哥仙』以降は俳書の刊行は休止状態となる。
作家への転進
天和2年(1682年)10月、浮世草子の第一作『好色一代男』を出板。板下は西吟、挿絵は西鶴。好評だったのか板を重ね、また翌々年には挿絵を菱川師宣に変えた江戸板も出板、貞享3年(1686年)には師宣の絵本仕立にした『大和絵のこんげん』と『好色世話絵づくし』も刊行された。さらに『一代男』の一場面が描かれた役者絵が残っていることから、歌舞伎に仕組まれたこともあるようである。
以後、後に『一代男』とともに好色物と括られる『諸艶大鑑』(1684年)、『好色五人女』(1686年)、『好色一代女』(同年)が立て続けに書かれ、やがて雑話物や武家物と呼ばれるジャンルに手を染めるようになる。この変化から、好色本の禁令が出たのではないかという考えもあるが、『色里三所世帯』(1688年)や『好色盛衰記』(同年)また遺稿の『西鶴置土産』など好色物は書き続けられているので、その説は信じがたく、またそのような禁令があったという証拠も存在しない。
天和3年(1683年)正月、役者評判記『難波の貌は伊勢の白粉』を刊行(現存するのは巻二巻三のみ)。貞享2年(1685年)には浄瑠璃『暦』をつくる。この作品は、浄瑠璃太夫の宇治加賀掾のために書かれたもので、自分の許を飛び出し道頓堀に竹本座を櫓揚げした竹本義太夫を潰すために、京都から一座を引き連れて乗り込んだ加賀掾が西鶴に依頼した作品。敗北した加賀掾はさらなる新作を依頼し、西鶴は『凱陣八島』をもって応え、対する義太夫側は当時まだ駆け出しの近松門左衛門の新作『出世景清』で対抗。今度は加賀掾側に分があったが、3月24日(4月27日)に火事にあい帰京したという。この道頓堀競演については西沢一風の『今昔操年代記』に記されている。なお『歌舞妓始記評林』(1775年)に「往古の狂言作者には西鶴、杉三安、安達三郎左衛門、金子吉右衛門等ありといへども」とある。これについては西鶴による歌舞伎台本が残っておらず、また100年後の資料なので扱いは難しいが、現存する文献証拠で推測される以上に演劇界と深い関わりを持っていた可能性は十分に存在する。しかし、竹内玄玄一『俳家奇人談』(1816年)にある近松が西鶴門だという言い伝えは信じがたい。
俳諧師として
『生玉万句』(1673年)の自序に「世人阿蘭陀流などさみして」とあり、貞門俳人・中島随流は『誹諧破邪顕正』(1679年)で西山宗因を「紅毛(ヲランダ)流の張本」、西鶴を「阿蘭陀西鶴」と難じ、同じ談林の岡西惟中は『誹諧破邪顕正返答』(1680年)で「師伝を背」いていると批難、松江維舟は『俳諧熊坂』(1679年)で「ばされ句の大将」と謗ったように西鶴は多く批判されたが、それはむしろ当時の談林派でのまた俳壇での西鶴の存在の大きさを証する。
ただ、西鶴は阿蘭陀流という言葉が気に入ったのか、『俳諧胴骨』(1678年)の序に「爰にあらんだ流のはやふねをうかめ」、『三鉄輪』(1678年)の序に「阿蘭陀流といへる俳諧は、其姿すぐれてけだかく、心ふかく詞新しく」などとした。
また西国撰の『見花数寄』(1679年)に載る西国と西鶴の両吟では、西国の「桜は花阿蘭陀流とは何を以て」という発句に西鶴が「日本に梅翁その枝の梅」とつけ、阿蘭陀流の幹に宗因(梅翁)を位置づける。"
"井原西鶴(いはら さいかく、寬永19年〈1642年〉[註釋 1] - 元祿6年8月10日〈1693年9月9日〉)是江戶時代大阪的浮世草子和人形浄瑠璃作者,俳諧師。別號為鶴永、二萬翁、西鵬。以著有《好色一代男》等浮世草子而聞名。同時也是代表談林派的俳諧師。
延寶元年(1673年)春天,在大阪・生國魂神社的南坊舉辦了萬句俳諧的演出,並於同年6月28日出版了《生玉萬句》。在自序中寫道「世間皆已混濁,唯有我一人清明」「賤者即便狂句亦能使世人對荷蘭風格感到陌生,無法企及那萬句的數量」「千隻雀鳥之聲,一聲鶴鳴」,強調了自己的新風格。結果被視為談林俳諧師的先鋒,並被稱為「荷蘭西鶴」。
西山宗因的《蚊柱百句》問世前一年,有人將其視為談林俳諧成立的紀念碑性作品。此外,觀察當時的出句者,可以看出宗因的影響深遠,很可能已經與師父宗因相遇。而西鶴的筆名,則首次出現在隔年正月的《歳旦發句集》中。
延寶3年(1675年),34歲時失去妻子,舉辦了1000句的追悼活動,並出版了《誹諧獨吟一日千句》(同年4月8日自序)。書中收錄了包括大阪俳壇重要人物在內的105位俳諧師的追悼句。同年剃髮,成為法師。
延寶5年(1677年)3月,在大阪的生國魂神社中,連續一昼夜吟唱1600句俳句,並於5月出版為『俳諧大句數』。序文中提到「今又俳諧的大句數初次,我將口拍子交給它」,主張箭數俳諧(參見通し矢),並自誇地說「那天數百人的連續耳朵都被我吸引住了」,但同年9月,月松軒紀子以1800句的獨吟超越了西鶴的記錄。次年,月松軒的獨吟以『俳諧大矢數千八百韻』為題出版,加點的菅野谷高政在序言中對西鶴進行了挖苦式的言論。延寶7年(1679年),大淀三千風完成了3000句的獨吟,並以『仙台大矢數』出版,西鶴在跋文中寫道「紀子千八百句,真是無法置信的事情」「這些作品中,沒有寫手也沒有判斷者,確實是一個不便的達人」,對紀子的一昼夜獨吟表示懷疑,並以「即使是高政這樣的口拍子,也無法達到大俳諧的水準」的話語,用刀砍斷了高政。延寶8年5月7日(1680年6月3日),在生國魂神社內完成了4000句的獨吟,次年4月出版了『西鶴大矢數』。貞享元年(1684年),在摂津住吉神社前,一昼夜吟唱了23,500句獨吟,此後時常自稱為「二萬翁」。
作家之路
天和2年(1682年)10月,浮世草子的第一部作品《好色一代男》問世。板下由西吟,插圖由西鶴負責。由於好評,板數增加,並在隔年換成菱川師宣的插圖,江戶板也問世。貞享3年(1686年)出版了師宣的繪本作品《大和絵のこんげん》和《好色世話絵づくし》。此外,由於留有描繪《一代男》一幕的役者畫,似乎也與歌舞伎有所關聯。
從此之後,接連寫作了被歸類為好色作品的《諸艶大鑑》(1684年)、《好色五人女》(1686年)、《好色一代女》(同年),並逐漸開始涉足被稱為雜話物或武家物的類型。有人認為這種變化是因為對好色書籍實施了禁令,但由於《色里三所世帯》(1688年)、《好色盛衰記》(同年)以及遺作《西鶴置土産》等好色作品仍在持續寫作,這種說法難以置信,而且也沒有證據表明當時存在這樣的禁令。
天和3年(1683年)正月,發行了役者評判記《難波之貌是伊勢之白粉》(現存僅有第二卷和第三卷)。貞享2年(1685年)創作了浄瑠璃《曆》。這部作品是為了浄瑠璃太夫宇治加賀掾而寫的,加賀掾為了打敗飛出自己領地到道頓堀竹本座擺攤的竹本義太夫,從京都帶著一座劇團前去,並請求西鶴寫作。加賀掾失敗後又請求新作,西鶴以《凱陣八島》回應,而義太夫方則以當時新晉的近松門左衛門的《出世景清》對抗。這次加賀掾方面稍占上風,但在3月24日(4月27日)遭遇火災後返回京都。這次道頓堀的競演被記載在西沢一風的《今昔操年代記》中。
在《生玉万句》(1673年)的自序中寫道「世人阿蘭陀流などさみして」,貞門俳人・中島随流在《誹諧破邪顕正》(1679年)中將西山宗因稱為「紅毛(荷蘭)流的標本」,對西鶴則提出質疑,而談林的岡西惟中在《誹諧破邪顕正返答》(1680年)中批評他「違背師傳」,松江維舟在《俳諧熊坂》(1679年)中將西鶴稱為「被詛咒的句子之大將」。儘管西鶴受到許多批評,但這反而證明了當時談林派和俳壇對西鶴的重視。
然而,西鶴似乎喜歡阿蘭陀流這個詞,他在《俳諧胴骨》(1678年)的序言中寫道「爰にあらんだ流のはやふねをうかめ」,在《三鉄輪》(1678年)的序言中寫道「阿蘭陀流といへる俳諧は、其姿すぐれてけだかく、心ふかく詞新しく」等等。
另外,在西國撰的《見花數寄》(1679年)中,西國和西鶴的兩首吟詠中,西國提出了「櫻花是如何與荷蘭風格相比」的句子,而西鶴則回應說「在日本,梅翁的枝上有梅花」,將宗因(梅翁)定位於荷蘭風格的主幹。"
1.
"その身に染まりては、いかなる悪事も見えぬものなり。"
一旦沾染了它,就看不到任何惡行。
2.
"憂うる者は富貴にして憂い、楽しむ者は貧にして楽しむ。"
悲傷者變得富有,而悲傷;享受者變得貧窮而自得其樂。
3.
"浮世の月見過しにけり末二年"
浮世思念月亮已經兩年了。
4.
"譬へば腎虚してそこの土となるべき事。
たまたま。
一代男に生まれての。
それこそ願いの道なれと。
神無月の末に。行方知れず成にけり。"
倘若你因腎虧而結了,就應該成為土壤。
偶然。
作為新一代出生。
那將是我願望的道路。
神無月的最後。下落不明,並死亡。
5.
"鯛は花は見ぬ里もあり今日の月"
今天的月亮
6.
"それ人間の一心、万人ともに替われる事なし。
長剣させば武士、烏帽子をかづけば神主、黒衣を着すれば出家、鍬を握れば百姓、手斧つかひて職人、十露盤をきて商人をあらはせり。
其家業、面々一大事をしるべし。"
這就是人類的專一,是任何人都無法取代的。
如果他戴著長劍,他就是武士;如果他穿著黑袍,他就是僧侶;如果他拿著鋤頭,他就是農民;一把斧頭,他是工匠;
每個人都應該好好照顧自己的家族事業。
7.
"大晦日定なき世の定かな"
每年的最後一日是一個不曾改變的世界規則。
8.
"長持に春かくれゆく衣がへ"
耐久的衣服藏在春天裡
9.
"明け暮れ男自慢、何づれ女の好ける風俗。"
一個以自己為榮的男人,也是女人喜歡的類型。
10.
"一日まさりになじめば、人ほどかはいらしき者はなし。"
沒有人比只適應了一天的人更脆弱。
11.
"惣じて女たしなむべきは言葉なり。"
畢竟女性一定會做的事就是戀愛。
12.
"物には時節あり。
花の開閉、人間の生死なげくべからず。"
事物都有它的季節。
花的開與閉,人的生與死。
13.
"世に銭ほどおもしろきものはなし。"
世界上沒有什麼比金錢更有趣的了。