"三島 由紀夫(みしま ゆきお、1925年〈大正14年〉1月14日 - 1970年〈昭和45年〉11月25日)は、日本の小説家、劇作家、随筆家、評論家、政治活動家。本名は平岡 公威(ひらおか きみたけ)。
戦後の日本の文学界を代表する作家の一人であると同時に、ノーベル文学賞候補になるなど、日本語の枠を超え、日本国外においても広く認められた作家である。『Esquire』誌の「世界の百人」に選ばれた初の日本人で、国際放送されたテレビ番組に初めて出演した日本人でもある。
代表作は小説に『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』『憂国』『豊饒の海』など、戯曲に『近代能楽集』『鹿鳴館』『サド侯爵夫人』などがある。修辞に富んだ絢爛豪華で詩的な文体、古典劇を基調にした人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴である。
晩年は政治的な傾向を強め、自衛隊に体験入隊し、民兵組織「楯の会」を結成。1970年(昭和45年)11月25日(水曜日)、楯の会隊員4名と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地(現・防衛省本省)を訪れ東部方面総監を監禁。バルコニーで自衛隊員にクーデターを促す演説をしたのち、割腹自殺を遂げた。この一件は社会に大きな衝撃を与え、新右翼が生まれるなど、国内の政治運動や文学界に大きな影響を与えた(詳細は「三島事件」を参照)。
満年齢と昭和の年数が一致し、その人生の節目や活躍が昭和時代の日本の興廃や盛衰の歴史的出来事と相まっているため、「昭和」と生涯を共にし、その時代の持つ問題点を鋭く照らした人物として語られることが多い。
※ なお、以下では三島自身の言葉や著作からの引用部を〈 〉で括ることとする(家族・知人ら他者の述懐、評者の論評、成句、年譜などからの引用部との区別のため)。
1925年(大正14年)1月14日(水曜日)、東京市四谷区永住町2番地(現・東京都新宿区四谷四丁目22番)において、父・平岡梓(当時30歳)と母・倭文重(当時19歳)の間の長男として誕生。体重は650匁(約2,438グラム)だった。「公威」の名は祖父・定太郎による命名で、定太郎の恩人で同郷の土木工学者・古市公威男爵にあやかって名付けられた。
家は借家であったが同番地内で一番大きく、かなり広い和洋折衷の二階家で、家族(両親と父方の祖父母)の他に女中6人と書生や下男が居た(彼らは定太郎の故郷から来た親族だった)。祖父は借財を抱えていたため、一階には目ぼしい家財はもう残っていなかった。兄弟は、3年後に妹・美津子、5年後に弟・千之が生まれた。
父・梓は、一高から東京帝国大学法学部を経て、高等文官試験に1番で合格したが、面接官に悪印象を持たれて大蔵省入りを拒絶され、農商務省(公威の誕生後まもなく同省の廃止に伴い、農林省に異動)に勤務していた。岸信介、我妻栄、三輪寿壮とは一高、帝大の同窓であった。
母・倭文重は、加賀藩藩主・前田家に仕えていた儒学者・橋家の出身。父(三島の外祖父)は東京開成中学校の5代目校長で、漢学者・橋健三。
祖父・定太郎は、兵庫県印南郡志方村大字上富木(現・兵庫県加古川市志方町上富木)の農家の生まれ。帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)を卒業後、内務省に入省し内務官僚となる。1893年(明治26年)、武家の娘である永井夏子と結婚し、福島県知事、樺太庁長官などを務めたが、疑獄事件で失脚した(のちに無罪判決)。
祖母・夏子(戸籍名:なつ)は、父・永井岩之丞(大審院判事)と、母・高(常陸宍戸藩藩主・松平頼位が側室との間にもうけた娘)の間に長女として生まれた。夏子の母方の祖父・松平頼位の血筋を辿っていくと徳川家康に繋がっている。夏子は12歳から17歳で結婚するまで有栖川宮熾仁親王に行儀見習いとして仕えた。夏子の祖父は江戸幕府若年寄の永井尚志。なお、永井岩之丞の同僚・柳田直平の養子が柳田國男で、平岡定太郎と同じ兵庫県出身という縁もあった柳田国男は、夏子の家庭とは早くから交流があった。
作家・永井荷風の永井家と夏子の実家の永井家は同族(同じ一族)で、夏子の9代前の祖先永井尚政の異母兄永井正直が荷風の12代前の祖先にあたる。公威は、荷風の風貌と似ている梓のことを陰で「永井荷風先生」と呼んでいた。なお、夏子は幼い公威を「小虎」と呼んでいた。
祖父、父、そして息子の三島由紀夫と、三代にわたって同じ大学の学部を卒業した官僚の家柄であった。江戸幕府の重臣を務めた永井尚志の行政・統治に関わる政治は、平岡家の血脈や意識に深く浸透したのではないかと推測される。
公威と祖母・夏子とは、学習院中等科に入学するまで同居し、公威の幼少期は夏子の絶対的な影響下に置かれていた。公威が生まれて49日目に、「二階で赤ん坊を育てるのは危険だ」という口実のもと、夏子は公威を両親から奪い自室で育て始め、母親の倭文重が授乳する際も懐中時計で時間を計った。夏子は坐骨神経痛の痛みで臥せっていることが多く、家族の中でヒステリックな振る舞いに及ぶこともたびたびで、行儀作法に厳しかった。
公威は物差しやはたきを振り回すのが好きであったが没収され、車や鉄砲などの音の出る玩具も御法度となり、外での男の子らしい遊びも禁じられた。夏子は孫の遊び相手におとなしい年上の女の子を選び、公威に女言葉を使わせた。1930年(昭和5年)1月、5歳の公威は自家中毒にかかり、死の一歩手前までいく。病弱な公威のため、夏子は食事やおやつを厳しく制限し、貴族趣味を含む過保護な教育をした。その一方、歌舞伎、谷崎潤一郎、泉鏡花などの夏子の好みは、後年の公威の小説家および劇作家としての素養を培った。
1931年(昭和6年)4月、公威は学習院初等科に入学した。公威を学習院に入学させたのは、大名華族意識のある夏子の意向が強く働いていた。平岡家は定太郎が元樺太庁長官だったが平民階級だったため、華族中心の学校であった学習院に入学するには紹介者が必要となり、夏子の伯父・松平頼安(上野東照宮社司。三島の小説『神官』『好色』『怪物』『領主』のモデル)が保証人となった]。
しかし華族中心とはいえ、かつて乃木希典が院長をしていた学習院の気風は質実剛健が基本にあり、時代の波が満州事変勃発など戦争へと移行していく中、校内も硬派が優勢を占めていた。級友だった三谷信は学習院入学当時の公威の印象を以下のように述懐している。
公威は初等科1、2年から詩や俳句などを初等科機関誌『小ざくら』に発表し始めた。読書に親しみ、世界童話集、印度童話集、『千夜一夜物語』、小川未明、鈴木三重吉、ストリンドベルヒの童話、北原白秋、フランス近代詩、丸山薫や草野心平の詩、講談社『少年倶楽部』(山中峯太郎、南洋一郎、高垣眸ら)、『スピード太郎』などを愛読した。自家中毒や風邪で学校を休みがちで、4年生の時は肺門リンパ腺炎を患い、体がだるく姿勢が悪くなり教師によく叱られていた。
初等科3年の時は、作文「ふくろふ」の〈フウロフ、貴女は森の女王です〉という内容に対し、国語担当の鈴木弘一から「題材を現在にとれ」と注意されるなど、国語(綴方)の成績は中程度であった。主治医の方針で日光に当たることを禁じられていた公威は、〈日に当ること不可然(しかるべからず)〉と言って日影を選んで過ごしていたため、虚弱体質で色が青白く、当時の綽名は「蝋燭」「アオジロ」であった。
初等科6年の時には校内の悪童から「おいアオジロ、お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」とからかわれているのを三谷が目撃している。
この6年生の時の1936年(昭和11年)には、2月26日に二・二六事件があった。急遽、授業は1時限目で取り止めとなり、いかなることに遭っても「学習院学生たる矜り」を忘れてはならないと先生から訓示を受けて帰宅した。6月には〈非常な威厳と尊さがひらめいて居る〉と日の丸を表現した作文「わが国旗」を書いた。
1937年(昭和12年)、学習院中等科に進んだ4月、両親の転居に伴い祖父母のもとを離れ、渋谷区大山町15番地(現・渋谷区松濤二丁目4番8号)の借家で両親と妹・弟と暮らすようになった。夏子は、1週間に1度公威が泊まりに来ることを約束させ、日夜公威の写真を抱きしめて泣いた。青白く虚弱な公威は中等科でも同級生にからかわれ、屋上から鞄を落とされたり(万年筆3本折れる)、学食で皿に醤油をドバドバかけられ野菜サラダを食べられなくさせられたりという、イジメをずいぶん受けた。
公威は文芸部に入り、同年7月、学習院校内誌『輔仁会雑誌』159号に作文「春草抄――初等科時代の思ひ出」を発表。自作の散文が初めて活字となった。中等科から国語担当になった岩田九郎(俳句会「木犀会」主宰の俳人)に作文や短歌の才能を認められ成績も上がった。以後、『輔仁会雑誌』には、中等科・高等科の約7年間(中等科は5年間、高等科の3年は9月卒業)で多くの詩歌や散文作品、戯曲を発表することとなる。11、12歳頃、ワイルドに魅せられ、やがて谷崎潤一郎、ラディゲなども読み始めた。
7月に盧溝橋事件が発生し、日中戦争となった。この年の秋、8歳年上の高等科3年の文芸部員・坊城俊民と出会い、文学交遊を結んだ。初対面の時の公威の印象を坊城は「人波をかきわけて、華奢な少年が、帽子をかぶりなおしながらあらわれた。首が細く、皮膚がまっ白だった。目深な学帽の庇の奥に、大きな瞳が見ひらかれている。『平岡公威です』 高からず、低からず、その声が私の気に入った」とし、その時の光景を以下のように語っている。
1938年(昭和13年)1月頃、初めての短編小説「酸模すかんぽう――秋彦の幼き思ひ出」を書き、同時期の「座禅物語」などとともに3月の『輔仁会雑誌』に発表された。この頃、学校の剣道の早朝寒稽古に率先して起床していた公威は、稽古のあとに出される味噌汁がうまくてたまらないと母に自慢するなど[18]、中等科に上がり徐々に身体も丈夫になっていった。同年10月、祖母・夏子に連れられて初めて歌舞伎(『仮名手本忠臣蔵』)を観劇し、初めての能(天岩戸の神遊びを題材にした『三輪』)も母方の祖母・橋トミにも連れられて観た。この体験以降、公威は歌舞伎や能の観劇に夢中になり、その後17歳から観劇記録「平岡公威劇評集」(「芝居日記」)を付け始める。
1939年(昭和14年)1月18日、祖母・夏子が潰瘍出血のため、小石川区駕籠町(現・文京区本駒込)の山川内科医院で死去(没年齢62歳)。同年4月、前年から学習院に転任していた清水文雄が国語の担当となり、国文法、作文の教師に加わった。和泉式部研究家でもある清水は三島の生涯の師となり、平安朝文学への目を開かせた。同年9月、ヨーロッパではドイツ国のポーランド侵攻を受けて、フランスとイギリスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。
1940年(昭和15年)1月に、後年の作風を彷彿とさせる破滅的心情の詩「凶まがごと」を書く。同年、母・倭文重に連れられ、下落合に住む詩人・川路柳虹を訪問し、以後何度か師事を受けた。倭文重の父・橋健三と川路柳虹は友人でもあった。同年2月に山路閑古主宰の月刊俳句雑誌『山梔くちなし』に俳句や詩歌を発表。前年から、綽名のアオジロ、青びょうたん、白ッ子をもじって自ら「青城せいじょう」の俳号を名乗り、1年半ほどさかんに俳句や詩歌を『山梔』に投稿する。
同年6月に文芸部委員に選出され(委員長は坊城俊民)、11月に、堀辰雄の文体の影響を受けた短編「彩絵硝子」を校内誌『輔仁会雑誌』に発表。これを読んだ同校先輩の東文彦から初めて手紙をもらったのを機に文通が始まり、同じく先輩の徳川義恭とも交友を持ち始める。東は結核を患い、大森区(現・大田区)田園調布3-20の自宅で療養しながら室生犀星や堀辰雄の指導を受けて創作活動をしていた。一方、坊城俊民との交友は徐々に疎遠となっていき、この時の複雑な心情は、のちに『詩を書く少年』に描かれる。
この少年時代は、ラディゲ、ワイルド、谷崎潤一郎のほか、ジャン・コクトー、リルケ、トーマス・マン、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)、エドガー・アラン・ポー、リラダン、モオラン、ボードレール、メリメ、ジョイス、プルースト、カロッサ、ニーチェ、泉鏡花、芥川龍之介、志賀直哉、中原中也、田中冬二、立原道造、宮沢賢治、稲垣足穂、室生犀星、佐藤春夫、堀辰雄、伊東静雄、保田與重郎、梶井基次郎、川端康成、郡虎彦、森鷗外の戯曲、浄瑠璃、『万葉集』『古事記』『枕草子』『源氏物語』『和泉式部日記』なども愛読するようになった。
1941年(昭和16年)1月21日に父・梓が農林省水産局長に就任し、約3年間単身赴任していた大阪から帰京。相変わらず文学に夢中の息子を叱りつけ、原稿用紙を片っ端からビリビリ破いた。公威は黙って下を向き、目に涙をためていた。
同年4月、中等科5年に進級した公威は、7月に「花ざかりの森」を書き上げ、国語教師の清水文雄に原稿を郵送して批評を請うた。清水は、「私の内にそれまで眠っていたものが、はげしく呼びさまされ」るような感銘を受け、自身が所属する日本浪曼派系国文学雑誌『文藝文化』の同人たち(蓮田善明、池田勉、栗山理一)にも読ませるため、静岡県の伊豆修善寺温泉の新井旅館での一泊旅行を兼ねた編集会議に、その原稿を持参した。「花ざかりの森」を読んだ彼らは、「天才」が現われたことを祝福し合い、同誌掲載を即決した。
その際、同誌の読者圏が全国に広がっていたため、息子の文学活動を反対する平岡梓の反応など、まだ16歳の公威の将来を案じ、本名「平岡公威」でなく、筆名を使わせることとなった。清水は、「今しばらく平岡公威の実名を伏せて、その成長を静かに見守っていたい ――というのが、期せずして一致した同人の意向であった」と、合宿会議を回想している。筆名を考えている時、清水たちの脳裏に「三島」を通ってきたことと、富士の白雪を見て「ゆきお」が思い浮かんできた。
帰京後、清水が筆名使用を提案すると、公威は当初本名を主張したが受け入れ、「伊藤左千夫(いとうさちお)」のような万葉風の名を希望した。結局「由紀雄」とし、「雄」の字が重すぎるという清水の助言で、「三島由紀夫」となった。「由紀」は、大嘗祭の神事に用いる新穀を奉るため選ばれた2つの国郡のうちの第1のものを指す「由紀」(斎忌、悠紀、由基)の字にちなんで付けられた]。
リルケと保田與重郎の影響を受けた「花ざかりの森」は、『文藝文化』昭和16年9月号から12月号に連載された。第1回目の編集後記で蓮田善明は、「この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である」と激賞した。この賞讃の言葉は、公威の意識に大きな影響を与えた。この9月、公威は随想「惟神之道(かんながらのみち)」をノートに記し、〈地上と高天原との懸橋〉となる惟神之道の根本理念の〈まことごゝろ〉を〈人間本然のものでありながら日本人に於て最も顕著〉であり、〈豊葦原之邦の創造の精神である〉と、神道への深い傾倒を寄せた。
日中戦争の拡大や日独伊三国同盟の締結によりイギリスやアメリカ合衆国と対立を深めていた日本は、この年になり行われた南部仏印進駐以降、次第に全面戦争突入が濃厚となるが、公威は〈もう時期は遅いでせう〉とも考えていた。12月8日に行われたマレー作戦と真珠湾攻撃によって日本はついにイギリスやアメリカ、オランダなどの連合国と開戦し、太平洋戦争(大東亜戦争)が始まった。開戦当日、教室にやって来た馬術部の先輩から、「戦争がはじまった。しっかりやろう」と感激した口ぶりで話かけられ、公威も〈なんともいへない興奮〉にかられた。
1942年(昭和17年)1月31日、公威は前年11月から書き始めていた評論「王朝心理文学小史」を学習院図書館懸賞論文として提出(この論文は、翌年1月に入選)。3月24日、席次2番で中等科を卒業し、4月に学習院高等科文科乙類(独語)に進んだ。公威は、体操と物理の「中上」を除けば、きわめて優秀な学生であった。運動は苦手であったが、高等科での教練の成績は常に「上」(甲)で、教官から根性があると精神力を褒められたことを、公威は誇りとしていた。
ドイツ語はロベルト・シンチンゲル(ドイツ語版)に師事し、ほかの教師も桜井和市、新関良三、野村行一(1957年の東宮大夫在職中に死去)らがいた。後年ドナルド・キーンがドイツで講演をした際、一聴衆として会場にいたシンチンゲルが立ち上がり、「私は平岡君の(ドイツ語の)先生だった。彼が一番だった」と言ったエピソードがあるほど、ドイツ語は得意であった。
各地で日本軍が勝利を重ねていた同年4月、大東亜戦争開戦の静かな感動を厳かに綴った詩「大詔」を『文藝文化』に発表。同年5月23日、文芸部委員長に選出された公威は、7月1日に東文彦や徳川義恭(東京帝国大学文学部に進学)と共に同人誌『赤繪』を創刊し、「苧菟と瑪耶」を掲載した。誌名の由来は志賀直哉の『万暦赤繪』にあやかって付けられた。公威は彼らとの友情を深め、病床の東とはさらに文通を重ねた。同年8月26日、祖父・定太郎が死亡(没年齢79歳)。公威は詩「挽歌一篇」を作った。
同年11月、学習院の講演依頼のため、清水文雄に連れられて保田與重郎と面会し、以後何度か訪問する。公威は保田與重郎、蓮田善明、伊東静雄ら日本浪曼派の影響下で、詩や小説、随筆を同人誌『文藝文化』に発表し、特に蓮田の説く「皇国思想」「やまとごころ」「みやび」の心に感銘した。公威が「みのもの月」、随筆「伊勢物語のこと」を掲載した昭和17年11月号には、蓮田が「神風連のこころ」と題した一文を掲載。これは蓮田にとって熊本済々黌の数年先輩にあたる森本忠が著した『神風連のこころ』(國民評論社、1942年)の書評であるが、この一文や森本の著書を読んでいた公威は、後年の1966年(昭和41年)8月に、神風連の地・熊本を訪れ、森本忠(熊本商科大学教授)と面会することになる。
ちなみに、三島の死後に村松剛が倭文重から聞いた話として、三島が中等科卒業前に一高の入試を受験し不合格となっていたという説もあるが、三島が中等科5年時の9月25日付の東文彦宛の書簡には、高等科は文科乙類(独語)にすると伝える記述があり、三島本人はそのまま文芸部の基盤が形成されていた学習院の高等科へ進む意思であったことが示されている。なお、三島が一高を受験したかどうかは、母・倭文重の証言だけで事実関係が不明であるため、全集の年譜にも補足として、「学習院在学中には他校の受験はできなかったという説もある」と付記されている。
GHQ占領下の日本では、戦犯の烙印を押された軍人が処刑されただけでなく(極東国際軍事裁判)、要職にいた各界の人間が公職追放になった。マスコミや出版業界も「プレスコード」と呼ばれる検閲が行われ、日本を賛美することは許されなかった。戦時中に三島が属していた日本浪曼派の保田與重郎や佐藤春夫、その周辺の中河与一や林房雄らは、戦後に左翼文学者や日和見作家などから戦争協力の「戦犯文学者」として糾弾された。日本浪曼派の中で〈天才気取りであった少年〉の三島は、〈二十歳で、早くも時代おくれになつてしまつた自分〉を発見して途方に暮れ、戦後は〈誰からも一人前に扱つてもらへない非力な一学生〉にすぎなくなってしまったことを自覚し、焦燥感を覚える。
戦争の混乱で『文藝世紀』の発刊は戦後も中絶したまま、「中世」は途中までしか発表されていなかった。三島は終戦前、川端康成から「中世」や『文藝文化』で発表された作品を読んでいるという手紙を受け取っていたが、川端がその作品の賞讃を誰かに洩らしていたという噂も耳にしていた。
それを頼みの綱にし、〈何か私を勇気づける事情〉も持っていた三島は、「中世」と新作短編「煙草」の原稿を携え、帝大の冬休み中の1946年(昭和21年)1月27日、鎌倉二階堂に住む川端のもとを初めて訪れた。慎重深く礼儀を重んじる三島は、その際に野田宇太郎の紹介状も持参した。
三島は川端について、〈戦争がをはつたとき、氏は次のやうな意味の言葉を言はれた。「私はこれからもう、日本の哀しみ、日本の美しさしか歌ふまい」――これは一管の笛のなげきのやうに聴かれて、私の胸を搏つた〉と語り、川端の『抒情歌』などに顕著な、単に抒情的・感覚的なだけではない〈霊と肉との一致〉、〈真昼の神秘の世界〉にも深い共感性を抱いていた。そういった心霊的なものへの感性は、三島の「花ざかりの森」や「中世」にも見られ、川端の作品世界と相通ずるものであった。
同年2月、三島は七丈書院を合併した筑摩書房の雑誌『展望』編集長の臼井吉見を訪ね、8作の原稿(花ざかりの森、中世、サーカス、岬にての物語、彩絵硝子、煙草、など)を持ち込んだ。臼井は、あまり好みの作風でなく肌に合わないが「とにかく一種の天才だ」と「中世」を採用しようとするが、顧問の中村光夫は「とんでもない、マイナス150点(120点とも)だ」と却下し、没となった。落胆した三島は、〈これは自分も、地道に勉強して役人になる他ない〉と思わざるをえなかった。
一方、「煙草」を読んだ川端は2月15日、自身が幹部を務める鎌倉文庫発行の雑誌『人間』の編集長・木村徳三に原稿を見せ、掲載決定がなされた。「煙草」は6月号に発表され、これが三島の戦後文壇への足がかりとなり、それ以後の川端と生涯にわたる師弟関係のような強い繋がりの基礎が形づくられた。
しかしながら、その関係は小説作法(構成など)の指導や批判を仰いで師事するような門下生的なものではなかったため、三島は川端を「先生」とは呼ばず、「自分を世の中に出して下さった唯一の大恩人」「一生忘れられない方」という彼への強い思いから、一人の尊敬する近しい人として、あえて「川端さん」と呼び、献本する際も必ず「様」と書いた。川端は、三島が取りかかっていた初めての長編(盗賊)の各章や「中世」も親身になって推敲指導し、大学生でもある彼を助けた。
臼井や中村が、ほとんど無名の学生作家・三島の作品を拒絶した中、新しい才能の発掘に長け、異質な新人に寛容だった川端が三島を後援したことにより、「新人発見の名人」という川端の称号は、その後さらに強められることになる。職業柄、多くの新人作家と接してきた木村徳三も、会った最初の数分で、「圧倒されるほどの資質を感知」したのは、加藤周一と三島の2人しかいないとし、三島は助言すればするほど、驚嘆する「才能の輝きを誇示」して伸びていったという。
しかし当時、借家であった三島の家(平岡家)は追い立てを受け、経済状況が困窮していた。父・梓が戦前の1942年(昭和17年)から天下っていた日本瓦斯用木炭株式会社(10月から日本薪炭株式会社)は終戦で機能停止となっていた。三島は将来作家として身を立てていく思いの傍らで、貧しさが文学に影響しないよう(商業的な執筆に陥らぬため)、生活維持のために大学での法学の勉強にも勤しんでいた。梓も終戦の日に一時、息子が作家になることに理解を示していたが、やはり安定した大蔵省の役人になることを望んでいた。
ある日、木村徳三は三島と帝大図書館前で待ち合わせ、芝生で1時間ほど雑談した際、講義に戻る三島を好奇心から跡をつけて教室を覗いた。その様子を、木村は「三島君が入った二十六番教室をのぞいてみると、真面目な優等生がするようにあらかじめ席をとっておいたらしい。教壇の正面二列目あたりに着席する後姿が目に入った。怠け学生だった私などの考えも及ばぬことであった」と述懐している。
同年夏、蓮田善明が終戦時に自決していたことを初めて知らされた三島は、11月17日に清水文雄、中河与一、栗山理一、池田勉、桜井忠温、阿部六郎、今田哲夫と共に成城大学素心寮で「蓮田善明を偲ぶ会」を開き、〈古代の雪を愛でし 君はその身に古代を現じて雲隠れ玉ひしに われ近代に遺されて空しく 靉靆の雪を慕ひ その身は漠々たる 塵土に埋れんとす〉という詩を、亡き蓮田に献じた。
戦後に彼らと距離を置いた伊東静雄は欠席し、林富士馬も、蓮田の死を「腹立たしい」と批判し、佐藤春夫は蓮田を庇った。三島は偲ぶ会の翌日、清水宛てに、〈黄菊のかをる集りで、蓮田さんの霊も共に席をならべていらつしやるやうに感じられ、昔文藝文化同人の集ひを神集ひにたとへた頃のことを懐かしく思ひ返しました。かういふ集りを幾度かかさねながら、文藝文化再興の機を待ちたいと存じますが如何?〉と送った。
敗戦前後に渡って書き綴られた「岬にての物語」は、川端のアドバイスによって講談社の『群像』へ持ち込み、11月号に無事発表された。この売り込みの時、三島は和服姿で袴を穿いていたという。『人間』の12月号には、川端から『将軍義尚公薨逝記』を借りて推敲した「中世」が全編掲載された。
当時の三島は両親と同居はしていたものの、生活費の援助は受けずに自身の原稿料で生活を賄い、弟・千之にも小遣いを与えていたことが、2005年(平成17年)に発見された「会計日記」(昭和21年5月から昭和22年11月まで記載)で明らかになった。この金銭の支出記録は、作家として自立できるかを模索するためのものだったと見られている。
川端と出会ったことで三島のプロ作家としての第一歩が築かれたが、まだ三島がこの世に生まれる前から2人には運命的な不思議な縁があった。三島の父・梓が東京帝大法学部の学生の時、正門前で同級生の三輪寿壮が、見知らぬ「貧弱な一高生」と歩いているところに出くわしたが、それが川端だった。その数日後、梓は三輪から、川端康成という男は「ぼくらの持っていないすばらしい感覚とか神経の持主」だから、君も付き合ってみないかと誘われたが、文学に疎かった梓は、「畑ちがいの人間とはつきあう資格はないよ」と笑って紹介を断わったという。
「煙草」や「中世」が掲載されたもののそれらに対する評価は無く、法学の勉強も続けていたところで作品が雑誌掲載されたことから何人かの新たな文学的交友も得られた三島は、その中の矢代静一(早稲田高等学院在学中)らに誘われ、当時の青年から熱狂的支持を得ていた太宰治と彼の理解者の亀井勝一郎を囲む集いに参加することにした。三島は太宰の〈稀有の才能〉は認めていたが、その〈自己劇画化〉の文学が嫌いで、〈愛憎の法則〉によってか〈生理的反発〉も感じていた。
1946年(昭和21年)12月14日、三島は紺絣の着物に袴を身につけ、中野駅前で矢代らと午後4時に待ち合わせし、〈懐ろに匕首を呑んで出かけるテロリスト的心境〉で、酒宴が開かれる練馬区豊玉中2-19の清水家の別宅にバスで赴いた。
三島以外の出席者は皆、矢代と同じ府立第五中学校出身で、中村稔(一高在学)、原田柳喜(慶応在学)、相沢諒(駒沢予科在学)、井坂隆一(早稲田高在学)、新潮社勤務の野原一夫、その家に下宿している出英利(早稲田高在学、出隆の次男)と高原紀一(一橋商学部)、家主の清水一男(五中在学の15歳)といった面々であった。
三島は太宰の正面の席に導かれ、彼が時々思い出したように上機嫌で語るアフォリズムめいた文学談に真剣に耳を傾けていた。そして三島は森鷗外についての意見を求めるが、太宰は、「そりゃ、おめえ、森鴎外なんて小説家じゃねえよ。第一、全集に載っけている写真を見てみろよ。軍服姿の写真を堂々と撮させていらあ、何だい、ありゃ……」と太宰流の韜晦とうかいを込めて言った。
下戸の三島は「どこが悪いのか」と改まった表情で真面目に反論して鴎外論を展開するが、酔っぱらっていた太宰はまともに取り合わず、両者の会話は噛み合わなかった。その酒宴に漂う〈絶望讃美〉の〈甘ったれた〉空気、太宰を司祭として〈自分たちが時代病を代表してゐるといふ自負に充ちた〉馴れ合いの雰囲気を感じていた三島は、この席で明言しようと決めていた〈僕は太宰さんの文学はきらいなんです〉という言葉をその時に発した。
これに対して太宰は虚を衝かれたような表情をし、「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と顔をそむけた後、誰に言うともなく、「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と言った。気まずくなった三島はその場を離れ、それが太宰との一度きりの対決となった。その後、太宰は「斜陽」を『新潮』に連載するが
1947年(昭和22年)4月、記紀の衣通姫伝説を題材にした「軽王子と衣通姫」が『群像』に発表された。三島は、前年1946年(昭和21年)9月16日に偶然に再会した人妻の永井邦子(旧姓・三谷)から、その2か月後の11月6日に来電をもらって以来何度か彼女と会うようになり、友人らともダンスホールに通っていたが、心の中には〈生活の荒涼たる空白感〉や〈時代の痛み〉を抱えていた。
同年6月27日、三島は新橋の焼けたビルにあった新聞社の新夕刊で林房雄を初めて見かけた。同年7月、就職活動をしていた三島は住友(銀行か)と日本勧業銀行の入行試験を受験するが、住友は不採用となり、勧銀の方は論文や英語などの筆記試験には合格したものの、面接で不採用となった。やはり、役人になることを考えた三島は、同月から高等文官試験を受け始めた。
8月、『人間』に発表した「夜の仕度」は、軽井沢を舞台にして戦時中の邦子との体験を元に堀辰雄の『聖家族』流にフランス心理小説に仮託した手法をとったものであった。林は、これを中村真一郎の「妖婆」と共に『新夕刊』の日評で取り上げ、「夜の仕度」を「今の日本文壇が喪失してゐる貴重なもの」と高評し、これを無視しようとする「文壇の俗常識を憎む」とまで書いた。
これに感激した三島は、林にお礼を言いに9月13日の新夕刊の「13日会」に行った。林は酔って帰りに3階の窓から放尿するなど豪放であったが、まだ学生の三島を一人前の作家として認めて話し相手になったため、好感を抱いた彼は親交を持つようになった。当時の三島は、堀の弟子であった中村真一郎の所属するマチネ・ポエティックの作家たち(加藤周一、福永武彦、窪田啓作)と座談会をするなど親近感を持っていたが、次第に彼らの思想的な〈あからさまなフランス臭〉や、日本古来の〈危険な美〉である心中を認めない説教的ヒューマニズムに、〈フランスはフランス、日本は日本じゃないか〉と反感を覚え、同人にはならなかった。
「夜の仕度」は当時の文壇から酷評され、「うまい」が「彼が書いている小説は、彼自身の生きることと何の関係もない」という高見順や中島健蔵の無理解な合評が『群像』の11月号でなされた。これに憤慨し、わかりやすいリアリズム風な小説ばかり尊ぶ彼らに前から嫌気がさしていた三島は、執筆中であった「盗賊」の創作ノートに〈この低俗な日本の文壇が、いさゝかの抵抗も感ぜずに、みとめ且つとりあげる作品の価値など知れてゐるのだ〉と書き撲った。
大学卒業間近の11月20日、三島の念願であった短編集『岬にての物語』が桜井書店から刊行された。「岬にての物語」「中世」「軽王子と衣通姫」を収めたこの本を伊東静雄にも献呈した三島は、伊東からの激励の返礼葉書に感激し、〈このお葉書が私の幸運のしるしのやうに思へ、心あたゝかな毎日を送ることができます〉と喜びを伝え、以下のような文壇への不満を書き送っている。
1947年(昭和22年)11月28日、三島は東京大学法学部法律学科を卒業した(同年9月に東京帝国大学から名称変更)。卒業前から受けていた様々な種類の試験をクリアし、12月13日に高等文官試験に合格した三島は(成績は合格者167人中138位)、12月24日から大蔵省に初登庁し、大蔵事務官に任官されて銀行局国民貯蓄課に勤務することになった。
当時の大蔵省は霞が関の庁舎がGHQに接収されていたため、焼け残った四谷第三小学校を仮庁舎としていた。銀行局長は愛知揆一、主計局長は福田赳夫で、基本給(月給)は1,350円であった。大蔵省同期入省者(22年後期組)は、三島のほかに長岡實、田中啓二郎、秋吉良雄、亘理彰、後藤達太、岩瀬義郎など全26名だった。三島は、「こんなのっぺりした野郎でござんすが何分よろしく」と挨拶したという。
東大法学部を卒業した直後の12月、三島は吉田満に直接会ってGHQに検閲削除されていた門外不出の「戦艦大和ノ最期」の初稿(手書きの草稿)を読ませてもらい、その内容に驚愕・感動したことから、大蔵省時代も吉田と親しくしていた。この頃吉田が三島に、今後どんな作品を書くつもりか訊ねると、「美というもの。日本の美。日本的な美」を書きたいと語っていたという。
同じ12月には、「自殺企図者」(長編『盗賊』第2章)、短編「春子」や「ラウドスピーカー」が各誌に掲載された。大蔵省に入省してすぐの頃、文章力を期待された三島は、国民貯蓄振興大会での大蔵大臣(栗栖赳夫)の演説原稿を書く仕事を任された。三島はその冒頭文に、〈…淡谷のり子さんや笠置シズ子さんのたのしいアトラクションの前に、私如きハゲ頭のオヤジがまかり出まして、御挨拶を申上げるのは野暮の骨頂でありますが…〉と書き、課長に怒られて赤鉛筆でバッサリと削られた。将来に有名作家となる三島の原稿を削除したという一件は、後々まで大蔵省内で語り継がれるエピソードとなる。
翌1948年(昭和23年)も、三島は『進路』1月号の「サーカス」を皮切りに多くの短編を発表し、〈役所と仕事と両方で綱渡りみたいな〉生活をしていたが、この頃の〈やけのやんぱちのニヒリスティックな耽美主義〉の根拠を自ら分析する必要を感じていた。
役人になったものの相変わらず文筆業を続ける息子の将来に不安を抱いた父・梓は、鎌倉文庫の木村徳三を訪ね、「あなた方は、公威が若くて、ちょっと文章がうまいものだから、雛妓、半玉を可愛がるような調子でごらんになっているのじゃありませんか。あれで椎名麟三さんのようになれるものですかね」と、息子が朝日新聞に小説を連載するような一人前の作家になれるのかを聞きに来た。木村は、「花形作家」になれるかは運、不運によるが「一本立ちの作家」になれる力量はあると答えたが、梓は終始浮かない様子だったという。
同年6月、雑誌『近代文学』の第2次同人拡大の呼びかけに応じ、三島も同人となった。その際、三島は天皇制を認めるなら加入してもよいという条件で参加した。この第2次参加の顔ぶれには、椎名麟三、梅崎春生、武田泰淳、安部公房らがいた。6月19日には、玉川上水で13日に入水自殺した太宰治の遺体が発見された。太宰の遺作『人間失格』は大きな反響を呼んだ。
同年7月か8月、三島は役所勤めと執筆活動の二重生活による過労と睡眠不足で、雨の朝の出勤途中、長靴が滑って渋谷駅ホームから線路に転落した。電車が来ないうちに這い上がれたが、危なかった。この事故をきっかけに息子が職業作家になることを許した梓は、「役所をやめてよい。さあ作家一本槍で行け、その代り日本一の作家になるのが絶対条件だぞ」と言い渡した。
同年8月下旬、河出書房の編集者・坂本一亀(坂本龍一の父)と志邨孝夫が、書き下ろし長編小説の執筆依頼のために大蔵省に勤務中の三島を訪ねた。三島は快諾し、「この長篇に作家的生命を賭ける」と宣言した。そして同年9月2日、三島は創作に専念するため大蔵省に辞表を提出し、9月22日に「依願免本官」という辞令を受けて退職した。
同年10月6日、芦田内閣総辞職の号外の鈴が鳴り響く晩、神田の喫茶兼酒場「ランボオ」の2階で、埴谷雄高、武田泰淳、野間宏、中村真一郎、梅崎春生、椎名麟三の出席する座談会(12月の同人誌『序曲』創刊号)に三島も加わった。その座談会の時、三島と初対面だった埴谷は、真正面に座った三島の「魅力的」な第一印象を、「数語交わしている裡に、その思考の廻転速度が速いと解るような極めて生彩ある話ぶり」だったと述懐している。
河出書房から依頼された長編のタイトルを〈仮面の告白〉と定めた三島は、〈生まれてはじめての私小説〉(ただし、文壇的私小説でない)に挑み、〈今まで仮想の人物に対して鋭いだ心理分析の刃を自分に向けて、自分で自分の生体解剖をしよう〉という試みで11月25日に起筆した。同月20日には、書き上げまで2年以上を費やした初の長編『盗賊』が真光社から刊行され、12月1日には短編集『夜の仕度』が鎌倉文庫から刊行された。
1949年(昭和24年)2月24日、作家となってから初上演作の戯曲『火宅』が俳優座により初演され、従来のリアリズム演劇とは違う新しい劇として、神西清や岸田国士などの評論家から高い評価を受けた。4月24日には、「仮面の告白」の後半原稿を喫茶店「ランボオ」で坂本一亀に渡した。紫色の古風な袱紗から原稿を取り出して坂本に手渡す三島を店の片隅で目撃していた武田泰淳は、その時の三島の顔を「精神集中の連続のあとの放心と満足」に輝いていたと述懐している。
三島にとっての〈裏返しの自殺〉、〈生の回復術〉であり、〈ボオドレエルの「死刑囚にして死刑執行人」といふ二重の決心で自己解剖〉した渾身の書き下ろし長編『仮面の告白』は同年7月5日に出版され、発売当初は反響が薄かったものの、10月に神西清が高評した後、花田清輝に激賞されるなど文壇で大きな話題となった。年末にも読売新聞の昭和24年度ベストスリーに選ばれ、作家としての三島の地位は不動のものとなった。
この成功以降も、恋愛心理小説「純白の夜」を翌1950年(昭和25年)1月から『婦人公論』で連載し、同年6月30日には、〈希臘神話の女性〉に似たヒロインの〈狂躁〉を描いた力作『愛の渇き』を新潮社から書き下ろしで出版した。同年7月からは、光クラブ事件の山崎晃嗣をモデルとした話題作「青の時代」を『新潮』で連載するなど、〈一息つく暇もなく〉、各地への精力的な取材旅行に励み、長編小説の力倆を身につけていった。
8月1日、立ち退きのため、両親・弟と共に目黒区緑ケ丘2323番地(現・緑が丘一丁目17番24号)へ転居。同月に岸田国士の「雲の会」発足に小林秀雄、福田恆存らと参加し、年上の文学者らとの交流が広まっていった後、中村光夫の発案の「鉢の木会」にも顔を見せるようになった。10月には、能楽を基調にした「邯鄲」を『人間』に掲載し、劇作家としての挑戦の幅も広げていった。この作品は、のちに『近代能楽集』としてまとめられる1作目となり、矢代静一を通じて前年に知り合った芥川比呂志による演出で12月に上演された。
1951年(昭和26年)1月から三島は、〈廿代の総決算〉として〈自分の中の矛盾や対立物〉の〈対話〉を描く意気込みで、ギリシャ彫刻のような美青年と老作家の登場する「禁色」(第一部)を『群像』に連載開始した。同性愛のアンダーグラウンドを題材としたこの作品は、文壇で賛否両論の大きな話題を呼び、11月10日に『禁色 第一部』として新潮社から刊行された。その間も三島は、数々の短編や中間小説「夏子の冒険」などを各誌に発表し、初の評論集『狩と獲物』も刊行するなど旺盛な活動を見せた。
しかし以前から、〈一生に一度でよいから、パルテノンを見たうございます〉と川端康成に告げ、自分の中の余分な〈感受性〉を嫌悪していた三島は、〈肉体的存在感を持つた知性〉を欲し、広い世界を求めていた。ちょうどこの頃、父・梓の一高時代の旧友である朝日新聞社出版局長の嘉治隆一から外国行きを提案され、三島は願ってもみない話に快諾した。
厳しい審査(当時はGHQ占領下で一般人の海外旅行は禁止されていたため)をクリアした三島は、同年12月25日から、朝日新聞特別通信員として約半年間の初の世界一周旅行に向け横浜港からプレジデント・ウィルソン号で出帆した。最初の目的地・ハワイに向かう船上で〈太陽と握手した〉三島は、日光浴をしながら、〈自分の改造といふこと〉を考え始めた。
ハワイから北米(サンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨーク、フロリダ、マイアミ、サン・フアン)、南米(リオ・デ・ジャネイロ、サン・パウロ)、欧州(ジュネーブ、パリ、ロンドン、アテネ、ローマ)を巡る旅の中でも、特に三島を魅了したのは眷恋の地・ギリシャ・アテネと、ローマのバチカン美術館で観たアンティノウス像であった。
古代ギリシャの〈肉体と知性の均衡〉への人間意志、明るい古典主義に孤独を癒やされた三島は、〈美しい作品を作ることと、自分が美しいものになることの、同一の倫理基準〉を発見し、翌1952年(昭和27年)5月10日に羽田に帰着した。この世界旅行記は『アポロの杯』としてまとめられ、10月7日に朝日新聞社から刊行された。
旅行前から予定していた「秘楽」(『禁色』第二部)の連載を、帰国後の8月から『文學界』で開始していた三島は、旅行後すぐの〈お土産小説〉を書くことを回避し、伊豆の今井浜で実際に起きた溺死事件を題材とした「真夏の死」を『新潮』10月号に発表した。
また、旅行前に書き上げていた「卒塔婆小町」は、三島が渡航中の2月に文学座により初演された。この作品は「邯鄲」「綾の鼓」に続く『近代能楽集』の3作目となり、三島の戯曲の中でも特に優れた成功作となった。これにより三島は劇作家としても本物の力量が認められ始めた。
三島は、ギリシャでの感動の続きで、古代ギリシャの恋愛物語『ダフニスとクロエ』を下敷きにした日本の漁村の物語を構想した。モデルとなる島探しを、昔農林省(農林水産省)にいた父・梓に依頼した三島は、候補の島の中から〈万葉集の歌枕や古典文学の名どころ〉に近い三重県の神島(かみしま)を選んだ。
1953年(昭和28年)3月に、鳥羽港から神島に赴いた三島は、八代神社、神島灯台、一軒のパチンコ店も飲み屋もない島民の暮しや自然、例祭神事、漁港、歴史や風習、漁船員の仕事を取材し、8月末から9月にも再度訪れ、台風や海女などについて取材した。神島の島民たちは当初、見慣れない〈顔面蒼白〉の痩せた三島の姿を見て、病気療養のために島に来ている人と勘違いしていたという。
この島を舞台にした新作を創作中も、練り直された「秘楽」の連載を並行していた三島は、9月30日に『秘楽 禁色第二部』を刊行し、男色の世界を描いた『禁色』が完結された。12月には、少年時代から親しんだ歌舞伎の台本に初挑戦し、芥川龍之介の原作小説を改作した歌舞伎『地獄変』を中村歌右衛門の主演で上演した。
伊勢湾に浮かぶ小さな島に住む健康的で素朴な若者と少女の純愛を描いた書き下ろし長編『潮騒』は、翌1954年(昭和29年)6月10日に新潮社から出版されるとベストセラーとなり、すぐに東宝で映画化されて三船敏郎の特別出演(船長役)もキャスティングされた。三島はこの作品で第1回新潮社文学賞を受賞するが、これが三島にとっての初めての文学賞であった。
これを受け、2年後にはアメリカ合衆国でも『潮騒』の英訳(The Sound of the Waves)が出版されベストセラーとなり、三島の存在を海外でも知られるきっかけの作品となった。11月には三島オリジナルの創作歌舞伎『鰯売恋曳網』が初演され、余裕を感じさせるファルスとして高評価された。この演目は以後長く上演され続ける人気歌舞伎となった。
この時期の他の作品には、『潮騒』の明るい世界とは対照的な終戦直後の青年の頽廃や孤独を描いた『鍵のかかる部屋』『急停車』や、三島の学習院時代の自伝的小説『詩を書く少年』、少年時代の憧れだったラディゲを題材にした『ラディゲの死』、〈菊田次郎といふ作者の分身〉を主人公にしたシリーズ(『火山の休暇』『死の島』)の終焉作『旅の墓碑銘』も発表された。
1955年(昭和30年)1月、奥只見ダムと須田貝ダムを背景にした「沈める滝」を『中央公論』に連載開始。同月には、少年時代の神風待望の心理とその〈奇蹟の到来〉の挫折感を重ね合わせた「海と夕焼」も『群像』に発表したが、三島の〈一生を貫く主題〉、〈切実な問題を秘めた〉この作品への反応や論評はなかった。三島は、もし当時この主題が理解されていれば、それ以降の自分の生き方は変っていたかもしれないと、のちに語っている。
同年9月、三島は、週刊読売のグラビアで取り上げられていた玉利齊(早稲田大学バーベルクラブ主将)の写真と、「誰でもこんな身体になれる」というコメントに惹かれ、早速、編集部に電話をかけて玉利を紹介してもらった。玉利が胸の筋肉をピクピク動かすのに驚いた三島は、さっそく自宅に玉利を招いて週3回のボディビル練習を始めた。この頃、映画『ゴジラの逆襲』が公開されて観ていたが、三島は自身を〈ゴジラの卵〉と喩えた。
同年11月、京都へ取材に行き、青年僧による金閣寺放火事件(1950年)を題材にした次回作の執筆に取りかかった三島は、『仮面の告白』から取り入れていた森鷗外的な硬質な文体をさらに鍛え上げ、「肉体改造」のみならず文体も練磨し〈自己改造〉を行なった。その双方を磨き上げ昇華した文体を駆使した「金閣寺」は、1956年(昭和31年)1月から『新潮』に連載開始された。
同月には、後楽園ジムのボディビル・コーチ鈴木智雄(元海兵の体操教官)に出会い、弟子入りし、3月頃に鈴木が自由が丘に開いたボディビルジムに通うことになった。三島は自由が丘で知り合った町内会の人に誘われ、8月には熊野神社の夏祭りで、生まれて初めて神輿をかつぎ陶酔感を味わった。
元々痩身で虚弱体質の三島であったが、弛まぬ鍛錬でのちに知られるほどの偉容を備えた体格となり、胃弱も治っていった。最初は10キロしか挙げられなかったベンチプレスも、約2年後に有楽町の産経ボディビルクラブに練習場所を変えた頃には60キロを挙上するまでに至り、その後は胸囲も1メートルを超え、生涯ボディビルは継続されていくことになる。
1月からの連載が終り、10月に『金閣寺』が新潮社から刊行された。傑作の呼び声高い作品として多数の評論家から高評価を受けた『金閣寺』は三島文学を象徴する代表作となり、第8回読売文学賞も受賞した。それまで三島に懐疑的だった評者からも認められ、三島は文壇の寵児となった。また、この年には、「日本空飛ぶ円盤研究会」に入会し、7月末の熱海ホテル滞在中に円盤観測に挑戦した。
9月には、鈴木智雄の紹介で、日大拳闘部の好意により、小島智雄の監督の下、ボクシングの練習も始めた。翌1957年(昭和32年)5月、小島智雄をスパーリング相手に練習を行っている三島を、前年の対談で知り合った石原慎太郎が訪ね、8ミリに撮影した。
これを観た三島は、〈石原慎太郎の八ミリシネにとつてもらひましたが、それをみていかに主観と客観には相違があるものかと非常に驚き、目下自信喪失の状態にあります〉と記し、以後ボクシングはもっぱら観戦の方に回り、スポーツ新聞に多くの観戦記を寄稿することになった。
この時期の三島は、『金閣寺』のほかにも、『永すぎた春』や『美徳のよろめき』などのベストセラー作品を発表し、そのタイトルが流行語になった。川端康成を論じた『永遠の旅人』も好評を博し、戯曲でも『白蟻の巣』が第2回岸田演劇賞を受賞、人気戯曲『鹿鳴館』も発表されるなど、旺盛な活動を見せ、戯曲集『近代能楽集』(「邯鄲」「綾の鼓」「卒塔婆小町」「葵上」「班女」を所収)も刊行された。
私生活でも、夏には軽井沢に出かけ、ホテルに泊まって原稿を書くほどの身分になり、乗馬クラブに通って避暑にやってくる人々に颯爽たる乗馬姿を披露して見せた。三島の乗馬姿は大いに注目され、その年の新聞・雑誌は彼の英姿で飾られることになった。また軽井沢では上流階級の子息・令嬢や夫人によるパーティーが開かれており、三島はそれらに顔を出して、吉田健一、岸田今日子、兼高かおる、鹿島三枝子(鹿島守之助の三女)、以前からの知り合いで『鏡子の家』のモデルとなる湯浅あつ子などと交遊した。さらに1954年(昭和29年)夏には、中村歌右衛門の楽屋で豊田貞子(赤坂の料亭の娘。『沈める滝』『橋づくし』のモデル)と知り合い、深い交際に発展した。それは三島の生涯において最も豊かな成功に輝いていた時期であったが、結局貞子とは破局し、1957年(昭和32年)5月、新派公演『金閣寺』を観た日を最後に別離した。
花嫁候補を探していた三島が、歌舞伎座で隣り合わせになる形で会い、銀座六丁目の小料理屋「井上」の2階で、独身時代の正田美智子とお見合いをしたとされるのも、1957年(昭和32年)頃である。なお同年3月15日、正田美智子が首席で卒業した聖心女子大学卒業式を三島は母と共に参観していたという。"
三島由紀夫(みしま ゆきお,1925年(大正14年)1月14日 - 1970年(昭和45年)11月25日),是日本的小說家、劇作家、隨筆家、評論家、政治活動家。本名為平岡公威(ひらおか きみたけ)。
他是戰後日本文壇的代表作家之一,同時也是超越日語界限,在國際上廣為認可的作家,曾成為諾貝爾文學獎候選人。是《Esquire》雜誌選出的「世界的百人」中第一位日本人,也是第一位參加國際廣播電視節目的日本人。代表作包括小說《假面的告白》、《潮聲》、《金閣寺》、《鏡子之家》、《憂國》、《豐饒之海》等,戲劇作品有《近代能樂集》、《鹿鳴館》、《薩德侯爵夫人》等。
其作品以華麗詩意的文體和基於古典劇的人工性、構築性為特色,充滿唯美主義風格。晚年政治傾向加強,體驗加入自衛隊,並組織了民兵組織「盾之會」。1970年(昭和45年)11月25日(星期三),與「盾之會」的四名成員一同訪問自衛隊市谷駐屯地(現防衛省本省),監禁了東部方面總監。在陽台上向自衛隊員發表鼓動政變的演說後,實施割腹自殺。
這一事件對社會造成了巨大震動,影響了國內的政治運動和文壇(詳情見「三島事件」)。由於他的年齡與昭和年數一致,其人生的重要時刻與昭和時代日本的興衰歷史事件相交織,因此常被描述為與「昭和」共存的人物,尖銳地揭示了那個時代的問題。
1925年(大正14年)1月14日(星期三),於東京市四谷新宿區四谷四丁目22號出生,父親是平岡梓(當時30歲),母親是倭文重(當時19歲),為長子。出生時體重650匁(約2,438克)。名字「公威」由祖父定太郎命名,以其恩人、同鄉的土木工程師古市公威男爵來命名。家庭居住在借來的房子中,但該地址內最大,是一座相當寬敞的和洋折衷風格的兩層建築,除了家庭成員(父母和父方祖父母)外,還有六位女僕和書生、下男(他們是祖父定太郎的鄉下親戚)。由於祖父負有債務,一樓已經沒有值得一提的家財。三年後生了妹妹美津子,五年後生了弟弟千之。
父親梓從一高畢業後進入東京帝國大學法學部,並以第一名的成績通過高等文官考試,但因面試官的不良印象而被拒絕進入大藏省,後來在農商務省工作(公威出生不久後,該部門被廢除,改為農林省)。與岸信介、我妻榮、三輪壽壯是一高、帝大的同學。母親倭文重出身於為加賀藩藩主前田家服務的儒學者家族橋家。父親(三島的外祖父)是東京開成中學校的第五代校長,漢學家橋健三。祖父定太郎出生於兵庫縣印南郡志方村大字上富木(現兵庫縣加古川市志方町上富木)的農家。畢業於帝國大學法科大學(現東京大學法學部)後,進入內務省成為內務官僚。
1893年(明治26年),與武家女兒永井夏子結婚,曾任福島縣知事、樺太廳長官等職,但因疑獄事件而失勢(後被判無罪)。祖母夏子(戶籍名:なつ)是永井岩之丞(大審院判事)和高(常陸宍戸藩藩主松平頼位與側室之女)的長女。夏子的母方祖父松平頼位的血統可以追溯到德川家康。夏子從12歲到17歲結婚前,曾作為有栖川宮熾仁親王的行儀見習。夏子的祖父是江戶幕府若年寄永井尚志。此外,永井岩之丞的同事柳田直平的養子是柳田國男,平岡定太郎和柳田國男都來自兵庫縣,柳田國男從早期就與夏子的家庭有交流。
作家・永井荷風的永井家和夏子的實家永井家是同族(同一族),夏子的九代祖先永井尚政的異母兄永井正直是荷風的十二代祖先。公威認為,與荷風的外貌相似的梓被他暗地裡稱為「永井荷風先生」。此外,夏子在公威幼年時稱他為「小虎」。祖父、父親,以及兒子三島由紀夫,三代人都畢業於同一所大學的學部,是一個官僚家族。擔任過江戶幕府重臣的永井尚志在行政和治理方面的政治,可能深深滲透到平岡家的血脈和意識中。公威和祖母夏子同住,直到他進入學習院中等部為止,公威的幼年時期完全受到夏子的影響。
公威出生後49天,夏子以「在二樓撫養嬰兒很危險」為藉口,將公威從父母那裡帶走,開始在自己的房間撫養他,即使是母親授乳時,也用懷表計時。夏子因坐骨神經痛疼痛而經常臥床,家中經常發生歇斯底里的行為,對禮儀作法很嚴格。公威喜歡揮舞尺子和除塵器,但這些都被沒收了,發出聲音的玩具如車和槍也被禁止,也禁止在外面進行男孩子的遊戲。夏子選擇年長而溫順的女孩子作為孫子的玩伴,並讓公威使用女性語言。1930年1月,五歲的公威患上自家中毒,差點死亡。夏子嚴格限制了病弱的公威的飲食和點心,並進行了包含貴族趣味的過度保護教育。
另一方面,夏子喜歡的歌舞伎、谷崎潤一郎、泉鏡花等,也培養了公威後來成為小說家和劇作家的素養。1931年4月,公威進入學習院初等部。讓公威進入學習院的是有大名華族意識的夏子的強烈意願。平岡家雖然是平民階級,但因為定太郎曾是樺太廳長官,所以入學學習院這所華族中心的學校需要介紹人,夏子的伯父松平頼安(上野東照宮社司,三島的小說《神官》《好色》《怪物》《領主》的模型)成為了擔保人。然而,學習院以質實剛健為基本,即使是華族中心,也受到時代波動,如滿洲事變爆發等戰爭的影響,學校內部的硬派佔據優勢。級友三谷信回憶起入學時的公威印象如下。公威從初等部一、二年級開始,在《小櫻》雜誌上發表詩和俳句。
他喜歡閱讀,愛讀世界童話集、印度童話集、《一千零一夜》、小川未明、鈴木三重吉、斯特林德伯格的童話、北原白秋、法國近代詩、丸山薫和草野心平的詩、講談社《少年俱樂部》(山中峯太郎、南洋一郎、高垣眸等)、《速度太郎》等。因為自家中毒和感冒,他經常缺課,四年級時患上肺門淋巴腺炎,身體虛弱,姿勢不良,經常被老師責備。三年級的時候,他的作文「福羅夫」中的內容〈福羅夫,妳是森林的女王〉,被國語老師鈴木弘一批評為「題材應該是現在」,國語(拼寫)的成績是中等。主治醫生禁止他晒太陽,所以公威選擇在陰影中度過,身體虛弱,膚色蒼白,當時的綽號是「蠟燭」和「青白」。六年級時,他被校內的壞孩子戲弄,三谷目睹了他們嘲笑公威的睾丸是否也是青白色的。1936年,六年級時,2月26日發生了二・二六事件。突然,課程在第一節結束,老師告訴學生無論遭遇什麼都不能忘記「學習院學生的自豪」,然後回家。6月,他寫了一篇表示日本國旗的「威嚴和尊嚴」的作文「我國旗」。
1937年4月,公威進入學習院中等部,隨著父母搬家,離開了祖父母的家,在渋谷區大山町15番地(現渋谷區松濤二丁目4番8號)的租房與父母和妹妹、弟弟生活。夏子要求公威每週過夜一次,並緊抱著公威的照片哭泣。青白而病弱的公威在中等部仍然受到同學的戲弄,被他們從屋頂扔下書包(打斷了三支萬年筆),在學校食堂被潑了滿盤醬油,弄得他吃不了蔬菜沙拉。公威加入了文藝部,同年7月,在學習院校刊《輔仁會雜誌》159號上發表了作文「春草抄——初等部時代的回憶」。這是他的散文首次以活字印刷。
從中等部開始,國語老師岩田九郎(俳句會「木犀會」主持人)認可了他的作文和短歌才能,成績也提高了。此後,在《輔仁會雜誌》上,他在中等部和高等部大約七年的時間裡(中等部五年,高等部三年是九月畢業),發表了許多詩歌、散文作品和戲劇。大約在11、12歲時,他被王爾德吸引,後來開始讀谷崎潤一郎、拉迪格等作品。
在七月,發生了盧溝橋事件,從而引發了中日戰爭。那年秋天,我遇到了比我大八歲的高等科三年級的文藝部成員坊城俊民,並結下了文學交遊。坊城對於初次見面時的公威印象如此描述:“人潮中,一位纖弱的少年推開人群,一邊重新戴好帽子出現了。他的脖子很細,皮膚非常白皙。在深深的學生帽檐下,大大的眼睛睜得很開。‘我是平岡公威’,他的聲音既不高亦不低,這聲音讓我印象深刻。”他還描述了當時的情景。
1938年(昭和13年)1月左右,公威寫下了他的第一篇短篇小說《酸模酸草──秋彦的幼小回憶》,並在同一時期與《坐禪物語》等作品一同,在3月的《輔仁會雜誌》上發表。那時,公威積極參加學校劍道的早晨冷訓練,並對練習後供應的味噌湯美味不已,對母親誇耀。公威升上中等科後,身體也逐漸變得強壯起來。同年10月,公威由祖母夏子帶領,首次觀看歌舞伎(《仮名手本忠臣藏》),也首次由母親一方的祖母橋トミ帶領觀看能劇(以《天岩戶》為主題的《三輪》)。這段經歷之後,公威對觀看歌舞伎和能劇變得著迷,並從17歲開始記錄觀劇心得,稱為《平岡公威劇評集》(又名《芝居日記》)。
1939年(昭和14年)1月18日,祖母夏子因潰瘍出血,在小石川區駕籠町(現文京區本駒込)的山川內科醫院去世,享年62歲。同年4月,從前年開始在學習院任教的清水文雄成為國語老師,開始教授國文法和作文。專研和泉式部的清水成為了三島一生的導師,並打開了他對平安時代文學的視野。同年9月,歐洲發生了德國入侵波蘭的事件,隨後法國和英國對德國宣戰,第二次世界大戰爆發。
1940年(昭和15年)1月,公威寫下了預示著他後來作風的毀滅性情緒詩《凶惡之事》。同年,由母親倭文重帶領,拜訪了詩人川路柳虹,此後多次向他學習。倭文重的父親橋健三和川路柳虹也是朋友。同年2月,公威在山路閑古主編的月刊俳句雜誌《山梔》上發表俳句和詩歌。從前一年開始,他自稱俳號為青城(アオジロ、青びょうたん、白ッ子等昵稱的變形),並在《山梔》上積極投稿俳句和詩歌。
同年6月,公威被選為文藝部委員(主席為坊城俊民),並在11月在校內刊物《輔仁會雜誌》發表受到堀辰雄文風影響的短篇小說《彩繪玻璃》。閱讀這篇作品的同校學長東文彦因此與公威開始通信,還與另一位學長德川義恭建立了友誼。東文彦當時正在大森區(現大田區)田園調布3-20的家中治療結核,同時接受室生犀星和堀辰雄的指導進行創作。另一方面,公威與坊城俊民的友誼逐漸疏遠,這段複雜的心情後來在《寫詩的少年》中被描繪出來。
公威的少年時代,他讀過拉迪蓋、王爾德、谷崎潤一郎等人的作品,還有珍·科克托、里爾克、托馬斯·曼、拉夫卡迪奧·希恩(小泉八雲)、愛倫·坡、利拉丹、莫朗、波特萊爾、梅里美、喬伊斯、普魯斯特、卡羅薩、尼采、泉鏡花、芥川龍之介、志賀直哉、中原中也、田中冬二、立原道造、宮沢賢治、稲垣足穂、室生犀星、佐藤春夫、堀辰雄、伊東靜雄、保田與重郎、梶井基次郎、川端康成、郡虎彦、森鴎外的戲劇、浄瑠璃、《萬葉集》《古事記》《枕草子》《源氏物語》《和泉式部日記》等經典作品。
1941年(昭和16年)1月21日,公威的父親梓成為農林省水產局長,結束了在大阪約3年的單身赴任,回到東京。公威依然痴迷於文學,被父親斥責並撕毀了所有的原稿紙。公威默默低頭,眼中含淚。
同年4月,公威升入中等科五年級,在7月完成了《花盛林》的寫作,並郵寄給國語老師清水文雄請求評論。清水深受感動,認為公威的作品喚醒了他內心沉睡的東西,於是決定帶著這份原稿去靜岡縣伊豆修善寺溫泉的新井旅館參加和日本浪漫派系國文學雜誌《文藝文化》同人(蓮田善明、池田勉、栗山理一)的編輯會議。他們讀後一致認為「天才」的出現值得慶祝,並立刻決定在雜誌上發表。
由於《文藝文化》的讀者群遍及全國,考慮到反對兒子文學活動的父親平岡梓的反應,以及年僅16歲的公威的未來,他們決定讓公威使用筆名而不是本名。清水回憶道,他們的共同意向是「暫時隱藏平岡公威的真名,靜靜觀察他的成長」。在考慮筆名時,清水等人想到了「三島」,並在看到富士山的白雪時,想到了「由紀夫」。
清水提議使用筆名後,公威起初堅持使用本名,但最終接受了。他希望使用像「伊藤左千夫」這樣的萬葉風名字。根據清水的建議,最終決定使用「由紀雄」,並將「雄」字改為輕一些的「三島由紀夫」。「由紀」是根據大嘗祭神事中選出的兩個國郡之一的「由紀」(斎忌、悠紀、由基)來命名的。
受到里爾克和保田與重郎影響的《花盛林》,於昭和16年9月號至12月號在《文藝文化》上連載。在第一次編輯後記中,蓮田善明讚賞說:“這位年輕的作者,卻是日本悠久歷史的請子。雖然年紀遠比我們小,但已是成熟之作的誕生。”這番讚賞的話語,對公威的意識產生了巨大影響。在9月,公威在筆記本上記下了隨想《惟神之道》,將惟神之道作為地上與高天原之間的懸橋的根本理念,認為其是“雖然是人類本然的東西,但在日本人中最為顯著”,是“豐葦原之國創造精神”的體現,表達了對神道的深切傾倒。
隨著日中戰爭的擴大和日德意三國同盟的締結,日本與英國和美國的對立加深,這一年進駐南部法印後,日本逐漸走向全面戰爭的可能性增大,公威也認為“時機或許已經晚了”。12月8日,日本通過馬來作戰和珍珠港攻擊,最終與英國、美國、荷蘭等盟國開戰,太平洋戰爭(大東亞戰爭)爆發。開戰當天,一位馬術部的學長來到教室,激動地說:“戰爭開始了。讓我們堅持下去”,公威也被一種難以言喻的興奮感所包圍。
1942年(昭和17年)1月31日,公威提交了從前年11月開始撰寫的評論《王朝心理文學小史》作為學習院圖書館懸賞論文(該論文於次年1月入選)。3月24日,以第二名的成績從中等科畢業,4月進入學習院高等科文科乙類(德語)。除了體操和物理是“中上”之外,公威是一名極其優秀的學生。雖然不擅長運動,但在高等科的訓練成績總是“上”(甲),教官稱讚他有鬥志,這讓公威感到自豪。
學習德語時,公威師從羅伯特·辛欽格(德語版),其他教師還有櫻井和市、新關良三、野村行一(1957年東宮大夫任內去世)。後來當唐納德·基恩在德國演講時,作為聽眾之一的辛欽格站起來說:“我是平岡君的(德語)老師。他是最棒的。”這個故事說明了公威在德語方面的才華。
在同年4月,當日本軍隊在各地取得勝利之際,公威在《文藝文化》上發表了沉靜而感動的詩《大詔》。同年5月23日,公威被選為文藝部委員長,並於7月1日與東文彦和徳川義恭(進入東京帝國大學文學部)一起創辦了同人誌《赤繪》,發表了《苧菟和瑪耶》。誌名的靈感來自志賀直哉的《萬曆赤繪》。公威與他們的友誼加深,並與病床上的東文彦進一步進行文通。同年8月26日,祖父定太郎去世(享年79歲)。公威撰寫了《挽歌一篇》。
同年11月,應學習院的請求,由清水文雄陪同會見了保田與重郎,此後多次拜訪。在保田與重郎、蓮田善明、伊東靜雄等日本浪漫派的影響下,公威在《文藝文化》同人誌上發表了詩歌、小說、隨筆,特別是對蓮田提倡的“皇國思想”、“大和心”、“雅”深受感動。在昭和17年11月號,公威發表了《物之月》和隨筆《伊勢物語的事》,蓮田在該期刊上發表了題為《神風連的心》的文章。這是對蓮田在熊本済々黌的學長森本忠所著《神風連的心》(國民評論社,1942年)的書評。公威讀過這篇文章和森本的著作,後來在1966年(昭和41年)8月訪問了神風連的地點熊本,並會見了森本忠(熊本商科大學教授)。
值得一提的是,三島之死後,村松剛從倭文重那裡聽到一個說法,即三島在中等科畢業前參加了一高的入學考試但未被錄取。然而,在三島中等科五年級時的9月25日寄給東文彦的信中有提到,他打算進入學習院高等科的文科乙類(德語),顯示三島本人當時打算進入已經形成文藝部基礎的學習院高等科。至於三島是否參加了一高的考試,由於只有母親倭文重的證言,事實關係不明,因此在全集的年表中補充說明:“有說法稱,學習院在學期間不能參加其他學校的考試。”
在GHQ佔領下的日本,不僅被打上戰犯烙印的軍人被處決(極東國際軍事裁判),在要職上的各界人士也遭到了公職追放。媒體和出版業界也實施了稱為「新聞守則」的審查制度,不允許讚美日本。戰時期屬於日本浪漫派的保田與重郎和佐藤春夫,以及他們的周邊人物中河與一和林房雄等,在戰後被左翼文學家和見風使舵的作家等批評為與戰爭合作的「戰犯文學家」。在日本浪漫派中,被認為是「自認為天才的少年」的三島,發現自己「在二十歲時,已經變得過時」,感到茫然,戰後成為了「無人正視的無力學生」,感到焦慮。
由於戰爭的混亂,《文藝世紀》的出版在戰後仍然中斷,「中世」也只發表了一部分。三島在戰爭結束前,收到了川端康成的一封信,說他正在讀「中世」和在《文藝文化》發表的作品,也聽說川端可能向別人透露了對這些作品的讚賞。
憑借這份希望和「鼓舞自己的情況」,三島帶著「中世」和新短篇「煙草」的原稿,在1946年(昭和21年)1月27日的帝大寒假期間,首次拜訪了住在鎌倉二階堂的川端。謹慎且注重禮節的三島,這次還帶上了野田宇太郎的介紹信。
三島對川端的評價是:“當戰爭結束時,他說了這樣的話:‘從今以後,我只唱日本的悲傷,日本的美麗’——這聽起來就像一支笛子的悲鳴,打動了我的心。”他對川端的《抒情歌》等作品中顯著的、不僅僅是抒情和感官的「靈與肉的統一」、「正午的神秘世界」也有深刻的共鳴。這種對精神事物的感性,在三島的《花盛林》和「中世」中也可見,與川端的作品世界有相通之處。
同年2月,三島拜訪了七丈書院合併後的筑摩書房雜誌《展望》編輯長臼井吉見,帶去了8部作品的原稿(包括《花盛林》、《中世》、《馬戲團》、《岬上的故事》、《彩繪玻璃》、《煙草》等)。臼井雖然覺得這些作品並不是自己的風格,但認為「無論如何是一種天才」,打算採用「中世」。然而,顧問中村光夫則說「絕對不行,扣掉150分(或120分)」,結果作品被拒絕。失望的三島不得不想到,「自己也只能腳踏實地學習,成為公務員了」。
另一方面,川端在2月15日閱讀了「煙草」後,將原稿展示給自己在鎌倉文庫擔任幹部的雜誌《人間》編輯長木村徳三,並決定發表。6月號發表了「煙草」,這成為了三島戰後文壇的起點,也為之後與川端的師生關係奠定了基礎。
然而,這種關係並不是像拜師學藝那樣的師徒關係,因此三島並不稱川端為「老師」,而是出於對「讓自己進入社會的唯一大恩人」「一生都不會忘記的人」的強烈情感,故意稱呼他為「川端先生」,在獻書時也總是寫上「様」。川端也親自對三島正在撰寫的第一部長篇小說(《盜賊》)的各章和「中世」進行了詳細的校對指導,幫助了還是大學生的他。
在臼井和中村拒絕了幾乎無名的學生作家三島的作品之際,擅長發掘新才能並對異質新人寬容的川端後援了三島,從而加強了川端「新人發現高手」的稱號。職業上經常接觸新人作家的木村徳三也說,第一次見面幾分鐘內,感受到「壓倒性資質」的只有加藤周一和三島兩人,三島在接受建議後,展示出令人驚嘆的才華。
然而當時,三島的家(平岡家)是借住的,經濟狀況困難。父親梓在戰前1942年(昭和17年)領導的日本瓦斯用木炭公司(10月改為日本薪炭公司)在戰爭結束後停止運作。三島一方面希望將來能以作家身份立足,另一方面為了不讓貧窮影響文學創作(避免商業化寫作),在大學裡也努力學習法律以維持生活。梓在戰爭結束當天也曾短暫地表示理解兒子成為作家的決定,但他還是希望兒子能成為大藏省的穩定公務員。
有一天,木村徳三在帝大圖書館前與三島會面,在草地上閒聊了大約一個小時後,出於好奇跟蹤回到教室的三島。木村回憶說,他窺視進入的26號教室,看到三島像個認真的優等生那樣提前佔了座位,坐在教室前方第二排的位置。木村說,這是他這個懶惰學生所無法想像的。
同年夏天,當三島首次得知蓮田善明在戰爭結束時自殺的消息時,他在11月17日與清水文雄、中河與一、栗山理一、池田勉、櫻井忠溫、阿部六郎、今田哲夫一同在成城大學素心寮舉辦「追憶蓮田善明會」,並獻上了一首詩:「欣賞古代的雪,你以自己的身體顯現古代而隱身於雲霧之中;我被遺留在現代,徒然地懷念那瀰漫的雪,而自己的身體將被埋葬於廣闊的塵土之中。」
戰後與他們保持距離的伊東靜雄缺席了,而林富士馬則批評蓮田的死是「令人生氣的」,佐藤春夫則為蓮田辯護。追憶會的第二天,三島寫信給清水,說「在黃菊芬芳的聚會中,似乎感覺到蓮田先生的靈魂也坐在我們中間,我懷念起過去《文藝文化》同人聚會被比作神聚會的時候。我希望能夠多次進行這樣的聚會,等待《文藝文化》復興的機會,您覺得如何?」寄送給清水。
戰敗前後撰寫的「岬上的故事」,在川端的建議下提交給講談社的《群像》,並在11月號順利發表。推銷時,三島穿著和服和袴。12月號的《人間》上全篇刊載了借用川端的《將軍義尚公薨逝記》進行修改的「中世」。
當時的三島與父母同住,但並未接受生活費的援助,而是以自己的原稿費維生,還給了弟弟千之零用錢,這一點在2005年發現的「會計日記」(昭和21年5月至昭和22年11月記載)中得到了證實。這份金錢支出記錄被認為是為了探索作為作家能否自立。
與川端相遇奠定了三島作為職業作家的第一步,但在三島出生之前,兩人之間已經有了命運般神秘的緣分。三島的父親梓在東京帝國大學法學部學生時,在正門前遇到同學三輪壽壯正在與一位不認識的「貧弱高中生」走路,那人就是川端。幾天後,梓被三輪邀請,說川端康成是「我們所沒有的,擁有絕妙感覺和神經的人」,建議他也去交往看看,但對文學不感興趣的梓笑著拒絕了介紹。
儘管發表了「煙草」和「中世」等作品,但並未受到評價,三島在繼續學習法律的同時,因作品被雜誌採用而獲得了一些新的文學交友。被邀請的三島決定參加當時年輕人熱烈支持的太宰治和他的理解者亀井勝一郎的聚會。三島認可太宰的「稀有才能」,但不喜歡他那種「自我劇畫化」的文學,並對其「愛憎法則」或「生理反感」感到不快。
1946年12月14日,三島穿上紺絣和服和袴,在中野站前與矢代等人下午4點約好,在帶著「恐怖分子心態隱藏短劍」的情緒下,乘巴士前往練馬區豊玉中2-19的清水家別宅參加宴會。
除了三島外,出席者全都是矢代相同的都立第五中學出身,包括中村稔(高中在學)、原田柳喜(慶應在學)、相沢諒(駒澤預科在學)、井坂隆一(早稻田高在學)、新潮社員工野原一夫、下宿於該家的出英利(早稻田高在學、出隆的次男)和高原紀一(一橋商學部)以及房東清水一男(五中在學15歲)等人。
三島被引導到太宰對面的座位,認真聆聽他偶爾高興地談論的文學話題。三島提出森鷗外的看法,太宰則以其特有的含蓄說道:「那個,你看,森鴎外這樣的小說家啊,第一,看看全集上的照片。大膽地拍攝的軍服照片,那是什麼啊……」
不喝酒的三島嚴肅地反駁「哪裡不好」,開展了鴎外論,但醉酒的太宰並未認真對待,兩人的對話並未對上。三島感到那次酒會上充滿了「絕望頌揚」的「甜膩」氣氛,將太宰視為司祭,自認為代表著時代病的馴染氛圍。在那裡,他決定明言「我不喜歡太宰先生的文學」。
對此,太宰露出受到打擊的表情,「如果不喜歡,就不應該來」,然後轉過臉去,對著誰都不清楚的說:「說這樣的話,但你還是來了,所以你肯定還是喜歡的。對吧,你肯定是喜歡的。」三島感到尷尬,離開了那裡,那成為了與太宰的唯一一次。之後,太宰在《新潮》連載了「斜陽」。
1947年(昭和22年)4月,以記紀中衣通姬傳說為題材的「輕王子與衣通姬」在《群像》上發表。三島於前年1946年(昭和21年)9月16日偶然再遇人妻永井邦子(娘家姓三谷),自那以後的11月6日接到她的來電後,便多次見面,並與友人一同前往舞廳,但心中仍然承載著〈生活的荒涼空白感〉與〈時代的痛苦〉。
同年6月27日,三島在新橋一棟被燒毀的建築中的新聞社新夕刊首次見到林房雄。7月,三島在求職時參加了住友(銀行)和日本勧業銀行的入行考試,住友未被採用,而勧銀則是筆試通過了論文和英語等,但面試未被採用。於是,三島開始考慮成為公務員,並從當月開始參加高等文官考試。
8月,在《人間》發表的「夜的準備」,採用了以法國心理小說的手法隱喻堀辰雄的《聖家族》風格,以輕井澤為背景,基於與邦子在戰時的經歷。林將其與中村真一郎的「妖婆」一同在《新夕刊》的日評中提及,稱讚「夜的準備」為「當今日本文壇所失去的珍貴之物」,並對試圖忽視它的「文壇的庸俗常識表示厭惡」。
三島對此感動,於9月13日前往新夕刊的「13日會」向林表示感謝。林雖然豪放至於醉酒後在三樓窗口小便,但認可還是學生的三島為一名成熟的作家,因此三島對他產生了好感並建立了友誼。當時的三島對堀的徒弟中村真一郎所屬的馬提內·詩意小團體的作家們(加藤周一、福永武彦、窪田啓作)有親近感,但逐漸對他們思想上的〈明顯的法國氣息〉以及不認可日本傳統的〈危險之美〉即心中的教條式人文主義,感到〈法國就是法國,日本就是日本〉的反感,因此沒有加入該同人社。
「夜的準備」在當時的文壇受到嚴厲批評,高見順和中島健蔵對其進行了不理解的聯評,稱「雖然寫得好,但他所寫的小說與他自己的生活沒有任何關係」,評論發表在《群像》11月號。對此感到憤怒,對於他們一向崇尚易懂的現實主義小說感到厭煩的三島,在正在創作的「盜賊」創作筆記中寫道〈這個低俗的日本文壇,沒有絲毫抵抗就能接受並提拔的作品,其價值是可知的〉。
接近大學畢業的11月20日,三島期盼已久的短篇集《岬上的故事》由櫻井書店出版。這本收錄了「岬上的故事」「中世」「輕王子與衣通姬」的書籍,也獻給了伊東靜雄。三島對伊東的鼓勵回信感動不已,表示〈這張明信片對我來說像是幸運的標誌,能讓我度過溫暖的日子〉,並表達了對文壇不滿。
1947年(昭和22年)11月28日,三島從東京大學法學部法律學科畢業(該年9月由東京帝國大學更名)。在畢業前通過了各種考試,12月13日通過了高等文官考試(成績為合格者167人中的第138位),並於12月24日首次進入大藏省工作,成為銀行局國民儲蓄課的大藏事務官。
當時的大藏省因庁舎被GHQ接收,所以使用被燒毀的四谷第三小學作為臨時庁舎。銀行局長為愛知揆一,主計局長為福田赳夫,基本工資(月薪)為1,350日元。大藏省同期入職者(22年後期組)包括三島在內,還有長岡實、田中啓二郎、秋吉良雄、亘理彰、後藤達太、岩瀬義郎等共26人。三島以「雖然是這樣平凡的人,但請多多指教」的方式打招呼。
12月剛從東大法學部畢業後,三島直接會見了吉田満,讀了被GHQ檢查刪除的門外不出的「戰艦大和之最後」初稿(手寫草稿),對其內容感到震驚與感動,因此在大藏省期間與吉田保持了密切關係。當時吉田問三島未來打算寫什麼作品時,三島表示想寫「美,日本的美,日本式的美」。
同月,「自殺企圖者」(長篇《盜賊》第2章)、短篇「春子」和「揚聲器」分別在各雜誌上發表。剛進入大藏省不久,因為寫作能力受到期待的三島被委託撰寫大藏大臣(栗栖赳夫)在國民儲蓄振興大會上的演講稿。三島在演講稿開頭寫道〈…在淡谷的り子小姐和笠置シズ子小姐的有趣表演前,像我這樣的禿頭老爹出來致辭,實在是無聊至極…〉,結果被科長責罵並用紅鉛筆劃掉。未來成為著名作家的三島的稿件被刪除的事件,後來成為大藏省內流傳的一個軼事。
翌1948年(昭和23年),三島在《進路》1月號的「馬戲團」開始,發表了許多短篇小說,過著像走鋼索一樣的生活,同時在官場和工作上掙扎。這段時間,他感到有必要自我分析,對於自己的〈荒蕪的虛無主義的耽美主義〉的根據進行思考。
成為公務員的兒子繼續從事文筆工作,讓擔憂兒子未來的父親梓,拜訪了鎌倉文庫的木村徳三,提出是否因為公威年輕且寫作不錯,就像寵愛初學者或半職業者一樣看待他,質疑兒子是否能成為像椎名麟三那樣的作家。木村回答說成為「明星作家」是靠運氣,但認為三島有能力成為「獨立作家」,然而梓整個過程中都顯得心情沉重。
同年6月,應《近代文學》雜誌第二次同人擴大的邀請,三島也成為同人之一。他表示若認同天皇制則可以加入。這次加入的人物包括椎名麟三、梅崎春生、武田泰淳、安部公房等。6月19日,太宰治於13日在玉川上水入水自殺,其遺體於此日被發現。太宰的遺作《人間失格》引起了巨大反響。
同年7月或8月,因雙重生活導致的過度勞累和睡眠不足,三島在一個雨天的早晨上班途中,因長靴滑倒而從澀谷站的月台跌落到軌道上。雖然在列車來臨前爬上去,但是非常危險。這次事故促使梓允許兒子成為職業作家,他說:“可以辭去公務員工作。但以後就專心做作家,前提是必須成為日本第一的作家。”
同年8月下旬,河出書房的編輯坂本一亀(坂本龍一之父)和志邨孝夫拜訪了在大藏省工作的三島,邀請他撰寫長篇小說。三島欣然接受,宣稱將“把作家生命賭在這部長篇上”。於是在9月2日,為了專注於創作,三島向大藏省提交了辭呈,並於9月22日接到“應請免職”的辭令,離職了。
同年10月6日,芦田內閣總辭職的特別新聞發布之夜,在神田的酒吧兼咖啡店“蘭波”二樓,舉行了埴谷雄高、武田泰淳、野間宏、中村真一郎、梅崎春生、椎名麟三參加的座談會(12月的同人誌《序曲》創刊號),三島也加入了。在那次會議上,初次見面的埴谷對坐在正對面的三島給予了“魅力十足”的第一印象,並回憶說在交談中可以感覺到他思考的轉動速度很快,談話生動有趣。
河出書房委託的長篇小說,三島定名為《假面的告白》,挑戰了“生平第一部自傳小說”(但不是文壇式的自傳小說),試圖“將以往對虛構人物的銳利心理分析之刀,轉向自己,進行自我生解剖”的嘗試,於11月25日開始創作。同月20日,花了兩年多時間完成的首部長篇《盜賊》由真光社出版,12月1日短篇集《夜的準備》由鎌倉文庫出版。
1949年(昭和24年)2月24日,三島作為作家的第一部戲劇作品《火宅》由俳優座首演,作為與傳統現實主義戲劇不同的新劇,受到了神西清、岸田國士等評論家的高度評價。4月24日,他在咖啡店“蘭波”將《假面的告白》後半部分的原稿交給坂本一亀。從紫色的古風包袱中取出原稿交給坂本的三島,被在店角落目睹此景的武田泰淳回憶,當時的三島臉上閃耀著“精神集中後的恍惚與滿足”。
對三島來說,《假面的告白》是一種「反向自殺」、「生命復甦術」,以及用「貝勒爾式的『既是死刑囚又是執行人』的雙重決心」進行的自我解剖。該書於同年7月5日出版,最初反響平淡,但在10月神西清高度評價後,又獲得花田清輝的極高讚賞,成為文壇的大話題。年底,它還被選為讀賣新聞昭和24年度最佳三部作之一,三島作家地位得以鞏固。
此後,他於1950年(昭和25年)1月在《婦人公論》連載愛情心理小說《純白之夜》,並於同年6月30日出版了描繪類似於「希臘神話中女性」的女主角「狂躁」的力作《愛之渴望》。同年7月,以光俱樂部事件中的山崎晃嗣為原型,連載話題作《青之時代》於《新潮》,無暇喘息地進行各地的積極取材旅行,不斷提升長篇小說的實力。
8月1日,因為搬遷,與父母、弟弟一起搬到目黑區綠丘2323號(現為綠丘一丁目17號24號)。同月,參加了岸田國士發起的「雲之會」,與小林秀雄、福田恆存等年長文學家的交流日漸擴大,後來也出現在中村光夫發起的「鉢之木會」。10月,在《人間》發表以能樂為基調的《邯鄲》,拓寬了作為劇作家的挑戰範圍。這部作品後來成為《近代能樂集》的首部作品,並於12月由前年透過矢代靜一認識的芥川比呂志導演上演。
1951年(昭和26年)1月,三島以「二十代的總結」的心情,開始連載描繪「自我內部的矛盾和對立之對話」的《禁色》(第一部),故事中有如希臘雕塑般的美青年和老作家登場,於《群像》開始連載。這部以同性戀的地下世界為主題的作品,在文壇引起了極大的爭議,並於11月10日以《禁色 第一部》之名出版。期間,三島也發表了許多短篇和中篇小說《夏子的冒險》等,並出版了首部評論集《獵物與獵人》等,展現了旺盛的活力。
但三島之前曾向川端康成表達過「一生中至少要去一次帕特農神廟」的願望,並對自己內心多餘的「感受力」感到反感,渴望擁有「具肉體存在感的智慧」,尋求更廣闊的世界。就在這時,父親梓的高中時代的老友、朝日新聞社出版局長嘉治隆一建議他出國,三島欣然接受了這個意想不到的提議。
通過了嚴格的審查(當時在GHQ占領下,一般民眾的海外旅行被禁止),三島於同年12月25日作為朝日新聞的特別通訊員,從橫濱港乘坐普雷斯頓·威爾遜號開始了為期約半年的首次世界一周旅行。在前往首站夏威夷的船上,三島在日光浴中「與太陽握手」,開始思考「自我改造」。
在從夏威夷到北美(舊金山、洛杉磯、紐約、佛羅里達、邁阿密、聖胡安)、南美(里約熱內盧、聖保羅)和歐洲(日內瓦、巴黎、倫敦、雅典、羅馬)的旅程中,特別是在他鍾愛的地方——希臘的雅典和在羅馬的梵蒂岡美術館看到的安提諾斯雕像,深深吸引了三島。
在古希臘,對於「肉體與知性的平衡」的人類意志,以及明亮的古典主義中治癒孤獨的三島,發現了「創造美麗作品與成為美麗事物的同一倫理標準」,於隔年1952年(昭和27年)5月10日返抵羽田。這次的世界旅行記錄被整理成《阿波羅之杯》,於10月7日由朝日新聞社出版。
旅行前就計劃好的《秘樂》(《禁色》第二部)連載,於三島回國後的8月開始在《文學界》連載。三島避免寫旅行後立即的「伴手禮小說」,而是在《新潮》10月號發表了以伊豆今井濱實際發生的溺水事件為題材的《盛夏之死》。
此外,在出行前完成的《卒塔婆小町》,在三島出國期間的2月由文學座首次公演。這部作品繼《邯鄲》、《綾之鼓》之後成為《近代能樂集》的第三部作品,也是三島的戲劇作品中特別成功的一部。這使得三島作為劇作家的真正實力開始被認可。
三島受到在希臘的感動啟發,構想了以古希臘愛情故事《達芙妮與克羅伊》為藍本的日本漁村故事。他請曾任職於農林省(農林水產省)的父親梓尋找島嶼模型,從候選島嶼中選擇了與《萬葉集》的歌枕和古典文學名勝地相近的三重縣的神島。
1953年(昭和28年)3月,三島從鳥羽港前往神島,採訪了八代神社、神島燈塔、島民的生活和自然、節慶神事、漁港、歷史與風俗、漁船員的工作,並在8月末到9月再度訪問,對颱風和海女等進行了採訪。神島的居民最初看到陌生的面色蒼白、消瘦的三島,誤以為他是來島上療養的人。
在創作以這個島為舞台的新作品的同時,三島還持續連載經過重新打磨的《秘樂》,並於9月30日出版了《秘樂 禁色第二部》,完成了描寫男色世界的《禁色》。12月,他首次嘗試編寫自己熟悉的歌舞伎劇本,改編芥川龍之介的原作小說,由中村歌右衛門主演的歌舞伎《地獄變》上演。
描繪伊勢灣一座小島上健康樸實的青年和少女純愛的長篇小說《潮聲》於隔年1954年(昭和29年)6月10日由新潮社出版,隨即成為暢銷書,並很快被東寶電影化,特別邀請三船敏郎出演(船長角色)。三島憑藉這部作品獲得了第一屆新潮社文學獎,這也是他首次獲得的文學獎項。
接下來,兩年後在美國,《潮聲》的英譯本(The Sound of the Waves)也出版並成為暢銷書,這部作品使得三島在國際上也為人所知。11月,三島原創的歌舞伎《鰯賣戀曳網》首演,作為一部富有餘裕感的法爾斯獲得了高評價。這部戲劇作品後來成為長期上演的受歡迎歌舞伎。
在這個時期,三島發表的其他作品包括與《潮聲》明亮世界形成對比的作品,如描繪戰後青年的頹廢與孤獨的《上鎖的房間》和《急停車》,以及三島學習院時代的自傳性小說《寫詩的少年》,以崇拜的拉迪格為題材的《拉迪格之死》,和以「菊田次郎這個作者的分身」為主角的系列作品(《火山假期》《死之島》)的終結篇《旅途的墓碑銘》。
1955年(昭和30年)1月,三島在《中央公論》開始連載以奧只見大壩和須田貝大壩為背景的《沉沒的瀑布》。同月,他還在《群像》發表了《海與夕陽》,這篇作品將少年時期對神風特攻隊的期待心理與「奇蹟降臨」的挫敗感重疊起來,但對於三島「一生貫穿的主題」、「隱藏著迫切問題」的這篇作品卻沒有引起反響或評論。三島後來表示,如果當時這個主題被理解的話,他後來的生活方式可能會有所不同。
同年9月,三島受到週刊讀賣上刊載的玉利齊(早稻田大學舉重俱樂部主將)的照片和「任何人都可以擁有這樣的身體」這句話的吸引,立即打電話給編輯部,介紹了玉利。三島對玉利胸肌能夠跳動感到驚訝,並立刻邀請玉利到家中進行一週三次的健身訓練。當時電影《哥吉拉之逆襲》上映,三島將自己比喻為「哥吉拉的蛋」。
同年11月,三島前往京都進行取材,以1950年發生的金閣寺縱火事件為題材開始撰寫下一部作品。從《假面的告白》開始採用的森鷗外式的硬質文風得到進一步鍛煉,不僅「肉體改造」,也對文風進行「自我改造」。利用這種煉就的文風完成的《金閣寺》,於1956年(昭和31年)1月開始在《新潮》連載。
同月,三島遇到了後樂園健身房的健美教練鈴木智雄(前海軍體操教官),成為其門下弟子,並於3月左右開始前往鈴木在自由之丘開設的健身房。三島在自由之丘認識的居民邀請,8月首次參與熊野神社的夏祭,體驗到了初次負重神轎的陶醉感。
原本瘦弱的三島通過不懈的訓練,逐漸發展成為後來人們所熟知的健壯體格,胃病也得以治愈。最初僅能舉起10公斤的臥推,約2年後轉至有樂町的産經健美俱樂部時,已能舉起60公斤,胸圍也超過了1米,終生持續進行健美訓練。
從1月開始的連載結束後,10月《金閣寺》由新潮社出版。這部作品被許多評論家高度評價,成為象徵三島文學的代表作,並獲得第8屆讀賣文學獎。即使之前對三島持懷疑態度的評論家也給予認可,三島成為文壇的寵兒。同年加入了「日本飛碟研究會」,7月底在熱海的酒店逗留期間嘗試觀測飛碟。
9月,通過鈴木智雄的介紹,得到日大拳擊部的幫助,在小島智雄監督下開始練習拳擊。翌年1957年(昭和32年)5月,曾與石原慎太郎進行對談的三島,在小島智雄作為陪練對手時,被石原慎太郎拍攝了8毫米影片。
看過這段影片的三島記錄道,〈看了石原慎太郎拍的8毫米電影,驚訝地發現主觀與客觀之間有多麼不同,現在處於完全失去自信的狀態〉,此後拳擊活動主要轉為觀賞,並在體育報紙上發表了許多觀戰記。
這一時期的三島除了《金閣寺》外,還發表了《永遠的春天》和《美德的搖擺》等暢銷作品,這些作品的標題成為了流行語。關於川端康成的評論《永遠的旅人》也受到好評,戲劇作品《白蟻巢》獲得第2屆岸田國士戲劇獎,《鹿鳴館》等人氣戲劇作品也相繼發表,戲劇作品集《近代能樂集》(收錄了《邯鄲》《綾之鼓》《卒塔婆小町》《葵之上》《班女》)也於此期間出版。
1.
"何のために生きてゐるかわからないから生きてゐられるんだわ。"
我之所以能活著,是因為我不知道自己為何而活。
2.
"ほしいものが手に入らないといふ最大の理由は、それを手に入れたいと望んだからだ。"
你得不到你想要的東西的最大原因是因為你想得到它。
3.
"「強み」とは何か。知恵に流されぬことである。分別に溺れないことである。"
什麼是「實力」?不要被智慧所左右。不要迷失在你的感官中。
4.
"崇高なものが現代では無力で、滑稽なものにだけ野蛮な力がある。"
崇高在現代是無力的,只有荒唐才有野蠻的力量。
5.
"好奇心には道徳がないのである。もしかするとそれは人間のもちうるもっとも不徳な欲望かもしれない。"
好奇心沒有道德。也許這就是人類最不道德的慾望。
6.
"あらゆる種類の仮面のなかで、「素顔」といふ仮面を僕はいちばん信用いたしません。"
在所有的面具中,我最不相信那種叫做「真面目」的面具。
7.
"精神を凌駕することのできるのは習慣という怪物だけなのだ。"
只有習慣的怪物才能超越頭腦。
8.
"決定されているが故に僕らの可能性は無限であり、止められているが故に僕らの飛翔は永遠である。"
我們的可能性是無限的,因為我們有決心;我們的飛行是永恆的,因為我們被阻止。
9.
"やたらと人に弱味をさらけ出す人間のことを、私は躊躇なく「無礼者」と呼びます。"
我會毫不猶豫地稱那些向別人暴露自己弱點的人為「粗魯的人」。
10.
"男の虚栄心は、虚栄心がないやうに見せかけることである。"
男人的虛榮心就是假裝自己沒有虛榮心。
11.
"空虚な目標であれ、目標をめざして努力する過程にしか人間の幸福が存在しない。"
人類的幸福只存在於為某個目標而奮鬥的過程中,即使它是一個空洞的目標。
12.
"この世には最高の瞬間といふものがある。この世における精神と自然との和解、精神と自然との交合の瞬間だ。"
這個世界上有一些最美好的時刻。這是這個世界精神與自然和解的時刻,也是精神與自然交流的時刻。
13.
"天才というものは源泉の感情だ。そこまで堀り当てた人が天才だ。"
天才是一種來自源頭的情感。能想到這一步的人真是天才。
14.
"人間はあやまちを犯してはじめて真理を知る。"
人類只有在犯錯之後才能了解真相。
15.
"軽蔑とは、女の男に対する永遠の批評である。"
蔑視是女人對男人永恆的批評。
16.
"三千人と恋愛をした人が、一人と恋愛をした人に比べて、より多くについて知っているとはいえないのが、人生の面白味です。"
生活的有趣之處在於,一個愛過三千人的人並不比一個只愛過一個人的人懂得更多。
17.
"人間に忘却と、それに伴う過去の美化がなかったら、人間はどうして生に耐えることができるだろう。"
人類如果不忘記過去、不榮耀過去,又怎能忍受生活呢?
18.
"生まれて来て何を最初に教わるって、それは「諦める」ことよ。"
出生時,最初學會的事情是,放手。
19.
"何か、極く小さな、どんなありきたりな希望でもよい。それがなくては、人は明日のはうへ生き延びることができない。"
它可能是某種東西,甚至是一個非常小的、普通的希望。沒有它,人類就無法生存到明天的爬行。
20.
"この世のもっとも純粋な喜びは、他人の喜びをみることだ。"
這個世界上最純粹的快樂就是看到別人的快樂。
21.
"幸福つて、何も感じないことなのよ。幸福つて、もつと鈍感なものよ。幸福な人は、自分以外のことなんか夢にも考へないで生きてゆくんですよ。"
幸福就是沒有任何感覺。幸福是一種麻木不仁的東西。幸福的人過著自己的生活,除了自己之外,甚至不去想任何事。
22.
"未来を信じないといふことは今日に生きることですが、刹那主義の今日に生きるのではないのであつて、今日の私、現在の私、今日の貴方、現在の貴方といふものには、背後に過去の無限の蓄積がある。そして、長い文化と歴史と伝統が自分のところで止まつてゐるのであるから、自分が滅びる時は全て滅びる。つまり、自分が支へてきた文化も伝統も歴史もみんな滅びるけれども、しかし老いてゆくのではないのです。(中略)
われわれは自分が遠い遠い祖先から受け継いできた文化の集積の最後の成果であり、これこそ自分であるといふ気持で以つて、全身に自分の歴史と伝統が籠つてゐるといふ気持を持たなければ、今日の仕事に完全な成熟といふものを信じられないのではなからうか。或ひは、自分一個の現実性も信じられないのではなからうか。自分は過程ではないのだ。道具ではないのだ。"
— 三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」
不相信未來意味著活在今天,但不活在瞬間的今天就有無限的累積。由於悠久的文化、歷史和傳統在我們體內停止了,當我們滅亡時,一切都會滅亡。換句話說,我們所支撐的文化、傳統、歷史都會消亡,但我們不會變老。 (略)
我們是遠古祖先傳承下來的文化累積的最終結果,我們感覺這就是我們,我們的歷史和傳統蘊含在我們的整個身體裡。或者也許是因為我甚至無法相信自己的現實。我不是一個過程。它不是一個工具。
23.
"本日ただ今の、これは禅にも通じますが、現在の一瞬間に全力表現を尽すことのできる民族が、その国民精神が結果的には、本当に立派な未来を築いてゆくのだと思ひます。しかし、その未来は何も自分の一瞬には関係ないのである。これは、日本国民全体がそれぞれの自分の文化と伝統と歴史の自信を持つて今日を築きゆくところに、生命を賭けてゆくところにあるのです。特攻隊の遺書にありますやうに、私が“後世を信ずる”といふのは“未来を信ずる”といふことではないと思ふのです。ですから、“未来を信じない”といふことは、“後世を信じない”といふこととは違ふのであります。私は未来は信じないけれども後世は信ずる。"
— 三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」
今天,現在,這類似於禪宗,但我相信,一個能夠在當下充分錶達自己的民族,最終會基於其民族精神建立一個真正令人欽佩的未來。然而,那個未來與我現在無關。這意味著整個日本人民正在冒著生命危險,對自己的文化、傳統和歷史充滿信心,建造今天。正如特攻隊遺囑中所說,當我說「我相信後代」時,我並不認為我「相信未來」。因此,說「我不相信未來」與說「我不相信後代」是不同的。我不相信未來,但我相信後代。
24.
"人間の生命というのは不思議なもので、自分のためだけに生きて、自分のためだけに死ぬというほど人間は強くないんです。というのは、人間はなにか理想なり、なにかのためということを考えているので、生きるのも自分のためだけに生きることにはすぐに飽きてしまう。すると死ぬのも何かのためということが必ず出てくる。それが昔いわれた大義というものです。
そして大義のために死ぬということが人間の最も華々しい、あるいは英雄的な、あるいは立派な死に方だと考えられた。しかし、今は大義がない。これは民主主義の政治形態というものは大義なんてものがいらない政治形態ですから当然なんですが、それでも心の中に自分を超える価値が認められなければ、生きていることすら無意味になるというような心理状態がないわけではない。"
— 三島由紀夫「NHKテレビのインタビュー『宗教の時間』、1966年」
人的生命是一件奇怪的事情,人類還沒有強大到只為自己而生、為自己而死。這是因為人類思考某種理想、某種目的,所以很快就厭倦了只為自己而活。然後你總會發現你正在為某件事而死。這就是所謂的善行。
為某種事業而死被認為是一個人最壯觀、最英勇或最光榮的死亡方式。但現在卻沒有任何原因。這是很自然的,因為民主政治是一種不需要事業的政治形式,但即便如此,如果你內心沒有意識到超越你自己的價值,那麼你的生命也不是沒有意義的。