"太宰 治(だざい おさむ、1909年〈明治42年〉6月19日 - 1948年〈昭和23年〉6月13日)は、日本の小説家。本名は津島 修治(つしま しゅうじ)。左翼活動での挫折後は、自殺未遂や薬物中毒を繰り返しながらも、第二次世界大戦前から戦後にかけて作品を次々に発表。主な作品に『走れメロス』『津軽』『人間失格』がある。没落した華族の女を主人公にした『斜陽』はベストセラーとなる。戦後はその作風から、坂口安吾、織田作之助、石川淳、檀一雄らとともに新戯作派、無頼派と称されたが、典型的な自己破滅型の私小説作家であった。
青森県北津軽郡金木村(後の金木町、現在の五所川原市)に、県下有数の大地主である父津島源右衛門と母たね(夕子)の六男として生まれた。両親にいる11人の子女のうちの10番目。父・源右衛門は木造村の豪農松木家からの婿養子で県会議員、衆議院議員、多額納税による貴族院議員などを務めた地元の名士で、津島家は「金木の殿様」とも呼ばれていた。父は仕事で多忙な日々を送り、母は病弱だったため、生まれてすぐ乳母に育てられた。その乳母が1年足らずで辞めた後は叔母のキエ(たねの妹)が、3歳から小学校入学までは14歳の女中・近村たけが子守りを務めた。1916年(大正5年)、金木第一尋常小学校に入学。津島家の子弟は実際の成績に関係なく、学業は全て「甲」をつけられていたが、太宰は実際の成績も良く、開校以来の秀才と言われていたという。小学校卒業後、明治高等小学校に1年間通った。これは次兄の英治と三兄の圭治が成績不振で弘前中学校を2年で中退していたため、落ちこぼれぬよう学力補充のための通学だったとされている。
1923年(大正12年)、3月4日、父源右衛門が肺癌で死去。4月、青森県立青森中学校に入学、実家を離れて下宿生活を送る。成績優秀で1年の2学期から卒業まで級長を務め、4年修了(四修)時の成績は148名中4番目であった。芥川龍之介、志賀直哉、室生犀星、菊池寛などを愛読、井伏鱒二の『幽閉(山椒魚)』には読んで座っていられないほど興奮した。在学中の17歳頃に『校友会誌』に習作「最後の太閤」を書き、また友人と同人誌『蜃気楼』を12号まで発行。小説家を志望するようになる。しかしこの時期から怠け癖が見え始め、太宰の長兄である津島文治が、太宰の中学時代の教科書を見たところ、教師や兄弟の似顔絵がぎっしり描かれていたという。
1927年(昭和2年)旧制弘前高等学校文科甲類に優秀な成績で入学。当時の弘高は全寮制で1年次は自宅通学以外は寮に入らなければならなかったが、太宰は母の考えもあって、病弱と偽り津島家の親戚筋にあたる藤田家(現・太宰治まなびの家)で下宿生活をしていた[9]。夏休みで金木に帰省中の7月24日、芥川龍之介の自殺を知り衝撃を受け、弘前の下宿に戻るとしばらく閉じこもっていたという。
1928年(昭和3年)、同人誌『細胞文芸』を発行すると辻島衆二名義で当時流行のプロレタリア文学の影響を受けた『無限奈落』を発表するが、連載は1回で終了。津島家の反対を受けたと推測されている。この同人誌の製作にのめり込む反面、授業には殆ど出席せず、成績の悪化により、担当教師からは「正直さに欠ける」「外面上は正直に見える」という評価を受けた。またこの頃、芸者の小山初代(1912-1944年)と知り合う。1929年(昭和4年)、弘高で起きた同盟休校事件をモデルに『学生群』を執筆、改造社の懸賞小説に応募するが落選。12月10日深夜にカルモチン自殺を図り、母たねの付き添いで大鰐温泉で1月7日まで静養した。太宰は自殺未遂の理由を『苦悩の年鑑』の中で「私は賤民ではなかった。ギロチンにかかる役のほうであった」と自分の身分と思想の違いとして書いているが、1月16日から特高によって弘高の左翼学生が相次いで逮捕される事件が起きており、津島家から事前に情報を得た太宰が逮捕を逃れるために自殺未遂をしたのではという見方もある。
1930年(昭和5年)、弘前高等学校文科甲類を76名中46番の成績で卒業。フランス語を知らぬままフランス文学に憧れて東京帝国大学文学部仏文学科に入学、上京。当時、東大英文科や国文科などには入試があったが、仏文科は不人気で無試験であった。太宰はそれを当て込んで仏文科に出願したが、たまたま1930年には仏文科でもフランス語の入試があった。目算が外れた太宰は他の志願者とともに試験場で手を挙げ、試験官の辰野隆に事情を話し、格別の配慮で入学を認められた。しかし友人の大高勝次郎などには、仏文科への志望を「肩書のカッコ良さ」や「高名な研究者の辰野隆がいるから」など、もっともらしい理由をつけて虚勢を張っていたという。
講義についていけず、美学科、美術史科への転科を検討している。小説家になるために井伏鱒二に弟子入りする。10月、小山初代が太宰の手引きで置屋を出て上京。津島家は芸者との結婚に強く反対。11月に長兄の文治が上京して説得するが、太宰は初代と結婚すると主張。文治は津島家との分家除籍を条件に結婚を認める。大学を卒業するまで毎月120円の仕送りも約束するが、財産分与を期待していた太宰は落胆する。除籍になった10日後の11月28日、銀座のバー「ホリウッド」の女給で18歳の田部シメ子と鎌倉・腰越の海にてカルモチンで自殺を図る。だがシメ子だけ死亡し、太宰は生き残る。この事件について太宰は『東京八景』『人間失格』などで入水自殺と書いているが、当時の新聞記事では催眠剤を飲み海岸で倒れているところを発見されたと報道されている。自殺幇助罪に問われるが、文治らの働きかけで起訴猶予処分となる。南津軽郡の碇ヶ関温泉郷の柴田旅館で、初代と仮祝言をあげるが、入籍はしなかった。年明け、太宰は文治と覚書を交わし、問題行動を起こさず、大学卒業を約束する代わりに毎月120円の仕送りを受けることになった。2月、初代が上京し、新婚生活が始まる。
1932年(昭和7年)、小説家になる決意で『思ひ出』『魚服記』を執筆。文治の助力で左翼活動から離脱(「#左翼活動」参照)。仕送りは120円から90円に減額された。
1933年(昭和8年)、『サンデー東奥』(2月19日発行)に『列車』を太宰治の筆名で発表。同人誌『海豹』に参加、創刊号に『魚服記』を掲載。檀一雄と知り合う。同人誌『青い花』を創刊、『ロマネスク』を発表するが、中原中也らと争い1号で休刊となった。
1935年(昭和10年)、『逆行』を『文藝』2月号に発表。大学5年目になっていた太宰は、卒業できず仕送りを打ち切られることを考え、都新聞社(現・東京新聞)の入社試験を受けるが不合格。3月18日、鎌倉で首吊り自殺を図る。4月、腹膜炎の手術を受ける。入院中に鎮痛剤パビナールの注射を受け、以後依存症となる。学費未納のため9月30日付で大学を除籍となった。
同人雑誌『日本浪曼派』に発表した『道化の華』が佐藤春夫の目に留まり、「及第点をつけ申し候」とのハガキをもらう。 第1回芥川賞が開催され、『逆行』が候補となるが落選(このとき受賞したのは石川達三『蒼氓』)。芥川賞選考委員であった佐藤は選評で「『逆行』は太宰君の今までの諸作のうちではむしろ失敗作」と厳しく、同じく選考委員である川端康成からは「作者、目下の生活に厭な雲あり」と私生活を評される。太宰は川端に「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」と文芸雑誌『文藝通信』10月号で反撃した。太宰は精神的に落ち込み、知人の作家である今官一へ向けて、不安を掻き立てる内容の手紙を送り、慌てて返信した今の反応を楽しむような内容の手紙を送り返すという奇行に走っている。
1936年(昭和11年)、第2回芥川賞選考を前に、太宰は師事する佐藤宛てに「佐藤さん一人がたのみでございます」と受賞を乞う手紙を出すが、井伏鱒二と山岸外史から太宰のパビナール依存を聞いていた佐藤は、太宰を呼び出し入院治療を厳命。済生会芝病院に10日間入院した。第2回芥川賞の結果は「受賞該当者なし」で太宰は候補作になかった。この頃の太宰は、後述の鎮痛剤の中毒に悩まされ、友人知人問わずに死を仄めかすなど、精神的に不安定だったが、度重なる言動に激怒した雑誌記者から「死ねないくせに、脅迫、強請りだ」と罵られることもあったという。
第3回に向け、太宰は『文學界』に『虚構の春』を発表。6月21日、処女短編集『晩年』を砂子屋書房より刊行。7月11日、上野精養軒で佐藤や井伏を招いて出版記念会を行う。さらに第1回の選考をめぐり「悪党」呼ばわりした川端康成に対し献本と選考懇願の手紙を送っているが、第3回では過去に候補作となった小説家は選考対象から外すという規定が設けられ、候補にすらならなかった。
パビナール依存がひどくなり、多い時には1日50本を注射。初代の着物を質に入れ、知人に借金をして歩いた。初代が井伏鱒二に泣きつき、文治に頼まれた津島家出入りの商人の中畑慶吉と北芳四郎が、10月13日に東京武蔵野病院に強制入院させる[41]。11月12日に退院するが、翌1937年(昭和12年)、津島家の親類の画学生小館善四郎が初代との不貞行為を告白。3月下旬、水上温泉で初代とカルモチン自殺未遂。6月には初代と離別した。
1938年(昭和13年)、井伏鱒二の紹介で山梨県甲府市出身の地質学者・石原初太郎の四女の石原美知子と見合い。このとき、太宰は媒酌人を渋る井伏に対して「結婚誓約書」という文書を提出した。その中でこれまでの乱れた生活を反省、家庭を守る決意をして「再び破婚を繰り返した時には私を完全の狂人として棄てて下さい」と書いている。翌年1月8日、井伏の自宅で結婚式を挙げる。同日、甲府市街の北に位置する甲府市御崎町(現・甲府市朝日五丁目)に移り住む。9月1日、東京府北多摩郡三鷹村下連雀に転居。精神的にも安定し、『女生徒』『富嶽百景』『駆込み訴え』『走れメロス』などの優れた短編を発表した。『女生徒』は川端康成が「『女生徒』のような作品に出会えることは、時評家の偶然の幸運」と激賞、原稿の依頼が急増した。
1941年(昭和16年)、文士徴用令に呼ばれるが、身体検査で肺浸潤とされて徴用免除される。太田静子に会い、日記を書くことを勧める。太平洋戦争中も『津軽』『お伽草紙』や長編小説『新ハムレット』『右大臣実朝』など旺盛な創作活動を継続。戦前から戦中にかけては甲府の湯村温泉(現・信玄の湯 湯村温泉)に度々逗留し、同温泉の「旅館明治」を定宿としていたほか、銭湯の「喜久乃湯温泉」にも通っていた。
1945年(昭和20年)3月10日、東京大空襲に遭い、甲府にある美知子の実家に疎開。7月6日から7日にかけての甲府空襲で石原家は全焼。津軽の津島家へ疎開。終戦を迎えた。
1945年10月から翌1946年1月まで『河北新報』に『パンドラの匣』を連載。これは『雲雀の声』として書き下ろしたものの印刷所が空襲に遭い、燃えてしまった原稿のゲラを手直ししたものである。1946年(昭和21年)11月14日、東京に戻る。チェーホフの『桜の園』のような没落貴族の小説を構想、1947年(昭和22年)2月、神奈川県下曾我で太田静子と再会、日記を借りる。3月27日、美容師の山崎富栄と知り合う。
没落華族を描いた長編小説『斜陽』を『新潮』に連載。12月15日、単行本として出版されるとベストセラーになり、「斜陽族」が流行語となるなど流行作家となる。『斜陽』の完成と前後して、登場人物のモデルとなった歌人太田静子との間に娘の太田治子が生まれ、太宰は認知した。
10月頃、新潮社の野原一夫は太宰が愛人の山崎富栄の部屋で大量に喀血しているのを目撃しているが、富栄は慣れた様子で手当てをしていたという。1948年(昭和23年)、『人間失格』『桜桃』などを書きあげる。富栄は手際が良く、「スタコラさっちゃん」と呼ばれ、太宰の愛人兼秘書のような存在になっていた。美容師を辞め、20万円ほどあった貯金も太宰の遊興費に使い果たした。部屋に青酸カリを隠していると脅し、6月7日以降、太宰は富栄の部屋に軟禁状態になった。心配した筑摩書房社長の古田晁が井伏鱒二に相談し、御坂峠の天下茶屋で静養させる計画を立てる。6月12日、太宰は古田が週末の下宿先にしていた埼玉県大宮市の宇治病院を訪ねるが、古田は静養の準備のため信州(長野県)に出張中だった。
1948年(昭和23年)6月13日、玉川上水で山崎富栄と入水した。満38歳没。2人の遺体は6日後の6月19日、奇しくも太宰の39回目の誕生日に発見され、この日は彼が死の直前に書いた短編「桜桃」にちなみ、太宰と同郷で生前交流のあった今官一により「桜桃忌」と名付けられた。
この事件は当時から様々な憶測を生み、富栄による無理心中説、狂言心中失敗説などが唱えられていた。津島家に出入りしていた呉服商の中畑慶吉は三鷹警察署の刑事に入水の現場を案内され、下駄を思い切り突っ張った跡があったこと、手をついて滑り落ちるのを止めようとした跡も歴然と残っていたと述べ、「一週間もたち、雨も降っているというのに歴然とした痕跡が残っているのですから、よほど強く"イヤイヤ"をしたのではないでしょうか」「太宰は『死にましょう』といわれて、簡単に『よかろう』と承諾したけれども、死の直前において突然、生への執着が胸を横切ったのではないでしょうか」と推測している。
中畑は三鷹警察署の署長から意見を求められ「私には純然たる自殺とは思えぬ」と確信をもって答えた。すると署長も「自殺、つまり心中ということを発表してしまった現在、いまさらとやかく言っても仕方がないが、実は警察としても(自殺とするには)腑に落ちぬ点もあるのです」と発言した。
『朝日新聞』と『朝日評論』に掲載したユーモア小説「グッド・バイ」が未完の遺作となった。奇しくもこの作品の13話が絶筆になったのは、キリスト教のジンクス(13 (忌み数))を暗示した太宰の最後の洒落だったとする説(檀一雄)もある。自身の体調不良や、一人息子がダウン症で知能に障害があったことを苦にしていたのが自殺の一つの理由だったとする説もあった。
しかし、50回忌を目前に控えた1998年(平成10年)5月23日に遺族らが公開した太宰の9枚からなる遺書では、美知子宛に「誰よりも愛してゐました」とし、続けて「小説を書くのがいやになつたから死ぬのです」と自殺の動機を説明。遺書はワラ半紙に毛筆で清書され、署名もあり、これまでの遺書は下書き原稿であったことが判った。"
太宰治(だざいおさむ,1909年〈明治42年〉6月19日 - 1948年〈昭和23年〉6月13日)是日本的小說家。本名是津島修治(つしましゅうじ)。在左翼活動失敗後,他一邊重複自殺未遂和毒癮,一邊在第二次世界大戰前到戰後陸續發表作品。主要作品有《奔跑吧,梅洛斯》、《津輕》、《人間失格》等。以沒落貴族女性為主角的《斜陽》成為暢銷書。戰後,因其作風,與坂口安吾、織田作之助、石川淳、檀一雄等人一起被稱為新戲作派、無賴派,但他是典型的自我毀滅型私小說家。
他出生於青森縣北津輕郡金木村(後來的金木町,現在的五所川原市),父親津島源右衛門是當地有名的大地主,也是木造村豪農松木家的婿養子,曾擔任縣會議員、眾議院議員、因大量納稅而成為貴族院議員等,津島家被稱為「金木的殿下」。父親因工作忙碌,母親體弱多病,他出生後不久就由乳母撫養。乳母不到一年就離職,之後由叔母キエ(母親的妹妹)和14歲的女僕近村たけ照顧至小學入學。1916年(大正5年),進入金木第一尋常小學校,儘管津島家的子女不論實際成績如何,學業都被給予「甲」等,但太宰的實際成績也很好,被稱為開校以來的秀才。小學畢業後,進入明治高等小學校學習一年,這是因為他的第二和第三個哥哥在弘前中學學習成績不佳而中途退學,為了不讓他落後,特別補充學習。
1923年(大正12年)3月4日,父親源右衛門因肺癌去世。4月,進入青森縣立青森中學,開始了離家下宿的生活。他學業成績優秀,從一年級的第二學期到畢業都擔任班長,四年級時的成績在148名學生中排名第四。他酷愛閱讀芥川龍之介、志賀直哉、室生犀星、菊池寬等的作品,對井伏鱒二的《幽閉(山椒魚)》讀後激動不已。在學期間,17歲時在《校友會誌》上發表習作《最後的太閤》,並與朋友共同發行同人誌《蜃氣樓》至第12號。從這時起,他開始渴望成為小說家。但在這段期間,他開始顯露出懶惰的習慣,太宰的長兄津島文治查看了太宰的中學教科書,發現裡面滿是畫有老師和兄弟的漫畫。
1927年(昭和2年),以優異的成績進入舊制弘前高等學校文科甲類。當時的弘高實行全寮制,一年級學生除非是自宅通學,否則必須入住寮宿,但太宰因母親的考慮,假裝生病住在津島家的親戚藤田家(現為太宰治學習之家)。1928年夏天回金木家中度假時,得知芥川龍之介自殺的消息後受到巨大衝擊,回到弘前的下宿後一度閉門不出。1928年(昭和3年),發行同人誌《細胞文藝》,以辻島衆二的名義發表受當時流行的無產階級文學影響的《無限奈落》,但連載僅一回就結束,推測是受到津島家的反對。在這個同人誌的製作中投入極大,但幾乎不出席課堂,導致成績惡化,被教師評價為「缺乏誠實」、「表面上看似誠實」。同時期,他還結識了藝妓小山初代(1912-1944年)。1929年(昭和4年),以弘高發生的同盟休校事件為模型撰寫《學生群》,投稿給改造社的懸賞小說但未中選。12月10日深夜,他嘗試以卡爾莫汀自殺,隨後在母親的陪同下在大鰐溫泉靜養至1月7日。太宰在《苦悩的年鑑》中提到自殺未遂的原因是「我不是賤民。我是應該上斷頭台的那一方」,表達了自己身份與思想的矛盾。1月16日起,特高警察相繼逮捕弘高的左翼學生,有觀點認為太宰可能是提前從津島家得知消息,以自殺未遂逃避逮捕。
1930年(昭和5年),太宰治以76名中第46名的成績畢業於弘前高等學校文科甲類。他因為嚮往法國文學而不顧自己不懂法語,進入了東京帝國大學文學部法文學科,並且遷至東京。當時,東大的英文科和國文科等科系都設有入學考試,但法文科因為不受歡迎而無需考試。太宰正是抱著這樣的心態申請了法文科,但偏偏在1930年,法文科也首次設有法語入學考試。太宰的估計落空,他與其他考生一樣在考場舉手,向考官辰野隆陳述情況後,獲得特別照顧而被允許入學。然而,他對朋友大高勝次郎等人誇耀自己選擇法文科的原因,是因為「聽起來很有頭銜的樣子」或是「因為有著名學者辰野隆在那裡」等看似合理的理由。
太宰跟不上講義,考慮轉到美學科或美術史科。為了成為小說家,他成為了井伏鱒二的門徒。10月,小山初代在太宰的引導下離開置屋並移居東京。津島家強烈反對與藝妓結婚。11月,長兄文治來東京勸說,但太宰堅持要與初代結婚。文治以分家除籍為條件,同意了他們的婚事。承諾在太宰大學畢業前每月提供120日元的生活費,但太宰因期望獲得財產分配而感到失望。除籍後的第10天,即11月28日,太宰與18歲的女侍田部シメ子在銀座酒吧「ホリウッド」相遇,後來在鎌倉腰越的海邊試圖用卡爾莫汀自殺。然而,僅有シメ子死亡,太宰存活下來。關於這次事件,太宰在《東京八景》和《人間失格》等作品中寫到是跳海自殺,但當時的報紙報導指出他們是喝了催眠藥在海邊倒下被發現。太宰因自殺幫助罪被起訴,但在文治等人的運作下,最終被緩起訴處理。在南津輕郡的碇ヶ関溫泉郷柴田旅館,太宰和初代舉行了仮祝言,但沒有正式登記結婚。新年伊始,太宰與文治簽訂了一份協議,約定不再出現問題行為,並保證畢業大學,作為交換每月繼續獲得120日元的生活費。2月,初代來到東京,他們開始了新婚生活。
1932年(昭和7年),太宰決心成為小說家,撰寫了《思い出》和《魚服記》。在文治的幫助下,退出了左翼活動(參見「#左翼活動」)。生活費從120日元減至90日元。
1933年(昭和8年),在《サンデー東奥》(2月19日發行)上以太宰治筆名發表了《列車》。參與同人誌《海豹》的創刊,並在首期刊登了《魚服記》。結識了檀一雄。創立同人誌《青い花》,發表了《ロマネスク》,但因與中原中也等人爭執,僅出版一期便休刊。
1935年(昭和10年),在《文藝》2月號上發表了《逆行》。太宰已是大學第五年,考慮到可能無法畢業且生活費將被切斷,他參加了都新聞社(現東京新聞)的入社考試,但未被錄取。3月18日,在鎌倉嘗試上吊自殺。4月,接受了腹膜炎手術。在住院期間,他接受了鎮痛劑帕比納爾的注射,從此成癮。因學費未繳,於9月30日被大學除名。
在同人雜誌《日本浪曼派》上發表的《道化の花》被佐藤春夫看到,並收到了他的明信片,上面寫著「及第點をつけ申し候」。第1屆芥川獎開辦,太宰的《逆行》成為了候選作品,但落選(當時獲獎的是石川達三的《蒼氓》)。芥川獎評審委員佐藤在選評中對《逆行》評價嚴厲,認為是太宰迄今為止作品中相對失敗的一部,同為評審的川端康成則評價太宰「目下生活中有令人不快的陰霾」。太宰在文藝雜誌《文藝通信》10月號上回應川端,質疑「養小鳥、看舞蹈就這麼高尚嗎」。太宰情緒低落,向朋友作家今官一發送了令人不安的信件,享受著急忙回信的今官的反應。
1936年(昭和11年),在第2屆芥川獎評選前,太宰向師傅佐藤發送了一封信,希望能獲得唯一的支持。但佐藤在聽說太宰帕比納爾成癮的消息後,要求他進行住院治療。太宰在済生会芝病院住院10天。第2屆芥川獎結果為「無合適獲獎者」,太宰的作品未能成為候選。當時的太宰因鎮痛劑成癮而痛苦,對朋友和熟人不斷暗示死亡,精神上非常不穩定。因為他屢次的言行,有雜誌記者憤怒地斥責他「不會死,只會威脅、勒索」。
為了第3屆芥川獎,太宰在《文學界》上發表了《虚構的春》。6月21日,他的處女短篇集《晩年》由砂子屋書房出版。7月11日,在上野精養軒邀請佐藤和井伏舉行了出版紀念會。他還向曾在第1屆選考中稱他為「壞蛋」的川端康成送上了獻書和懇求選考的信,但在第3屆芥川獎中,過去曾是候選作品的小說家被排除在選考範圍之外,太宰甚至未能成為候選。
帕比納爾依賴變得嚴重,最多時一天注射50針。太宰將初代的和服典當,向熟人借錢度日。初代向井伏鱒二求助,被文治請求的津島家往來的商人中畑慶吉和北芳四郎,在10月13日將太宰強制送入東京武藏野醫院。11月12日出院,但到了1937年(昭和12年),津島家的親戚畫學生小館善四郎坦白與初代有不倫行為。3月下旬,在水上溫泉與初代嘗試卡爾莫汀自殺未遂。6月與初代分離。
1938年(昭和13年),經井伏鱒二介紹,與山梨縣甲府市出身的地質學家石原初太郎的四女兒石原美知子相親。這時,太宰對於不情願做媒人的井伏提交了一份名為「結婚誓約書」的文件。其中他反省自己過去混亂的生活,決心保護家庭,並寫道「如果我再次破壞婚姻,請將我當作完全的瘋子棄置」。次年1月8日,在井伏的家中舉行婚禮。同日,搬到位於甲府市街北側的甲府市御崎町(現甲府市朝日五丁目)。9月1日,搬到東京府北多摩郡三鷹村下連雀。精神狀態也變得穩定,發表了優秀的短篇作品《女生徒》、《富嶽百景》、《駆込み訴え》、《走れメロス》等。《女生徒》被川端康成高度讚賞,稱遇到像《女生徒》這樣的作品是時評家偶然的幸運,原稿的請求也急劇增加。
1941年(昭和16年),雖然被召集入伍,但因肺浸潤在體檢中被免役。遇到太田靜子,被勸說寫日記。即使在太平洋戰爭期間也持續創作,《津輕》、《お伽草紙》以及長篇小說《新ハムレット》、《右大臣実朝》等作品不斷。從戰前到戰中,他多次逗留在甲府的湯村溫泉(現信玄之湯 湯村溫泉),以該溫泉的「旅館明治」為常駐之地,也常去「喜久乃湯温泉」的公共浴場。
1945年(昭和20年)3月10日,遇到東京大空襲,疏散到甲府美知子的家中。7月6日到7日的甲府空襲中,石原家被燒毀。疏散到津輕的津島家。迎來了戰爭結束。
1945年10月到次年1946年1月,《河北新報》連載《パンドラの匣》。這是將因空襲燒毀的原稿《雲雀の声》修訂後的作品。1946年(昭和21年)11月14日,回到東京。構思了一部像契訶夫的《櫻花園》那樣描寫沒落貴族的小說,1947年(昭和22年)2月,在神奈川縣下曾我再次遇到太田靜子,借閱了她的日記。3月27日,認識了美容師山崎富榮。
長篇小說《斜陽》在《新潮》上連載,12月15日作為單行本出版後成為暢銷書,「斜陽族」成為流行語,太宰成為了流行作家。在《斜陽》完成前後,與作為作品人物原型的歌人太田靜子之間生下了女兒太田治子,太宰認領了她。
10月左右,新潮社的野原一夫目睹太宰在情婦山崎富榮的房間裡大量咯血,但富榮卻顯得經驗老到,對太宰進行了處理。1948年(昭和23年),太宰完成了《人間失格》、《櫻桃》等作品。富榮手腕利落,被稱為「スタコラさっちゃん」,成為了太宰的情婦兼秘書。她辭去了美容師的工作,將約20萬日元的存款都花在了太宰的玩樂費用上。她威脅藏有氰化鉀,並從6月7日起,將太宰軟禁在自己的房間裡。筑摩書房社長古田晁因擔心太宰的狀況,向井伏鱒二尋求諮詢,並計劃讓太宰在御坂峠的天下茶屋靜養。6月12日,太宰去訪問古田在埼玉縣大宮市的宇治醫院作為週末下榻之地,但古田當時正為靜養準備而出差到信州(長野縣)。
1948年(昭和23年)6月13日,太宰與山崎富榮一起在玉川上水投水自盡,終年38歲。兩人的遺體在6天後的6月19日被發現,這天恰巧是太宰的39歲生日,並由與太宰同鄉且生前有交流的今官一命名為「櫻桃忌」,紀念太宰生前最後所寫的短篇小說《櫻桃》。這起事件自發生起即引起了各種猜測,有人提出了富榮主導的無理心中說、狂言心中失敗說等。曾進出津島家的呉服商中畑慶吉被三鷹警察署的刑警帶到投水現場,他發現了明顯的下駄被猛烈推開的痕跡,以及試圖阻止滑落的手印,並推測「經過一週,即便下過雨,這些明顯的痕跡還殘留著,這或許表示太宰在最後時刻極力反抗不想死」「太宰可能是在被告知『讓我們一起死吧』時輕易同意了,但在臨死前突然渴望生存」。中畑向三鷹警察署長表達了自己的看法,認為這不像是純粹的自殺,署長也表示「即便已經宣布是心中自殺,現在說什麼也沒用,但實際上警方也覺得(自殺的說法)有些不合理」。
《朝日新聞》和《朝日評論》上刊載的幽默小說「グッド・バイ」成為了未完成的遺作。奇妙的是,這部作品的第13話成為太宰的絕筆,有人認為這是太宰暗示基督教中13(忌諱數字)的最後一個玩笑(檀一雄的說法)。也有人認為,太宰因自己的健康問題和唯一的兒子患有唐氏症而痛苦,這是他自殺的原因之一。
然而,在太宰50週年忌日即將來臨的1998年(平成10年)5月23日,遺族公開了太宰的九張遺書,其中他對美知子表示「我愛你勝過任何人」,並解釋自殺的動機是「因為厭倦了寫小說所以選擇死亡」。這些遺書是用毛筆清書在宣紙上的,並有簽名,顯示之前的遺書只是草稿。
1.
"メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮らして来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。"
梅羅斯勃然大怒。我暗下決心,一定要除掉那個邪惡暴虐的國王。梅洛斯不懂政治。梅羅斯是村裡的牧羊人。他以吹笛子和玩羊為生。然而,他比大多數人對邪惡更敏感。
2.
"若い時から名誉を守れ。"
從小保護自己的榮譽。
3.
"私にはいのちの他には何も無い。その、たった一つの命も、これから王にくれてやるのだ。"
除了生命,我一無所有。從今以後,我將把我唯一的生命獻給國王。
4.
"人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。"
懷疑人心是最可恥的惡行。
5.
"一番きらいなものは、人を疑う事と、それから、嘘をつく事だ。"
我最討厭的就是懷疑別人和說謊。
6.
"友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。"
朋友之間的真情是這個世界上最值得驕傲的財富。
7.
"私は生れた時から正直な男であった。正直な男のままにして死なせて下さい。"
我從出生起就是一個誠實的人。讓我作為一個誠實的人死去吧。
8.
"罪の無い人を殺して、何が平和だ。"
殺害無辜者何謂和平?
9.
"私は、今宵、殺される。殺される為に走るのだ。"
我今晚將被殺。奔跑著,為了被殺。
10.
"おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。"
你贏得了我的心。信仰從來就不是空洞的幻想。
11.
"勇者は、ひどく赤面した。"
英雄臉紅得厲害。
12.
"亭主との間に、どんな秘密でも作ってはならぬ。おまえに言いたいのは、それだけだ。"
不要在你和你丈夫之間保守任何秘密。這就是我想對你說的
13.
"中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。"
半途而廢等於從一開始就什麼都沒做。
14.
"正義だの、真実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。"
正義、真理、愛情,你仔細想想,都是廢話。我靠殺人為生。這不是人間的法則嗎?
15.
"私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ!メロス。"
我一定要回報你們的信任。這就是現在最重要的了。走吧!梅洛斯。
16.
"肉体の疲労恢復と共に、わずかながら希望が生まれた。義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。"
當我的身體從疲勞中恢復過來時,我感到一絲希望。這是履行自己職責的希望。我的希望是透過自殺來保護我的榮譽。
17.
"セリヌンティウス。私を殴れ。ちから一ぱいに頬ほおを殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君がもし私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁ほうようする資格さえないのだ。殴れ。"
塞利農提烏斯.打我。用盡全力打他的臉頰。有一次,我在路上做了一個惡夢。如果你不打我,我連擁抱你的資格都沒有。打我。
18.
"愛する友は、おまえを信じたばかりに、やがて殺されなければならぬ。おまえは、稀代の不信の人間、まさしく王の思う壺つぼだぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身萎えて、もはや芋虫ほどにも全身かなわぬ。
路傍の草原にごろりと寝ころがった。身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐れた根性が、心の隅に巣喰った。"
我親愛的朋友,只因為他相信你,很快就會被殺。我試著責罵自己,說:「你是有史以來最不信任的人,你正是國王想要的那種鍋子。」但你的整個身體都枯萎了,你不再像一個人那樣堅強了。
我躺在路邊的草地上。如果你的身體很累,你的精神也會受到影響。已經不重要了,一顆腐爛的、不忠的、與英雄不相稱的靈魂,棲息在我內心的角落。
19.
"私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます。"
如果你真的打算對我表示同情,請給我三天的時間,在執行前。我想讓我唯一的妹妹嫁人。在這三天裡,我會在村裡舉行婚禮,我一定會回到這裡來。
20.
"疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。"
你告訴我,懷疑是一種有效的心態。
21.
"走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題ではないのだ。人の命も問題ではないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいもののために走っているのだ。"
跑步。我跑步是因為我相信它。你是否準時到達並不重要。人的生命也不是問題。我正在追求更可怕、更大的事。
22.
"恥の多い生涯を送って来ました。 自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。"
我過著充滿恥辱的生活。我不知道人類的生活是什麼樣的。
23.
"人間、失格。 もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。"
人類,被取消資格。我根本就不再是人類了。
24.
"(それは世間が、ゆるさない) (世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)"
(世界不會原諒你。)(這不是世界,你不會原諒它,對嗎?)
25.
"人間の心には、もっとわけのわからない、おそろしいものがある。"
人心中還有更多難以理解和可怕的事情。
26.
"いまは自分には、幸福も不幸もありません。 ただ、一さいは過ぎて行きます。"
現在的我,沒有幸福,也沒有不幸福。然而,這一刻將會過去。
27.
"あまりに人間を恐怖している人たちは、かえって、もっともっと、おそろしい妖怪を確実にこの眼で見たいと願望するに到る心理。"
太害怕人類的人,最終卻想親眼看見更可怕的怪物。
28.
"ああ、人間は、お互い何も相手をわからない、まるっきり間違って見ていながら、無二の親友のつもりでいて、一生、それに気附かず、相手が死ねば、泣いて弔詞なんかを読んでいるのではないでしょうか。"
啊,人類根本不了解彼此,儘管彼此看錯了,但他們仍然把對方當作最好的朋友,甚至一輩子都沒有註意到,當別人死了,他們會哭並讀悼詞,不是嗎?
29.
"僕は、女のいないところに行くんだ。"
我要去沒有女人的地方。
30.
"人間は、こぶしを固く握りながら笑えるものでは無いのである。"
人類在緊握拳頭時無法笑。
31.
"世間というものは、個人ではなかろうかと思いはじめてから、自分は、いままでよりは多少、自分の意志で動く事が出来るようになりました。"
自從我開始認為世界不只是一個個體,我比以前更能按照自己的意願行事。
32.
"自分は、自分を生れた時からの日蔭者のような気がしていて、世間から、あれは日蔭者だと指差されている程のひとと逢うと、自分は、必ず、優しい心になるのです。そうして、その自分の「優しい心」は、自身でうっとりするくらい優しい心でした。"
我覺得我從出生起就是一個陰暗的人,當我遇到一個被世人稱為陰暗的人時,我總是認為自己是一個善良的人。然後,我的「善良的心」竟然變得如此善良,讓我著迷了。
33.
"世の中の人間の「実生活」というものを恐怖しながら、毎夜の不眠の地獄で呻(うめ)いているよりは、いっそ牢屋のほうが、楽かも知れない。"
生活在監獄裡可能比每天晚上在失眠的地獄中呻吟、擔心世界上人們的「現實生活」要容易一些。
34.
"死にたい、死ななければならぬ、生きているのが罪の種なのだ。"
我想死,我必須死,活著就是罪孽的種子。
35.
"人間は決して人間に服従しない、奴隷でさえ奴隷らしい卑屈なシッペがえしをするものだ、だから、人間にはその場の一本勝負にたよる他、生き伸びる工夫がつかぬのだ。"
人類從不屈服於人類,連奴隸也遭受奴隸般的屈從行為,所以人類除了依靠就地一搏之外想不出其他的生存方式。
36.
"人にものを頼むのに、まず、その人を笑わせるのが上策。"
當向某人詢問某事時,最好先讓他們笑。
37.
"神経質な、ものにおびえ易い人ほど、暴風雨の更に強からん事を祈る心理。"
人們越是緊張、容易受到驚嚇,就越祈禱風暴不要變得更強。
38.
"美しいと感じたものを、そのまま美しく表現しようと努力する甘さ、おろかしさ。"
試圖表達你所感受到的美麗是天真和愚蠢的。
39.
"人間への不信は、必ずしもすぐに宗教の道に通じているとは限らない。"
對人類的不信任並不一定會導致宗教。
40.
"女性というものは、休んでからの事と、朝、起きてからの事との間に、一つの、塵ちりほどの、つながりをも持たせず、完全の忘却の如く、見事に二つの世界を切断させて生きている。"
女性在休息後所做的事情和早上醒來後所做的事情沒有絲毫聯繫,彷彿完全忘記了,她們完全被分成了兩個世界,生活在截肢中。
41.
"微弱ながら恋の心の動くのを自覚しました。"
我發現我的愛的心在感動,儘管它很脆弱。
42.
"神に問う。信頼は罪なりや。"
問上帝。信任是一種罪。