"坪内 逍遥(つぼうち しょうよう、旧字体:坪󠄁內 逍遙、1859年6月22日(安政6年5月22日) - 1935年(昭和10年)2月28日)は、日本の小説家、評論家、翻訳家、劇作家。小説家としては主に明治時代に活躍した。代表作に『小説神髄』『当世書生気質』及びシェイクスピア全集の翻訳があり、近代日本文学の成立や演劇改良運動に大きな影響を与えた。本名:坪内雄蔵つぼうちゆうぞう。別号に「朧ろ月夜に如くものぞなき」の古歌にちなんだ春のやおぼろ(春廼屋朧)、春のや主人など。俳句も詠んだ。
尾張藩領であった美濃国加茂郡太田宿(現・岐阜県美濃加茂市)で、江戸幕末期に生まれた。父の坪内平右衛門信之(後に平之進→其楽と改名)は尾張藩士で太田代官所の手代を務めており、明治維新とともに一家で実家のある名古屋の笹島村へ戻った。母は名古屋で酒造業を営んだ松屋藤兵衛の娘ミチ。父から漢学書類を読まされた他に、母の影響を受け、11歳頃から貸本屋に通い、読本、草双紙などの江戸戯作や俳諧、和歌に親しみ、ことに滝沢馬琴に心酔した。
愛知外国語学校(現・愛知県立旭丘高等学校)時代に岐阜県の選抜生となり1876年(明治9年)に東京開成学校入学、東京大学予備門(後の第一高等学校)を経て、東京大学文学部政治科を1883年(明治16年)に卒業し文学士となる。在学中は西洋文学を学び、詩人の作品の他、同級の親友・高田早苗の勧めで西洋小説も広く読むようになった。1880年(明治13年)にウォルター・スコット『ランマームーアの花嫁』の翻訳『春風情話』(橘顕三名義)を刊行。また高田や、市島春城、小田一郎、石渡敏一などと神保町の天ぷら屋に通ったが、この時の経験が『当世書生気質』の題材になった。
その後、高田早苗に協力して、早稲田大学の前身である東京専門学校の講師となり、後に早大教授となっている。1884年(明治17年)にウォルター・スコット『湖上の美人』の翻訳『泰西活劇 春窓綺話』(共訳、服部誠一名義)[注釈 1]、シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』の翻訳『該撒奇談 自由太刀余波鋭鋒』を出版。
1885年(明治18年)に評論『小説神髄』を発表。小説を美術(芸術)として発展させるために、江戸時代の勧善懲悪の物語を否定し、小説はまず人情を描くべきで、世態風俗の描写がこれに次ぐと論じた。この心理的写実主義によって日本の近代文学の誕生に大きく貢献した。またその理論を実践すべく小説『当世書生気質』(「春のやおぼろ先生」名義)を著した。しかし逍遙自身がそれまでの戯作文学の影響から脱しきれておらず、これらの近代文学観が不完全なものに終っていることが、後に二葉亭四迷の『小説総論』『浮雲』によって批判的に示された。当時書生であった矢崎嵯峨の屋の作品を春の屋主人補助の名で出版されることもあった。
1889年(明治22年)に徳富蘇峰の依頼で『国民之友』に「細君」を発表して後は小説執筆を断ち、1890年(明治23年)からシェイクスピアと近松門左衛門の本格的な研究に着手。1891年(明治24年)、雑誌『早稲田文学』を創刊する。1897年(明治30年)前後に戯曲として新歌舞伎『桐一葉』『沓手鳥孤城落月』『お夏狂乱』『牧の方』などを書き、演劇の近代化に果たした役割も大きい。1906年(明治39年)、島村抱月らと文芸協会を開設し、新劇運動の先駆けとなった。雑誌『早稲田文学』の成立にも貢献した。1913年(大正2年)以降にも戯曲『役の行者』『名残の星月夜』『法難』などを執筆する。
『役の行者』は1913年に完成し、出版する予定となっていたが、島村抱月と松井須磨子の恋愛事件があり、作中の行者、その弟子の広足、女魔神の関係が、逍遥・抱月・須磨子の関係を彷彿させると考えて急遽、出版を中止した。1916年にこの改訂作『女魔神』を『新演芸』誌に発表し、翌年『役の行者』の題で出版した。続いて1922年に再改訂作『行者と女魔』を発表。初演は1924年に、初稿によって、築地小劇場で最初の創作劇として上演され、高い世評を得た。その後も初稿および改訂版により上演が行われている。また同じ題材で、挿絵も自身の手による絵巻物『神変大菩薩伝』を1932年(昭和7年)に発表した。1920年には『役の行者』は吉江喬松によって「レルミット」の題でフランス語訳されて出版、詩人アンリィ・ド・レニェらによって賞賛を得た。
また、1909年『ハムレット』に始まり1928年『詩編其二』に至るまで独力でシェイクスピア全作品を翻訳刊行した。早稲田大学坪内博士記念演劇博物館は、逍遙の古稀とシェイクスピア全訳の偉業を記念して創設されたものである。 また、完訳記念公演として築地小劇場が『真夏の夜の夢』を帝国劇場で上演した。
早稲田大学の講義は続けていたが、1927年(昭和2年)7月、「老齢任に堪えず」として総長に辞意を伝え、同年12月末、『リア王』の講義が終了するのを機会に教壇から退いた。
1933年(昭和8年)には新劇、新劇場が製作する『源氏物語』に顧問の1人として名を連ねたが、劇は上演直前に中止命令を受けている。
晩年は静岡県熱海市に建てた双柿舎に移り住み、訪ねて来るのは河竹繁俊くらいであったという[9]。町立熱海図書館(現・熱海市立図書館)の設置に協力しており、この図書館は「逍遥先生記念町立熱海図書館」「逍遙先生記念市立熱海図書館」を名乗っていた時期もあった(1936年7月より1944年8月まで)[10]。最後までシェイクスピア全集の訳文改訂に取り組み、『新修シェークスピア全集』刊行とほぼ同時に逝去した。
1935年2月28日、感冒に気管支カタルを併発し、双柿舎にて死去。享年77。戒名は双柿院始終逍遙居士。"
坪內逍遙(つぼうち しょうよう,舊字體:坪󠄁內 逍遙,1859年6月22日(安政6年5月22日) - 1935年(昭和10年)2月28日)是日本的小說家、評論家、翻譯家、劇作家。作為小說家,主要在明治時代活躍。他的代表作有《小說神髓》、《當世書生氣質》以及翻譯的莎士比亞全集,對近代日本文學的成立和戲劇改良運動產生了巨大的影響。本名:坪內雄藏(つぼうち ゆうぞう)。他還有別號,如春のやおぼろ(春廼屋朧)、春のや主人等,這些都是受到古歌「朧ろ月夜に如くものぞなき」的啟發。他也創作了俳句。
他出生於位於尾張藩領的美濃國加茂郡太田宿(現岐阜縣美濃加茂市),這是江戶幕末期的時候。他的父親坪內平右衛門信之(後來改名為平之進→其樂)是尾張藩士,也是太田代官所的手代。隨著明治維新的到來,他們全家搬回了位於名古屋的笹島村。他的母親是名古屋的松屋藤兵衛的女兒ミチ,從事釀酒業。除了被父親要求閱讀漢學書籍之外,他也受到母親的影響,大約從11歲開始,他就常去租書店,熱衷於閱讀讀本、草雙紙等江戶時代的戲作、俳諧和和歌,特別是對滝沢馬琴非常崇拜。
在愛知外國語學校(現愛知縣立旭丘高等學校)時期,他成為了岐阜縣的選拔生,並於1876年(明治9年)進入東京開成學校。之後進入東京大學預備門(後來的第一高等學校),1883年(明治16年)畢業於東京大學文學部政治科,獲得文學士學位。在學期間,他學習了西洋文學,不僅閱讀了詩人的作品,還在同級的親友高田早苗的推薦下,開始廣泛閱讀西洋小說。1880年(明治13年),他以橘顕三的名義出版了翻譯沃爾特·司各特的《蘭默爾莫爾的新娘》《春風情話》。他也和高田、市島春城、小田一郎、石渡敏一等人經常去神保町的天婦羅店,這段經歷後來成為了《當世書生氣質》的素材。
之後,他協助高田早苗,在早稻田大學的前身,東京專門學校擔任講師,後來成為早大教授。1884年(明治17年),他與人共同翻譯了沃爾特·司各特的《湖上的美人》《泰西活劇 春窓綺話》(服部誠一名義),以及莎士比亞的《朱利葉斯·凱撒》《該撒奇談 自由太刀余波鋭鋒》。
1885年(明治18年),他發表了評論《小說神髓》。為了將小說作為美術(藝術)發展,他否定了江戶時代勧善懲悪的故事,主張小說首先應該描繪人情,其次是時代風俗的描寫。他的這種心理寫實主義對日本近代文學的誕生貢獻巨大。他還實踐了自己的理論,撰寫了小說《當世書生氣質》(「春のやおぼろ先生」名義)。然而,逍遙自身沒有完全擺脫之前的戲作文學影響,這些近代文學觀後來被二葉亭四迷在《小說總論》和《浮雲》中批判性地指出。當時的書生矢崎嵯峨之屋的作品,有時也會以春の屋主人補助的名義出版。
1885年(明治18年),發表了評論《小說神髓》。為了讓小說作為美術(藝術)發展,否定了江戶時代的勸善懲惡故事,主張小說應首先描繪人情,其次才是世態風俗的描寫。這種心理寫實主義對日本近代文學的誕生起到了重大貢獻。他還為了實踐這些理論,撰寫了小說《當世書生氣質》(以「春のやおぼろ先生」名義)。然而,逍遙自己並未完全擺脫過去戲作文學的影響,這些近代文學觀最終被認為是不完整的,這一點後來被二葉亭四迷在《小說總論》和《浮雲》中批判性地指出。當時還是書生的矢崎嵯峨之屋的作品,有時以春の屋主人補助的名義發表。
1889年(明治22年),應徳富蘇峰的邀請,在《國民之友》上發表了小說《細君》,之後就中斷了小說寫作,並從1890年(明治23年)開始認真研究莎士比亞和近松門左衛門。1891年(明治24年),創辦了雜誌《早稻田文學》。在1897年(明治30年)前後,以戲曲形式寫了新歌舞伎《桐一葉》、《沓手鳥孤城落月》、《お夏狂乱》、《牧の方》等,對戲劇現代化的貢獻也很大。1906年(明治39年),與島村抱月等人創立了文藝協會,成為新劇運動的先驅。也對《早稻田文學》雜誌的成立做出了貢獻。1913年(大正2年)以後,還寫了戲曲《役の行者》、《名残の星月夜》、《法難》等。
《役の行者》在1913年完成,原定要出版,但由於島村抱月和松井須磨子之間的戀愛事件,作品中的行者、其弟子廣足、女魔神的關係讓人聯想到逍遙、抱月、須磨子的關係,於是緊急停止了出版。1916年,他發表了這部作品的改訂版《女魔神》在《新演藝》雜誌上,隔年以《役の行者》的名稱出版。繼續在1922年發表了再次改訂的《行者和女魔》。初演是在1924年,以初稿在築地小劇場進行,成為第一部創作劇,獲得了高度評價。之後,無論是初稿還是改訂版,都有上演。他還用同樣的題材,創作了自繪插圖的絵巻物《神變大菩薩傳》,於1932年(昭和7年)發表。1920年,《役の行者》被吉江喬松譯成法文並以《レルミット》的名稱出版,獲得了詩人亨利·德·雷涅等人的讚賞。
另外,從1909年開始翻譯《哈姆雷特》,直至1928年《詩編其二》為止,他獨力翻譯出版了莎士比亞的全集。為了紀念逍遙的古稀壽辰和莎士比亞全譯的偉大成就,早稲田大學坪內博士紀念演劇博物館被創建了。同時,為了紀念完訳,築地小劇場在帝國劇場上演了《仲夏夜之夢》。
逍遙繼續在早稲田大學授課,但在1927年(昭和2年)7月,因為「年老力衰」向校長表達了辭職的意向,並在同年12月底,以《李爾王》的講義結束為契機,從教壇上退休。
1933年(昭和8年),他作為顧問之一,連名參與了新劇、新劇場制作的《源氏物語》,但該劇在上演前夕接到了中止命令。
晚年,他搬到靜岡縣熱海市所建的雙柿舍居住,據說來訪者寥寥,只有河竹繁俊等人[9]。他也協助建立了町立熱海圖書館(現在的熱海市立圖書館),該圖書館曾有一段時間以「逍遙先生紀念町立熱海圖書館」「逍遙先生紀念市立熱海圖書館」的名稱運營(從1936年7月至1944年8月)[10]。他一直致力於莎士比亞全集的譯文修訂工作,並在《新修莎士比亞全集》出版的同時去世。
1935年2月28日,因感冒併發支氣管炎,在雙柿舍去世,享年77歲。戒名是雙柿院始終逍遙居士。
1.
"禁欲主義といふやつは、矛盾を秘めた教へで、いはば、生きてゐながら、生きるなと命ずるやうなものである。"
所謂禁慾主義,隱藏著矛盾的教義,就像告訴我們,趁著活著的時候不要再活了。
2.
"知識を与うるよりも感銘を与えよ。
感銘せしむるよりも実践せしめよ。"
留下深刻印象而不是傳授知識。
與其試圖留下深刻印象,不如嘗試將其付諸實踐。
3.
"子ゆえに迷い、子ゆえに悟る。"
因為孩子而迷茫,因為孩子而明白。