"松尾 芭蕉(まつお ばしょう、寛永21年(正保元年)(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日))は、江戸時代前期の俳諧師。伊賀国阿拝郡(現在の三重県伊賀市)出身。幼名は金作。通称は甚七郎、甚四郎。名は忠右衛門、のち宗房(むねふさ)。俳号としては初め宗房(そうぼう)を称し、次いで桃青(とうせい)、芭蕉(はせを)と改めた。北村季吟門下。
芭蕉は、和歌の余興の言捨ての滑稽から始まり、滑稽や諧謔を主としていた俳諧を、蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風[6]として確立し、後世では俳聖[7]として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。ただし芭蕉自身は発句(俳句)より俳諧(連句)を好んだ。
元禄2年3月27日(1689年5月16日)に弟子の河合曾良を伴い江戸を発ち、東北から北陸を経て美濃国の大垣までを巡った旅を記した紀行文『おくのほそ道』が特に有名である。
芭蕉は、寛永21年(正保元年、1644年)に伊賀国阿拝郡にて、柘植郷の土豪一族出身の松尾与左衛門の次男として生まれるが、詳しい出生の月日は伝わっておらず[3]、出生地についても、阿拝郡のうち上野城下の赤坂町(現在の伊賀市上野赤坂町)説と上柘植村(現在の伊賀市柘植町)説の2説がある[9]。これは芭蕉の出生前後に松尾家が上柘植村から上野城下の赤坂町へ移っており、転居と芭蕉誕生とどちらが先だったかが不明だからである。松尾家は平氏の末流を名乗る一族だったが、当時は苗字・帯刀こそ許されていたが身分は武士ではなく農民だった。兄弟は、兄・命清の他に姉一人と妹三人がいた。
明暦2年(1656年)、13歳の時に父が死去し[3]、兄の半左衛門が家督を継ぐが、その生活は苦しかったと考えられている。そのためか、異説も多いが寛文2年(1662年)に若くして伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良清の嗣子・主計良忠(俳号は蝉吟)に仕え、その厨房役か料理人を務めていたようである[3]。2歳年上の良忠とともに京都にいた北村季吟に師事して俳諧の道に入り、寛文2年の年末に詠んだ句
春や来し年や行けん小晦日 (はるやこし としやゆきけん こつごもり)
が作成年次の判っている中では最も古いものであり、19歳の立春の日に詠んだという。寛文4年(1664年)には松江重頼撰『佐夜中山集』に、貞門派風の2句が「松尾宗房」の名で初入集した。
寛文6年(1666年)には上野の俳壇が集い貞徳翁十三回忌追善百韻俳諧が催され、宗房作の現存する最古の連句がつくられた。この百韻は発句こそ蝉吟だが、脇は季吟が詠んでおり、この点から上野連衆が季吟から指導を受けていた傍証と考えられている。
しかし寛文6年に良忠が歿する。宗房は遺髪を高野山報恩院に納める一団に加わって菩提を弔い、仕官を退いた。後の動向にはよく分からない部分もあるが、寛文7年(1667年)刊の『続山井』(湖春編)など貞門派の選集に入集された際には「伊賀上野の人」と紹介されており、修行で京都に行く事があっても、上野に止まっていたと考えられる。その後、萩野安静撰『如意宝珠』(寛永9年)に6句、岡村正辰撰『大和巡礼』(寛永10年)に2句、吉田友次撰『俳諧藪香物』(寛永11年)に1句がそれぞれ入集した。
寛文12年(1672年)、29歳の宗房は処女句集『貝おほひ』を上野天神宮(三重県伊賀市)に奉納した。これは30番の発句合で、談林派の先駆けのようなテンポ良い音律と奔放さを持ち、自ら記した判詞でも小唄や六方詞など流行の言葉を縦横に使った若々しい才気に満ちた作品となった。また延宝2年(1674年)、季吟から卒業の意味を持つ俳諧作法書『俳諧埋木』の伝授が行われた。そしてこれらを機に、宗房は江戸へ向かった。
江戸日本橋の桃青
延宝3年(1675年)初頭(諸説あり)に江戸へ下った宗房が最初に住んだ場所には諸説あり、日本橋の小沢卜尺の貸家、久居藩士の向日八太夫が下向に同行し、後に終生の援助者となった魚問屋・杉山杉風の日本橋小田原町の宅に入ったともいう。江戸では、在住の俳人たちと交流を持ち、やがて江戸俳壇の後見とも言える磐城平藩主・内藤義概のサロンにも出入りするようになった。延宝3年5月には江戸へ下った西山宗因を迎え開催された興行の九吟百韻に加わり、この時初めて号「桃青」を用いた。ここで触れた宗因の談林派俳諧に、桃青は大きな影響をうけた。
延宝5年(1677年)、水戸藩邸の防火用水に神田川を分水する工事に携わった事が知られる。卜尺の紹介によるものと思われるが、労働や技術者などではなく人足の帳簿づけのような仕事だった。これは、点取俳諧に手を出さないため経済的に貧窮していた事や、当局から無職だと眼をつけられる事を嫌ったものと考えられる。この期間、桃青は現在の文京区に住み、そこは関口芭蕉庵として芭蕉堂や瓢箪池が整備されている。この年もしくは翌年の延宝6年(1678年)に、桃青は宗匠となって文机を持ち、職業的な俳諧師となった。ただし宗匠披露の通例だった万句俳諧が行なわれた確かな証拠は無いが、例えば『玉手箱』(神田蝶々子編、延宝7年9月)にある「桃青万句の内千句巻頭」や、『富士石』(調和編、延宝7年4月)にある「桃青万句」といった句の前書きから、万句俳諧は何らかの形で行われたと考えられる。『桃青伝』(梅人編)には「延宝六牛年歳旦帳」という、宗匠の証である歳旦帳を桃青が持っていた事を示す文も残っている。
宗匠となった桃青は江戸や時に京都の俳壇と交流を持ちながら、多くの作品を発表する。京の信徳が江戸に来た際に山口素堂らと会し、『桃青三百韻』が刊行された。この時期には談林派の影響が強く現れていた。また批評を依頼される事もあり、『俳諧関相撲』(未達編、天和2年刊)の評価を依頼された18人の傑出した俳人のひとりに選ばれた。ただし桃青の評は散逸し伝わっていない。
しかし延宝8年(1680年)、桃青は突然深川に居を移す。この理由については諸説あり、新進気鋭の宗匠として愛好家らと面会する点者生活に飽いたという意見、火事で日本橋の家を焼け出された説、また談林諧謔に限界を見たという意見もある。いずれにしろ彼は、俳諧の純粋性を求め、世間に背を向けて老荘思想のように天(自然)に倣う中で安らぎを得ようとした考えがあった。
俳評
芭蕉は俳諧に対する論評(俳評)を著さなかった。芭蕉は実践を重視し、また門人が別の考えを持っても矯正する事は無く、「かるみ」の不理解や其角・嵐雪のように別な方向性を好む者も容認していた。下手に俳評を残せばそれを盲目的に信じ、俳風が形骸化することを恐れたとも考えられる。ただし、門人が書き留める事は禁止せず、土芳の『三冊子』や去来の『去来抄』を通じて知る事ができる。
「かるみ」にあるように「俗」を取り込みつつ、芭蕉は「俗談平話」すなわちあくまで日常的な言葉を使いながらも、それを文芸性に富む詩語化を施して、俳諧を高みに導こうとしていた。これを成すために重視した純粋な詩精神を「風雅の誠」と呼んだ。これは、宋学の世界観が言う万物の根源「誠」が意識されており、風雅の本質を掴む(『三冊子』では「誠を責むる」と言う)ことで自ずと俳諧が詠め、そこに作意を凝らす必要が無くなると説く。この本質は固定的ではなく、おくのほそ道で得た「不易流行」の通り不易=「誠によく立ちたる姿」と流行=「誠の変化を知(る)」という2つの概念があり、これらを統括した観念を「誠」と定めている。
風雅の本質とは、詩歌では伝統的に「本意」と呼ばれ尊重すべきものとされたが、実態は形骸化しつつあった。芭蕉はこれに代わり「本情/本性」という概念を示し、俳諧に詠う対象固有の性情を捉える事に重点を置いた。これを直接的に述べた芭蕉の言葉が「松の事は松に習へ」(『三冊子』赤)である。これは私的な観念をいかに捨てて、対象の本情へ入り込む「物我一如」「主客合一」が重要かを端的に説明している。"
芭蕉從和歌的娛樂性言辭開始,將以滑稽和諧謔為主的俳諧,發展成被稱為蕉風的極具藝術性的句風,並被確立為後世所知的世界級俳聖之一,是日本歷史上最優秀的俳諧師之一。然而,芭蕉本人更偏好俳諧(連句)而非發句(俳句)。
元禄2年3月27日(1689年5月16日),松尾芭蕉帶著弟子河合曾良離開江戶,經過東北和北陸,最後到達美濃國的大垣,寫下了著名的遊記文學作品《奧之細道》。
芭蕉出生於寬永21年(正保元年,1644年)在伊賀國阿拝郡,是柘植郷的土豪一族松尾與左衛門的次子,但他的出生日期並不清楚,關於出生地有兩種說法,一說是在阿拝郡上野城下的赤坂町(現在的伊賀市上野赤坂町),另一說是在上柘植村(現在的伊賀市柘植町)。這是因為松尾家在芭蕉出生前後從上柘植村搬到了上野城下的赤坂町,所以不清楚是搬家還是芭蕉出生先發生。松尾家自稱是平氏的後裔,但當時雖然允許姓氏和佩劍,但身份並非武士而是農民。芭蕉有一位兄長命清,還有一位姊姊和三位妹妹。
明暦2年(1656年),在13歲時父親去世,兄長半左衛門繼承家督,據信他的生活很艱苦。或許因此,有許多不同的說法,但據說在寬文2年(1662年)年輕時侍奉於伊賀國上野的武將藤堂新七郎良清的繼承人主計良忠(號蝉吟),擔任廚房工作或廚師[3]。他與比他大兩歲的良忠一起拜師於京都的北村季吟,開始學習俳諧之道,並在寬文2年年底創作了一首詩句。
春天來了,年也要過去了,小除夕。
這是已知最古老的作品之一,據說是在19歲的立春日詠的。在寬文4年(1664年),松江重頼編纂的《佐夜中山集》中,以「松尾宗房」的名義首次收錄了兩句貞門派風格的詩句。
寬文6年(1666年),上野的俳壇聚集,舉辦了貞徳翁十三回忌追善百韻俳諧活動,宗房創作的現存最古老的連句誕生了。這百韻的發句是蟬吟,但側面卻是季吟所詠,因此被認為是上野連衆從季吟中接受指導的證據。
然而,寬文6年良忠去世。宗房加入一群將遺髮獻給高野山報恩院的人,悼念他的菩提,並且退休了。雖然對他之後的動向有些不清楚,但在寬文7年(1667年)刊行的『続山井』(湖春編)等貞門派的選集中,他被介紹為「伊賀上野的人」,這表明即使他去京都修行,也可能還是留在上野。之後,他的作品分別被收錄在萩野安靜選的『如意寶珠』(寬永9年)中的6句,岡村正辰選的『大和巡禮』(寬永10年)中的2句,以及吉田友次選的『俳諧藪香物』(寬永11年)中的1句。
寬文12年(1672年),29歲的宗房將處女句集《貝大》奉獻給上野天神宮(三重縣伊賀市)。這是包含30首句子的作品,具有談林派的先驅風格,節奏明快的音律和奔放的風格,並在自己記錄的判詞中使用了小唄和六方詞等流行詞彙,展現出充滿青春活力的才華。此外,延寶2年(1674年),進行了象徵從季吟畢業的俳諧作法書《俳諧埋木》的傳授。在這些事件的推動下,宗房前往江戶。
江戶日本橋的桃青
延寶3年(1675年)初頭(諸說有異)宗房下到江戶,最初居住的地方有諸說,有說是在日本橋的小沢卜尺的租屋,有說是與久居藩士向日八太夫同行下向,後來進入了終生的援助者、魚問屋杉山杉風位於日本橋小田原町的住宅。在江戶,他與當地的俳人們交流,並逐漸開始參加磐城平藩主內藤義概的沙龍,可以說成為江戶俳壇的後見。延寶3年5月,他參加了迎接下到江戶的西山宗因舉辦的九吟百韻的活動,並在這個時候首次使用了號稱「桃青」。桃青受到宗因的談林派俳諧的深刻影響。
延寶5年(1677年),有記載他參與將神田川引入水戸藩邸用於防火的工程。據說是經由卜尺的介紹,但這份工作似乎不是勞動或技術工作者,而更像是一種記錄雇工的帳簿工作。這可能是因為他為了不涉足點取俳諧而經濟上陷入貧困,或是為了避免被當局視為失業者。在這段期間,桃青居住在現今的文京區,那裡建有關口芭蕉庵,包括芭蕉堂和瓢箪池。在延寶6年(1678年)或之後的某年,桃青成為宗匠,開始從事職業俳諧師。雖然沒有確切證據表明進行了宗匠披露的萬句俳諧,但從《玉手箱》(由神田蝶々子編纂,延寶7年9月)中的「桃青萬句中的千句首句」,以及《富士石》(調和編,延寶7年4月)中的「桃青萬句」等句子的前言來看,可以推斷萬句俳諧以某種形式進行。在《桃青傳》(梅人編)中還留有一段文句,提到桃青持有宗匠的證明文件「延寶六牛年歳旦帳」。
桃青成為宗匠後,與江戶和京都的俳壇保持交流,並發表了許多作品。當京都的信德來到江戶時,與山口素堂等人會面,並出版了《桃青三百韻》。在這個時期,談林派的影響也表現得很強烈。此外,桃青也被委託進行評論工作,被選為18位優秀俳人之一,評價《俳諧關相撲》(未達編,天和2年刊)。然而,桃青的評價已經散佚,無法傳承。
然而,延寶8年(1680年),桃青突然搬到了深川。對於這個理由,有各種說法,有人認為他已經厭倦了與愛好者見面作為新興宗師的生活,有人認為他的家在日本橋被火燒毀,也有人認為他覺得在談林諧謔中已經達到極限。無論如何,他都希望追求俳諧的純粹性,並在背離世俗、效法老莊思想般效法天(自然)的過程中尋求安寧。
芭蕉沒有寫有關俳諧的評論(俳評)。芭蕉重視實踐,並且即使門徒持有不同的觀點,也不會加以矯正,他甚至容忍像「かるみ」那樣不理解或像其角・嵐雪那樣喜歡不同方向的人。他可能害怕如果留下俳評,人們會盲目地相信,俳風會形式化。然而,他並沒有禁止門徒寫下他們的想法,透過土芳的『三冊子』和去來的『去來抄』可以了解這些。
如同在「かるみ」中所述,芭蕉在吸收「俗」的同時,試圖將俳諧提升至高尚之境,他使用日常用語,卻賦予詩意,將其詩化。為了實現這一目標,他強調了純粹的詩意識,稱之為「風雅之誠」。這是對宋學世界觀中所謂的萬物根源「誠」的意識,通過把握風雅的本質(如《三冊子》中所說的「責備誠」),自然而然地能夠創作俳諧,而無需刻意設計。這種本質並非固定的,而是在「おくのほそ道」中獲得的「不易流行」,其中「不易」代表「站得住的誠實姿態」,而「流行」則代表「了解誠的變化」,這兩個概念被統合為「誠」。
1.
"春や来し年や行けん小晦日 (はるやこし としやゆきけん こつごもり)"
春、明年、一年最後一夜。
2.
"侘びてすめ月侘斎が奈良茶哥 (わびてすめ つきわびさいが ならちゃうた)"
侘手月侘彩 是奈良茶下。
3.
"芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉 (ばしょうのわきして たらいにあめを きくよかな)"
芭蕉站在田邊,聽著碗裡的雨聲。
4.
"野ざらしを心に風のしむ身哉"
我感覺到風在露天吹著。
5.
"古池や蛙飛びこむ水の音 (ふるいけや かはづとびこむ みずのおと) 『蛙合』"
青蛙跳入古塘的水聲。
6.
"月はやし梢は雨を持ちながら"
當月亮和棕櫚樹梢帶來雨水時。
7.
"初しぐれ猿も小蓑をほしげ也 (はつしぐれ さるもこみのを ほしげなり)"
初重的第一隻猴子也想要一把小傘。
8.
"旅に病んで夢は枯野をかけ廻る"
我因旅行而生病,我的夢想在乾燥的田野裡徘徊。
9.
"月ぞしるべこなたへ入せ旅の宿 (つきぞしるべ こなたへいらせ たびのやど)"
月藏涉部今多旅行旅館。
10.
"霰まじる帷子雪はこもんかな (あられまじる かたびらゆきは こもんかな)『続山井』"
我想知道雪是否夾雜著冰雹。
11.
"蛸壺やはかなき夢を夏の月 (たこつぼや はかなきゆめを なつのつき) 『猿蓑』"
章魚壺與夏月的一夢。
12.
"物言えば唇寒し秋の風"
說話的時候嘴唇是冷的秋風是冷的。
13.
"おろかなる者は思うこと多し。"
愚人的想法很多。
14.
"春に百花あり秋に月あり。
夏に涼風あり。
冬に雪あり。
すなわちこれ人間の好時節。"
春有百花,秋有月。
夏天有一陣涼風。
冬天有雪。
換句話說,真是一個好時代。