"遠藤 周作(えんどう しゅうさく、1923年〈大正12年〉3月27日 - 1996年〈平成8年〉9月29日)は、日本の小説家。日本ペンクラブ会長。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。
12歳の時カトリック教会で受洗。評論から小説に転じ、「第三の新人」に数えられた。その後『海と毒薬』でキリスト教作家としての地位を確立。日本の精神風土とキリスト教の相克をテーマに、神の観念や罪の意識、人種問題を扱って高い評価を受けた。ユーモア小説や「狐狸庵」シリーズなどの軽妙なエッセイでも人気があった。
父親の仕事の都合で幼少時代を満洲で過ごした。帰国後の12歳の時に伯母の影響でカトリック夙川教会で洗礼を受けた。1941年上智大学予科入学、在学中同人雑誌「上智」第1号に評論「形而上的神、宗教的神」を発表した(1942年同学中退)。
その後、慶應義塾大学文学部仏文科に入学。慶大卒業後は、1950年にフランスのリヨンへ留学。帰国後は批評家として活動するが、1955年半ばに発表した小説「白い人」が芥川賞を受賞し、小説家として脚光を浴びた。第三の新人の一人。キリスト教を主題にした作品を多く執筆し、代表作に『海と毒薬』『沈黙』『侍』『深い河』などがある。1960年代初頭に大病を患い、その療養のため町田市玉川学園に転居してからは「狐狸庵山人(こりあんさんじん)」の雅号を名乗り、ぐうたらを軸にしたユーモアに富むエッセイも多く手掛けた。
無類の悪戯好きとしても知られ、全員素人による劇団「樹座」や素人囲碁集団「宇宙棋院」など作家活動以外のユニークな活動を行う一方で、数々の大病の体験を基にした「心あたたかな病院を願う」キャンペーンや日本キリスト教芸術センターを立ち上げるなどの社会的な活動も数多く行った。彼の悪戯として友人に対するいたずら電話がその例として挙げられる。
『沈黙』をはじめとする多くの作品は、欧米で翻訳され高い評価を受けた。グレアム・グリーンの熱烈な支持が知られ、ノーベル文学賞候補と目されたが、『沈黙』のテーマ・結論が選考委員の一部に嫌われ、『スキャンダル』がポルノ扱いされたことがダメ押しとなり、受賞を逃したと言われる。
1923年3月27日、東京府北豊島郡西巣鴨町(現在の東京都豊島区北大塚)に、第三銀行に勤めていた銀行員遠藤常久と東京音楽学校ヴァイオリン科の学生郁(旧姓・竹井)の次男として生まれた。父・常久は東京帝国大学独法科在学中の1920年に郁と知り合い、翌1921年に結婚。同年に長男の正介、その2年後に次男の周作が誕生した。
かつて鳥取県東伯郡浅津村下浅津(現・湯梨浜町下浅津)にあった遠藤家は、江戸時代に鳥取の池田家に御典医として仕え、維新後同地に移り住んだ開業医だった。明治後期から終戦後まで当地で医業に当たったのは遠藤河津三で、花見村長和田(現・湯梨浜町長和田)には出張診療所も設け繁盛した。しかし、河津三には子どもがなかったため、鳥取市生まれの常久を養子に迎えた。 父・常久は後に安田工業の社長などを歴任する実業家となる。軽井沢の泉の里に持っていた別荘から白水甲二という筆名を編み出し、『きりしたん大名 大友宗麟』という作品を遺している。
母・郁は現在の岡山県笠岡市出身で、岡山県の土豪竹井党を遠祖に持つ。後に周作は、この遠祖の地(現在の岡山県井原市美星町中世夢が原歴史公園)に「血の故郷」と題した石碑を建立している。
1954年4月から文化学院の講師を務めた。安岡章太郎の紹介で、谷田昌平とともに構想の会に参加し、小島信夫、近藤啓太郎、庄野潤三、進藤純孝、三浦朱門、吉行淳之介らとの知遇を得た。
遠藤はこの年から、本格的に作家として活動を始める。奥野健男の依頼で現代評論に創刊号から参加するなど駆け出しとしては上々と思われた。
1954年末に執筆した、初の小説「アデンまで」は仲間内で高い評価を受けた。続いて執筆した小説「白い人」は、翌1955年7月に、一足飛びに第33回芥川賞を受賞した。同年9月、岡田順子と2年半の交際を実らせ、結婚した。交際当初、岡田の父岡田幸三郎は「文士風情」「肺に病気を抱えている」などの理由でこれを認めなかったが、遠藤周作の文章を早い時期から評価し、なおかつ、岡田家とも繋がりがあったフランス文学者小林正が説得に当たったという。結婚後は、一時期父の家に順子夫人が家入りする形で同居したが、まもなく世田谷松原に転居した。1956年6月、長男の龍之介が誕生しささやかにも家庭を築き始めると、遠藤の父に対する敵意は本格的な物になっていった。芥川賞を受賞し、作家としては順風満帆な駆け出しかと思えたが、当時の生活は決して楽なものではなかったという。1956年から上智大学文学部の講師を務めた。
1957年、九州大学生体解剖事件(相川事件)を主題にした小説「海と毒薬」(文学界、6・8・10月)を発表し、小説家としての地位を確立した。『海と毒薬』は、翌1958年4月に文藝春秋新社から出版され、12月に第5回新潮社文学賞、第12回毎日出版文化賞を受賞した。
9月末にアジア・アフリカ作家会議に出席するため、伊藤整、加藤周一、野間宏らとともに渡ソ。10月にソ連のタシケントでの会議に参加した後、モスクワを廻り、12月に帰国した。同1958年、第六次三田文学に編集委員として参加。他の委員は堀田善衛、梅田晴夫、安岡章太郎、白井浩司、柴田錬三郎、庄司総一。
1959年11月には、マルキ・ド・サドの勉強/さらに理解を深めるために、順子夫人を同伴して、フランスに旅行した。遠藤はこの時に、マルキ・ド・サドの研究家、ジルベール・レリー(フランス語版))、ピエール・クロソウスキーとの知遇を得た。その後、イギリス、スペイン、イタリア、ギリシャからエルサレムを廻り、翌1960年1月に帰国した。
帰国後に体調を崩し、4月に肺結核が再発した。東京大学伝染病研究所病院に入院し、治療を試みたがなかなか回復せず、年末に慶應義塾大学病院に転院した。翌1961年に、3度にわたり肺の手術を行った(1月7日、1月21日前後、12月末)。危険度が高い3度目の手術の前日、とある見舞い客が持ってきた紙で出来た踏絵を見たという。一時は危篤状態までに陥ったが、奇跡的に回復した。翌1962年5月にようやく退院することになった。
1980年代から「武功夜話」をベースにした小説『反逆』を読売新聞に連載(1988年1月26日 - 1989年2月7日)、同じく小説『決戦の時』を山陽新聞などに連載(1989年7月30日 - 1990年5月31日)、同じく小説『男の一生』を日本経済新聞に連載した(1990年9月1日 - 1991年9月13日)。この3作品は遠藤周作の戦国三部作と呼ばれる。
1993年『深い河』発表。この小説は冒頭から「シンクロニシティ」を扱っている。なお「シンクロニシティ」については、1992年8月「朝日新聞」に連載していた随筆「万華鏡」の「人生の偶然」において、F・D・ピート(英語版)の『シンクロニシティ』を絶賛し、それにより同書がベストセラーに躍り出るという事が起きている(「シンクロニシティ」を良い意味で取り上げることはカトリック作家としては異例の事態であったが、遠藤によるオカルトへの好意的言及はエッセイやホラー小説の分野では古くから行われている)。
1993年5月に腹膜透析の手術を行った。一時は危篤状態までに陥ったが、奇跡的に回復する。最初はなかなか苦痛に耐えられず、愚痴や泣き言を繰り返していたが、自分とヨブの境遇を重ね合わせ、「ヨブ記の評論を書く」と決心してからはそれがなくなった。
1995年『深い河』を原作として、インドの母なる大河ガンジス(ガンガー)を舞台に、愛と悪と魂の救済がテーマとする映画が公開される。撮影にあたりインド政府の協力により、日本映画初のインドでの長期ロケーションが実現している。
1996年4月、腎臓病治療のため慶應義塾大学病院に入院、同年9月に脳出血。同月28日には昼食を喉に詰まらせ、肺に誤嚥し呼吸停止に陥った。それはすぐに取り除かれたが、そこから病原菌が広がり、肺炎を併発した。それは肺を片方しか持たない人間には致命的な事態だった。翌9月29日午後6時36分、肺炎による呼吸不全で同病院で死去した。73歳だった。
絶筆は三田文学1996年夏季号に掲載された佐藤朔の追悼文(口述)だった。ヨブ記の評論を書く希望は遂に叶えられなかった。
遠藤は、ヨーロッパで触れたキリスト教が父性原理を強調するあまり日本人の霊性に合わないと不満を持ち、キリスト教を日本の精神的風土に根付かせようと試みた。遠藤自身はそれを「日本人としてキリスト教信徒であることが,ダブダブの西洋の洋服を着せられたように着苦しく,それを体に合うように調達することが自分の生涯の課題であった」と語っている。
晩年にはジョン・ヒックの提唱する宗教多元主義と出会って影響を受け、『深い河』の登場人物である大津を通して「神(イエス)は愛、命のぬくもり、もしくはトマトでもタマネギと呼んでもいい」といっている。
このため、遠藤に対するカトリック教会での評価は賛否が大きく分かれることとなった。
遠藤と共にフランスで学んだ井上洋治神父は、「遠藤周作氏の著作『死海のほとり』と『イエスの生涯』は、そのイエス像に賛成すると否とにかかわらず、初めて深く日本の精神的風土にキリスト教がっちりとかみ合った作品だと言えるでしょう」と高く評価している。また、カトリック新聞にも遠藤が「キリスト教を広めた」という評価する記事が掲載された。
サレジオ会のアロイジオ・デルコル神父は、1978年12月24日のクリスマスのテレビ番組で「キリストは奇跡をしたといわれるが、じっさいは無力で何の奇跡もしなかったのである」という自説を『イエスの生涯』、『キリストの誕生』、『沈黙』等で書いたと遠藤が語ったことに対し、「遠藤氏の文学は、キリスト教や聖書をテーマにしたにしても、布教にとって大きなマイナスであり、とくに非キリスト者にとっては、”ゆがめられたキリスト教”紹介したにすぎない」と評している。"
遠藤周作(えんどう しゅうさく,1923年〈大正12年〉3月27日 - 1996年〈平成8年〉9月29日)是日本的小說家,曾任日本筆會會長。他是日本藝術院的會員、文化功勞者、文化勳章的得主。12歲時在天主教堂受洗。他從評論轉向小說創作,被稱為「第三的新人」。
之後以《海與毒藥》確立了作為基督教作家的地位。他以日本的精神風土和基督教的矛盾為題材,處理了上帝的概念、罪的意識和種族問題,因此獲得了高度的評價。他的幽默小說和「狐狸庵」系列等輕鬆的散文也很受歡迎。因為父親的工作關係,他的童年時代是在滿洲度過的。回國後在12歲時受到姨母的影響,在天主教夙川教堂受洗。
1941年進入上智大學預科,期間在同人雜誌「上智」第一期發表了評論「形而上的神、宗教的神」(1942年中途退學)。之後進入慶應義塾大學文學部法文科。畢業後,1950年前往法國里昂留學。回國後以評論家身份活動,但在1955年中發表的小說《白い人》獲得芥川獎,成為小說家。他是「第三的新人」之一。他創作了許多以基督教為主題的作品,其中代表作有《海與毒藥》、《沈默》、《侍》、《深河》等。
1960年代初期經歷了一次大病,為了療養搬到了町田市玉川學園,從那時起他自稱「狐狸庵山人(こりあんさんじん)」,寫了很多以懶惰為中心的幽默散文。他也以愛惡作劇而著名,除了寫作之外,他還進行了許多獨特的活動,如全員業餘的劇團「樹座」和業餘圍棋組織「宇宙棋院」。此外,他還進行了許多社會活動,如基於他的病歷經歷發起的「心溫暖的醫院」活動和創立日本基督教藝術中心。他的惡作劇包括對朋友進行的惡搞電話。
他的許多作品,包括《沈默》在內,都被翻譯成歐美語言並獲得高度評價。格雷厄姆·格林對他的熱烈支持是眾所周知的,他曾被看作是諾貝爾文學獎的候選人,但是《沈默》的主題和結論被部分評選委員所不喜,加上《醜聞》被視為色情作品,最終未能獲獎。
1923年3月27日,他出生於東京府北豐島郡西巢鴨町(現東京都豐島區北大塚),父親遠藤常久是在第三銀行工作的銀行員,母親郁是東京音樂學校小提琴科的學生。父親常久是東京帝國大學獨法科的學生,1920年認識了郁,次年結婚。同年生了長男正介,兩年後生了次男周作。遠藤家原本位於鳥取縣東伯郡淺津村下淺津(現湯梨浜町下淺津),在江戶時代為鳥取的池田家服務為御典醫,維新後搬到當地定居成為開業醫生。從明治後期到戰後,一直在當地執業的是遠藤河津三,他在花見村長和田(現湯梨浜町長和田)設立了外診所,生意興隆。然而,河津三沒有子嗣,因此鳥取市出生的常久被收為養子。後來,父親常久成為了安田工業社長等實業家。他在輕井澤的泉之里擁有的別墅,取名白水甲二,留下了作品《基督徒大名 大友宗麟》。母親郁出生於現在的岡山縣笠岡市,她的祖先是岡山縣的土豪竹井黨。後來,周作在遠祖的地方(現在的岡山縣井原市美星町中世夢原歷史公園)建立了一座題為「血的故鄉」的石碑。
遠藤周作於1954年4月開始在文化學院擔任講師。在安岡章太郎的介紹下,他與谷田昌平一起參加了構想之會,並得到了小島信夫、近藤啓太郎、庄野潤三、進藤純孝、三浦朱門、吉行淳之介等人的知遇。從這一年起,遠藤開始正式以作家身份活動。在奧野健男的邀請下,他從現代評論的創刊號開始參與,作為新手作家,這被認為是一個很好的開始。1954年底,他寫的第一篇小說「亞丁之旅」在同儕中獲得了高度評價。
小說「白い人」在隔年的1955年7月,一舉獲得了第33回芥川賞。同年9月,他與交往兩年半的岡田順子結婚。最初,岡田的父親岡田幸三郎因為「文士身份」和「肺病」等原因不同意這段關係,但早期就對遠藤周作的文章評價甚高,並且與岡田家有聯繫的法國文學者小林正出面說服。婚後,順子夫人一度搬進遠藤父親的家中同住,但不久後就搬到了世田谷松原。
1956年6月,長子龍之介出生,他們開始建立了自己的小家庭,對遠藤的父親的敵意也變得越來越強烈。雖然獲得芥川賞,作家生涯似乎是一帆風順,但當時的生活並不輕鬆。從1956年開始,他在上智大學文學部擔任講師。1957年,他以九州大學生體解剖事件(相川事件)為主題,發表了小說「海と毒薬」(文學界,6月、8月、10月),從而確立了作家的地位。「海と毒薬」在隔年的1958年4月由文藝春秋新社出版,並在12月獲得了第5回新潮社文學獎和第12回每日出版文化獎。9月底為了參加亞非作家會議,他與伊藤整、加藤周一、野間宏等人一起前往蘇聯。10月在蘇聯的塔什干參加會議後,又遊覽了莫斯科,並在12月返回日本。
同年1958年,他作為編輯委員參加了第六次三田文學。其他委員包括堀田善衛、梅田晴夫、安岡章太郎、白井浩司、柴田錬三郎、庄司總一。1959年11月,遠藤為了更深入研究馬爾基·德·薩德,帶著順子夫人前往法國旅行。這次旅行中,遠藤獲得了馬爾基·德·薩德研究家吉爾伯特·勒利(法語版)和皮埃爾·克洛索夫斯基的知遇。之後,他們又前往英國、西班牙、義大利、希臘,並繞道耶路撒冷,於次年1960年1月返回日本。返回後,遠藤的健康狀況惡化,4月肺結核復發。他入住東京大學傳染病研究所醫院進行治療,但病情沒有明顯好轉,年末轉院到慶應義塾大學醫院。
1961年,他進行了三次肺部手術(1月7日、1月21日前後、12月末)。在進行風險較高的第三次手術的前一天,有位探病的訪客帶來了一個用紙做的「踏絵」。儘管一度陷入病危,但他奇跡般地康復了。1962年5月,他終於出院。
1980年代,遠藤以「武功夜話」為基礎,於讀賣新聞連載小說「反逆」(1988年1月26日 - 1989年2月7日),又在山陽新聞等報紙上連載小說「決戰之時」(1989年7月30日 - 1990年5月31日),同時在日本經濟新聞上連載小說「男之一生」(1990年9月1日 - 1991年9月13日)。這三部作品被稱為遠藤周作的戰國三部曲。1993年發表了小說「深河」。這部小說從一開始就處理了「同步性」的主題。關於「同步性」,在1992年8月的「朝日新聞」連載的隨筆「萬花筒」中的「人生的偶然」一文中,他大力讚揚了F·D·皮特(英語版)的《同步性》,使該書成為了暢銷書(對於一位天主教作家來說,積極提及「同步性」是非常罕見的,但遠藤對於神秘學的友好評價在散文和恐怖小說領域早已有之)。
1993年5月,接受了腹膜透析手術。曾一度陷入危篤狀態,但奇蹟似地恢復了過來。起初,他無法忍受痛苦,不斷抱怨和哭泣,但當他將自己的處境與約伯相比,決心寫下《約伯記》的評論後,這樣的情緒就消失了。1995年,根據原著《深河》,在印度這條母親般的大河恆河(恆河)為背景,上映了以愛、邪惡和靈魂救贖為主題的電影。
在拍攝期間,得到了印度政府的協助,實現了日本電影首次在印度進行的長期取景。1996年4月,因腎臟病治療入住慶應義塾大學醫院,同年9月出現腦出血。同月28日,午餐時食物卡在喉嚨,誤吸到肺中導致呼吸停止。雖然很快就被取出,但病原菌隨之擴散,引發了肺炎。對於只有一個肺的人來說,這是致命的。翌年9月29日下午6點36分,因肺炎引起的呼吸衰竭,在同一醫院去世,享年73歲。他的絕筆是在1996年夏季號的《三田文學》上發表的佐藤朔的追悼文(口述)。
他寫《約伯記》評論的願望最終未能實現。遠藤對於在歐洲接觸到的基督教強調父性原則,感到不滿,認為不適合日本人的靈性,於是嘗試讓基督教扎根於日本的精神風土。遠藤自己說:“作為日本人的基督教徒,就像是被迫穿上一件過大的西裝,這讓我感到不適,使得調整它以適合自己的身體成為我一生的課題。”晚年,他受到約翰·希克提出的宗教多元主義的影響,在《深河》中透過大津這個角色表達:“神(耶穌)就是愛,就是生命的溫暖,或者你甚至可以稱祂為番茄或洋蔥。”因此,對於遠藤的評價,在天主教會內部分歧頗大。與遠藤一同在法國學習的井上洋治神父說:“無論你是否同意遠藤周作先生的耶穌形象,《死海的岸邊》和《耶穌的一生》可以說是第一次深刻地與日本的精神風土緊密結合的作品。”天主教報紙上也發表了評價遠藤“傳播了基督教”的文章。
銷售會的阿洛伊修·德爾科爾神父在1978年12月24日的聖誕節電視節目上,針對遠藤在《耶穌的一生》、《基督的誕生》、《沉默》等書中表達的“耶穌被認為是行了奇蹟,但實際上是無力的,沒有做任何奇蹟”這一觀點,評論說:“遠藤先生的文學作品,儘管以基督教和聖經為主題,但對於傳教來說是一個巨大的負面影響,尤其是對非基督徒來說,不過是介紹了一個‘扭曲的基督教’。
1.
"仕事とは誇りだ。誇りを失って儲けるのは己の仕事への尊重を失うことだ。"
工作應是驕傲。沒有自豪感賺錢就是對你的工作失去尊重。
2.
"自分の考えだけが何時も正しいと信じている者、自分の思想や行動が決して間違っていないと信じている者、そしてそのために周りへの影響や迷惑に気づかぬ者、そのために他人を不幸にしているのに一向に無頓着な者――それを善魔という。"
那些相信只有自己的想法永遠正確的人,那些相信自己的想法和行為永遠不會錯的人,正因為如此,他們沒有意識到自己給周圍的人帶來的影響和麻煩,也正因為如此,他們才讓別人雖有人卻無動於衷的人,稱為善魔。
3.
"人間にはこの世に生きていくためには、他人に対する『けじめ』がある。"
為了生活在這個世界上,人類對他人存在著「歧視」。
4.
"人間、好奇心がなくなったらおしまいだ。"
當人類失去好奇心時,一切就都結束了。
5.
"人間にとって一番辛いものは貧しさや病気ではなく、それら貧しさや病気が生む孤独と絶望のほうだ。"
人類最痛苦的不是貧窮和疾病,而是貧窮和疾病帶來的孤獨和絕望。
6.
"愛の第1原則は「捨てぬこと」です。人生が愉快で楽しいなら、人生には愛はいりません。人生が辛く、みにくいからこそ、人生を捨てずにこれを生きようとするのが人生への愛です。だから自殺は愛の欠如だと言えます。"
愛的首要原則是「永不丟棄」。如果生活是快樂和有趣的,生活就不需要愛。對生活的熱愛意味著即使生活艱難而醜陋,也要努力生活而不放棄生活。所以自殺可以說是缺乏愛。
7.
"人間らしく生きるために七分は真面目人間、三分は不真面目人間で生活するのが「生きる智恵」と言うべきであろう。"
為了像人一樣生活,70%作為認真的人生活,30%作為不認真的人生活,應該被稱為「生活的智慧」。
8.
"自分が弱虫であり、その弱さは芯の芯まで自分に付きまとっているのだ、という事実を認めることから、他人を見、社会を見、文学を読み、人生を考えることができる。"
承認自己是個弱者,承認這個弱者深深困擾著你,你就能審視他人、審視社會、閱讀文學、思考人生。
9.
"人間生活にはムダなものがかなりあるが、そのムダなもののために情緒が生まれ、うるおいができ、人の心がなごむようなものがある。"
人的生活中有很多浪費的東西,但這些浪費的東西卻創造情感,提供滋潤,軟化人心。
10.
"人生の出来事の意味はその死の日まで誰にもわからない。"
直到死亡的那一天,沒有人知道生命事件的意義。
11.
"人間にはどうしても動かせない運命というものがある。その運命の支配する限り、どんなに努力しても仕方がない。"
人的命運是注定的,是無法改變的。只要你掌握了自己的命運,無論你如何努力,都無濟於事。
12.
"もともと怠け者の身には学問なども身につかない、人を押しのけてまで上に出ようという気力もない、毎日、毎日が平穏、無事で暮らせればそういう人生が自分にふさわしい。"
我天生懶惰,所以沒有學習東西的能力,也沒有力氣去排擠別人,登上頂峰。
13.
"いかなる場合でも弱い人間は自己弁解をする。"
無論如何,弱者都會為自己找藉口。
14.
"人間はみんなが、美しくて強い存在だとは限らないよ。生まれつき臆病な人もいる。弱い性格の者もいる。メソメソした心の持ち主もいる…けれどもね、そんな弱い、臆病な男が自分の弱さを背負いながら、一生懸命美しく生きようとするのは立派だよ。"
並非所有人類都美麗而堅強。有些人天生膽怯。有些人的性格比較軟弱。有些人的內心平庸……但令人敬佩的是,這樣一個軟弱膽怯的人帶著自己的弱點,努力過著美好的生活。
15.
"一人の人間にはその運命と人生とを決するようなときが生涯、一度は必ずあるものであり、それを乗り切った瞬間、彼の未来は全面的に変わるものだ。"
人的一生中總有一個時刻決定他的命運和一生,而當他熬過這個時刻的那一刻,他的未來就會徹底改變。
16.
"人生はどんな外形をとっても本質は同じものなのである。"
生命無論以何種形式存在,本質都是一樣的。
17.
"どんな母親でもわが子が悪いとは決して考えない。わが子を悪くしたのは別の人間のせいだと必死で思おうとする。"
沒有哪個母親會認為自己的孩子有錯。拼命地試著責怪另一個讓我的孩子感覺不好的人。
18.
"運命なんて、努力次第で変えられるんですよ。"
命運是可以改變的,就看你的努力了。
19.
"人間生活にはムダなものがかなりあるが、そのムダなもののために情緒が生まれ、うるおいができ、人の心がなごむようなものがある。"
人的生活中有很多浪費的東西,但這些浪費的東西卻創造情感,提供滋潤,軟化人心。
20.
"歯車であることは自分の意志を棄てることである。"
成為齒輪就是放棄自己的意志。
21.
"権力は肉体を奪えても自由は奪えない。"
權力可以奪走你的身體,但它卻奪走你的自由。