"紫式部は、日本の平安時代の小説家、歌人、および宮廷の女官であり、『源氏物語』で知られています。『源氏物語』は約1000年から1012年までに完成し、学界では世界初の長編小説と認められています。
『源氏物語』は後世の日本文学に多大な影響を与えたことが知られています。この作品は、複雑な人間関係、心理描写、そして色彩豊かな宮廷生活を描いており、この点で非常に革新的でした。また、物語は文学的な技巧と深い精神性をもっていて、後の文学作品において模範とされました。
特に心情を繊細に描き出す文体は、後の物語、能や狂言、歌舞伎、現代小説に至るまで、日本文学の伝統となっていきました。また、異なる時代背景や社会階層の人々の生き様を綿密に描くことによって、現実世界に対する読者の見方に影響を与え、現代の小説やドラマなどのストーリーテリングに至るまで影響を与えたとも言われています。さらに、「源氏物語」に出てくる和歌や詩の引用は、和歌を中心とする日本の詩文化の発展にも大きな影響を与えました。"
紫式部是日本平安時代的小說家、歌人及宮廷女房,以《源氏物語》為人所知;《源氏物語》完成於大約1000年至1012年間,並被學界公認為世界首部長篇小說。
《源氏物語》以其對於複雜的人際關係、細膩的心理描寫和豐富多彩的宮廷生活的描繪而聞名於後世的日本文學界。在這些方面,它是非常具有創新性的。此外,這部作品以其文學技巧和深刻的精神性而著稱,被後來的文學作品視為典範。
尤其是其細膩描繪情感的文體成為了日本文學傳統,影響了後來的故事、能劇、狂言、歌舞伎和現代小說等。此外,通過精心描繪不同時代背景和社會階層的人們的生活,這部作品對讀者對現實世界的觀點產生了影響,對現代小說和戲劇的故事情節產生了影響。此外,《源氏物語》中的和歌和詩的引用對日本文學文化的發展也產生了深遠的影響。
紫 式部(むらさきしきぶ Murasaki Shikibu,973年〜1014年の間)は、平安時代中期の歌人・作家・女房(女官)。
『源氏物語』の作者とされ、この作品は生涯で唯一の物語作品となった。歌人としては、『百人一首』の和歌が知られており、『紫式部日記』(18首)、『紫式部集』、『後拾遺和歌集』などにも和歌を残し、和歌795首が詠み込まれた。『中古三十六歌仙』、『女房三十六歌仙』の一人でもある。また、娘の大弐三位も『百人一首』、『女房三十六歌仙』の歌人として知られる。
紫式部の実名や正確な生没年はわかっていない。宮中での女房名は藤式部(とう の しきぶ / ふじ しきぶ)で、後に「紫式部」と呼ばれたとされるが、いずれも通称である。
平安時代の貴族階級の女性は当時の慣習で実名を公にしない場合が多く、紫式部をはじめ清少納言や和泉式部などの名称は通称であり、実名はいずれもわかっていない。明確な通称がない場合、例えば『更級日記』の作者名は「菅原孝標女」(菅原孝標の娘)と表記されている。
紫式部の生没年に関する近年の研究では、天禄元年(970年)から天元元年(978年)の間に生まれ、少なくとも寛仁3年(1019年)までは存命したとされ、その後の没年は誕生年と同じく、研究者ごとに様々な説が出されるがどれも確証はなく不明である。(各説は「生没年」参照)
父の藤原為時は官位は正五位下と下級貴族ながら、花山天皇に漢学を教えた漢詩人、歌人である。紫式部は20代半ばすぎに藤原宣孝と結婚し一女(大弐三位)を産んだ。長保3年(1001年)、結婚から3年ほどで夫が死去し、長保4年(1002年)頃から『源氏物語』を書き始めた。
寛弘2年(1005年)頃に評判を聞いた藤原道長に召し出され、その娘で、一条天皇の中宮彰子に仕える間に、藤原道長の支援のもと『源氏物語』を完成させた。なお、『紫式部集』には夫の死に伴い詠んだ和歌「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」が収められている。
作品については、歌人として、『百人一首』に収められている和歌(57番)「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」は広く知られており、平安時代末期に中古三十六歌仙、鎌倉時代中期に女房三十六歌仙に、それぞれ選出された。また子供時代から晩年のほぼ一生涯にわたり自らが詠んだ和歌から選び収めた家集『紫式部集』があり、実名や生没年が不明で資料が少ない紫式部の生活環境の変化や心の変化を知ることができ、平安文学や日本古代中世史などの研究者にとって貴重な資料でもある。そして『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集には計51首の和歌が収められている。
物語作品では、54帖から成る『源氏物語』の作者とされ、和歌795首が詠み込まれ、400年にも及ぶ平安時代で貴族階級が最も勢いのあった平安中期の貴族社会が描かれている。文章ではなく和歌で描く男女間の核心部分の描写力をはじめ日本や中国の歴史書、漢籍、漢詩への造詣の深さに裏付けされた記述も随所に見られる源氏物語は、一条天皇からも評価された。
日記作品では、藤原道長の要請で宮中に上がった際、宮中の様子をはじめ藤原道長邸の様子などを記した『紫式部日記』を残しており、これには和歌18首が詠み込まれている。この日記は寛弘5年(1008年)7月から約1年半にわたる日記で、随所に宮中行事の様子も記され、宮中内の者しか知り得ない現場の様子もよくわかり、行事の開催など事実だけを記載する公的歴史記録では知ることができないものである。また紫式部が女性仲間と物語に関して批評し合い楽しんでいた様子なども書かれており、この日記は源氏物語執筆のきっかけを知ることができる第一級の資料でもある。源氏物語と紫式部日記の2作品は、150年ほど後の平安時代末期に『源氏物語絵巻』、200年ほど後の鎌倉時代初期に『紫式部日記絵巻』として、各々絵画化された。
藤原北家良門流の越後守・藤原為時の娘で、母は摂津守・藤原為信女であるが、幼少期に母を亡くしたとされる。同母の兄弟に藤原惟規がいる(同人の生年も不明であり、式部とどちらが年長かについては両説が存在する[16])ほか、姉がいたこともわかっている。三条右大臣・藤原定方、堤中納言・藤原兼輔はともに父方の曽祖父で、一族には文辞を以って聞こえた人が多い。
幼少の頃より当時の女性に求められる以上の才能で漢文を読みこなしたなど、才女としての逸話が多い。54帖にわたる大作『源氏物語』、宮仕え中の日記『紫式部日記』を著したというのが通説で、和歌集『紫式部集』が伝わっている。
父・為時は30代に東宮の読書役を始めとして東宮が花山天皇になると蔵人、式部大丞と出世したが、花山天皇が出家すると散位となる(位禄はある)。10年後、一条天皇に詩を奉じた結果、越前国の受領となる。紫式部は娘時代の約2年を父の任国で過ごす。
長徳4年(998年)頃、親子ほども年の差があり、又従兄妹でもある[注釈 9]山城守・藤原宣孝と結婚して長保元年(999年)に一女・藤原賢子(大弐三位)を儲けた。この結婚生活は長く続かず、間もなく長保3年4月15日(1001年5月10日)に宣孝と死別した。
寛弘2年12月29日(1006年1月31日)、もしくは寛弘3年の同日(1007年1月20日)より、一条天皇の中宮・彰子(藤原道長の長女、のち院号宣下して上東門院)に女房兼(現代でいえば)家庭教師役として仕え、少なくとも寛弘8年(1012年)頃まで奉仕し続けたようである。
なお、これに先立ち、近代以降の伝記では顧みられることになかった説として、永延元年(987年)の藤原道長と源倫子の結婚の際に、倫子付きの女房として出仕した可能性が指摘されている。『源氏物語』解説書の『河海抄』『紫明抄』や歴史書『今鏡』には紫式部の経歴として倫子付き女房であったことが記されている。しかし、他にも『紫式部日記』からうかがえる、新参の女房に対するものとは思えぬ道長や倫子からの格別な信頼・配慮があること、永延元年当時は為時が散位であったこと、倫子と紫式部はいずれも曽祖父に藤原定方を持ち遠縁に当たることなどが挙げられる。また女房名からも、為時が式部丞だった時期は彰子への出仕の20年も前であり、さらにその間に越前国の国司に任じられているため、寛弘2年に初出仕したのであれば父の任国「越前」や亡夫の任国・役職の「山城」「右衛門権佐」にちなんだ名を名乗るのが自然で、地位としてもそれらより劣る「式部」を女房名に用いるのは考えがたく、そのことからも初出仕の時期は寛弘2年以前であるという説である。
また明確な記録は存在しないが、村上天皇の皇子である具平親王は光源氏のモデルのひとりともされ、為時や紫式部、その兄の為頼と交流があった可能性がある。具平親王の母荘子女王と為頼・為時兄弟の母は従姉妹の関係であり、為時は「藩邸之旧僕」と題し詩に読み、古くからの親しい交流があったことを示している。また紫式部日記には道長が具平親王の息女隆姫女王を嫡男頼通へ降嫁させるための相談を、式部を具平親王家からの「心よせのある人」として持ちかけていることなどから、紫式部自身も具平親王と知古があったとする説である。
『詞花集』に収められた伊勢大輔の「いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな」という和歌は宮廷に献上された八重桜を受け取り中宮に奉る際に詠んだものだが、『伊勢大輔集』によればこの役目は当初紫式部の役目だったものを式部が新参の大輔に譲ったものだった。
藤原実資の日記『小右記』長和2年5月25日(1014年6月25日)条で「実資の甥で養子である藤原資平が実資の代理で皇太后彰子のもとを訪れた際『越後守為時女』なる女房が取り次ぎ役を務めた」旨の記述が紫式部で残された最後のものとし、よって三条天皇の長和年間(1012年 - 1016年)に没したとするのが昭和40年代までの通説だったが、現在では、『小右記』寛仁3年正月5日(1019年2月18日)条で、実資に応対した「女房」を紫式部本人と認め、さらに、西本願寺本『平兼盛集』巻末逸文に「おなじ宮の藤式部、…式部の君亡くなり…」とある詞書と和歌を、岡一男説[20]の『頼宗集』の逸文ではなく、『定頼集』の逸文と推定し、この詠歌以前には死亡していたとする萩谷朴説[21]、今井源衛説が存在する。さらに森本元子は、この逸名歌集の編纂者を藤原道綱の娘豊子・美作三位とし、没年時は萩谷説に矛盾はないとした。これに対し、逸名歌集12首の詠作年次を治安元年(1021年)春、彰子後宮女房の歌稿集の編纂者として伊勢大輔とする上原作和説もある。
現在、日本銀行券のD号券の2000円札の裏には小さな肖像画と『源氏物語絵巻』の一部を使用している。
紫式部(日語:紫式部/むらさきしきぶ Murasaki Shikibu */?,973年—1014年)是日本平安時代的小說家、歌人及宮廷女房,以《源氏物語》為人所知;《源氏物語》成書於約1000年(長保二年)至1012年(寬弘九年),並受學界普遍認可為世界首部長篇小說。
《源氏物語》的作者,這部作品成為了她一生中唯一的小說作品。作為一名歌人,她的和歌出現在《百人一首》中,她也在《紫式部日記》(18首)、《紫式部集》和《後拾遺和歌集》等作品中留下了許多和歌,總共有795首。她還被列為「中古三十六歌仙」和「女房三十六歌仙」之一。此外,她的女兒大弐三位也以《百人一首》和《女房三十六歌仙》中的歌人而聞名。
紫式部的真實姓名和確切的生卒年都不清楚。她在宮中的女房名字是藤式部(とうのしきぶ / ふじしきぶ),後來被稱為「紫式部」,但這兩者都是通稱。
關於她的生卒年,最近的研究表明,她生於天禄元年(970年)至天元元年(978年)之間,並且至少活到寛仁3年(1019年),但其去世日期仍然未知,不同的研究者有不同的說法,沒有確鑿的證據。
她的父親藤原為時雖然官位低微,但是是一位漢學家和詩人,曾向花山天皇教授漢學。紫式部在20多歲時嫁給藤原宣孝,並生下一個女兒(大弐三位)。結婚三年後,藤原宣孝去世。從長保4年(1002年)左右開始,她開始創作《源氏物語》。
寬弘2年(1005年)左右,藤原道長聽聞了她的聲譽,將她召見。在為一條天皇的中宮彰子服侍時,她在藤原道長的支持下完成了《源氏物語》。她的詩集《紫式部集》中收錄了一首關於丈夫去世的詠嘆。
作為一位歌人,《百人一首》中的她的和歌(第57首)「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」廣為人知。她還有《後拾遺和歌集》等和歌集,被選入中古三十六歌仙和女房三十六歌仙。
她的長篇小說《源氏物語》共有54卷,包含795首和歌,描述了平安時代中期貴族社會的生活。《源氏物語》以和歌描繪男女之間的情感,並展示了她對日本和中國歷史書、漢籍和漢詩的深刻了解,受到一條天皇的讚賞。
「紫式部日記」是源氏物語的作者紫式部在藤原道長的邀請下進入宮中時所寫下的日記,其中記錄了宮中和藤原道長宅邸的情況,並穿插了18首和歌。這份日記從寛弘5年(1008年)7月開始,持續約一年半,詳細描述了宮中的各種活動,包括只有宮中內部人士才能了解的情況,這些都是公開歷史記錄所無法得知的。此外,日記中還描述了紫式部與女性朋友們評論故事並享受的情況,這份日記也是了解源氏物語創作背景的重要資料之一。後來,源氏物語和紫式部日記分別於平安時代末期的約150年後和鎌倉時代初期的約200年後被繪製成了《源氏物語絵巻》和《紫式部日記絵巻》。
紫式部是藤原北家良門流的越後守藤原為時的女兒,母親是摂津守藤原為信的女兒,幼年時失去了母親。她有同父異母的兄弟藤原惟規,也知道她有一位姐姐。她的父親為時曾擔任東宮的讀書役,後來升遷為蔵人和式部大丞,但當花山天皇出家後,被降職為散位。十年後,他因獻詩給一條天皇而被任命為越前國的守。紫式部在年少時曾在父親的任職地度過了大約兩年的時間。
紫式部大約在長德4年(998年)左右與她的從兄藤原宣孝結婚,並於長保元年(999年)生下一個女兒藤原賢子(後來被封為大弐三位)。然而,這段婚姻並不長久,她很快便於長保3年4月15日(1001年5月10日)與宣孝離世。
自寬弘2年12月29日(1006年1月31日)或寬弘3年的同日(1007年1月20日)起,紫式部作為一條天皇的中宮彰子(藤原道長的長女,後來被封為上東門院)的女房兼(可以理解為家庭教師)開始服侍,至少持續到寬弘8年(1012年)左右。
值得注意的是,在現代之前的傳記中,也有指出紫式部可能於永延元年(987年)時以源倫子的女房身份出仕藤原道長。《源氏物語》的解說書《河海抄》和《紫明抄》,以及歷史書《今鏡》記載了紫式部當時是倫子的女房。然而,從《紫式部日記》可以得知,道長和倫子對初出仕的女房給予了格外的信任和關愛,而且當時為時已是散位,倫子和紫式部都是藤原定方的曾祖父的後代,因此,寬弘2年初次出仕時使用"式部"作為女房名並不自然,這也支持了寬弘2年之前就已出仕的說法。
儘管沒有明確的記錄,但據說村上天皇的兒子具平親王是光源氏的其中一個原型,並且可能與為時、紫式部以及她的兄弟為頼有交流。具平親王的母親荘子女王與為頼和為時的母親是從姐妹的關係,為時曾題詩題為「藩邸之旧僕」,顯示出他們之間早有密切的交流。此外,《紫式部日記》中提到道長曾向紫式部諮詢將具平親王的女兒隆姫女王嫁給自己的兒子頼通的事,這也支持了紫式部與具平親王有交流的說法。
收錄於《詞花集》中的伊勢大輔的和歌「いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな」是在接受皇室獻上的八重櫻後,向中宮奉上時所詠。然而,《伊勢大輔集》指出,最初這個任務是由紫式部擔任的,後來被新加入的大輔接替了。
根據藤原実資的日記《小右記》中長和2年5月25日(1014年6月25日)的記載,藤原資平以藤原実資的代理身份訪問了皇太后彰子的宮廷,而當時曾有一位名為「越後守為時女」的女房擔任中間人的角色,這是留給紫式部的最後一筆記錄。根據這一點,過去一直認為她在三條天皇的長和年間(1012年至1016年)去世,但現在則認為在《小右記》寛仁3年正月5日(1019年2月18日)的記錄中,對應的「女房」就是紫式部本人。此外,根據西本願寺版本的《平兼盛集》中的逸文,描述了「同一宮廷的藤式部,... 紫式部的君已逝去...」這首詩,這一逸文被推定是來自《定頼集》而非《頼宗集》,進一步支持了她在寬弘3年之前去世的說法。
日本銀行發行的2000日圓鈔票的背面使用了一幅紫式部畫像和《源氏物語絵巻》的部分插圖。
1.
"妻として完全な女などない。家を治めるのは国よりもむずかしい。"
身為妻子意味著沒有完美的女人。齊家比治國更難。
2.
"まことに神が愛でて、さらわれそうな美しさだこと。おお怖い。"
天神所眷顧的美人,竟然可以被世人所擁有嗎。
3.
"照りもせず 曇りも果てぬ 春の夜の 朧月夜に似るものぞなき。"
沒有什麼比春夜朦朧的月夜更晦暗了。
4.
"みをつくし恋ふるしるしにここまでもめぐり逢ひけるえには深しな"
在追求著繁花盛開的愛情的旅途上,我們已然相遇,至深至刻。
5.
"身を変へて一人帰れる山里に聞きしに似たる松風ぞ吹く。"
捨去過去獨自歸隱山澗,聽起來像是松風的呼嘯。
6.
"見しおりのつゆわすられぬ朝顔の花のさかりは過ぎやしぬらん。"
見過的雨水不再輕撫見過的朝顏花,盛開的時刻,悄然離去。
7.
"恋ひわたる身はそれなれど玉かづらいかなる筋を尋ね来つらむ"
即便已身浴愛河,但我卻不知該向何方,尋找那玉髮簪。
8.
"年月を松にひかれて経る人に今日鴬の初音聞かせよ。"
被松樹引導著年歲的人們,讓今日鶯鳥的初蹄響徹耳際。
9.
"こてふにもさそはれなまし心にありて八重山吹をへだてざれせば"
即使被山嵐催促著,我的心仍然在此停留,當八重山的風再次撫過時,它不再將我吹離。
10.
"なでしこのとこなつかしき色を見ばもとの垣根を人や尋ねむ。"
瞥見深情的薔薇,是否會憶起過往的籬笆,尋起那何方的彼人?
11.
"篝火にたちそふ恋の煙こそ世には絶えせぬほのほなりけれ。"
篝火冉起的愛之煙,人間永不熄滅的火。
12.
"爛漫の桜のような紫の上の艶姿は夕霧の脳裏に焼きついて消えなかった。"
繁盛的櫻花一樣美麗的紫之上的優美身姿,烙印在夕霧的腦海中,不曾消逝。
13.
"あかねさす光は空にくもらぬをなどてみゆきに目をきらしけむ。"
天投下了赤陽,讓濃雲也失了明。
14.
"今はとて宿かれぬとも馴れ来つる真木の柱はわれを忘るな。"
雖將離去,但那孰悉的屋柱,請不要將我遺忘。
15.
"春日さす藤の裏葉のうらとけて君し思はば我も頼まむ。"
春日陽光下,藤葉背雪消融,你的思念,賴著我不走。
16.
"横笛のしらべはことにかはらぬをむなしくなりし音こそつきせぬ。"
橫笛用那空洞的笛身,奮力地吟唱著連貫的樂音。
17.
"おほかたの秋をばうしと知りにしをふり棄てがたきすず虫のこえ"
蟬訴說著難以割捨鳴唱,即使清楚秋將離去。
18.
"絶えぬべき御法ながらぞ頼まるる世々にと結ぶ中の契りを。"
即便是永恆不變的法則,也乘載著世代間聯繫的契約。
19.
"あげまきに 長き契りをむすびこめ おなじところに よりもあはなむ"
我會在同一個地點許下誓言,就像繩結在不同時間繫上。
20.
"荒れ果つる朽木のもとをやどりきと思ひおきけるほどのかなしさ"
我與荒棄的朽木同臥,彷彿曾經依存的常春藤。