"芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、1892年〈明治25年〉3月1日 - 1927年〈昭和2年〉7月24日)は、日本の小説家。号は澄江堂主人(ちょうこうどうしゅじん)、俳号は我鬼(がき)。東京出身。『羅生門』、『鼻』、『地獄変』、『歯車』などで知られる。
東京市京橋区入船町8丁目(現・東京都中央区明石町)に牛乳製造販売業を営む新原敏三、フクの長男として生まれる。出生時刻については資料がないため不明である。 戸籍上の正しい名前は「龍之介」であるが、養家である芥川家や府立三中、一高、東京大学関係の名簿類では「龍之助」になっている。芥川自身は「龍之助」の表記を嫌った。姉が2人いたが、長姉は、龍之介が生まれる1年前に6歳で病死している。
生後7か月ごろに母フクが精神に異常をきたしたため、東京市本所区小泉町(現・東京都墨田区両国)にある母の実家の芥川家に預けられ、伯母のフキに養育される。11歳のときに母が亡くなる。翌年に伯父・芥川道章(フクの実兄)の養子となり、芥川姓を名乗ることになった。旧家の士族である芥川家は江戸時代、代々徳川家に仕えた奥坊主(御用部屋坊主)の家である。家中が芸術・演芸を愛好し、江戸の文人的趣味が残っていた。
1898年(明治31年)、江東(こうとう)尋常小学校入学(芥川卒業後、「江東」は「えひがし」と読むようになる。現在の墨田区立両国小学校)。東京府立第三中学校を卒業の際に「多年成績優等者」の賞状を受け、1910年(明治43年)9月、第一高等学校第一部乙類英文科に入学。1910年(明治43年)に中学の成績優秀者は無試験入学が許可される制度が施行され、芥川はその選に入っていた。同期入学に久米正雄、松岡讓、佐野文夫、菊池寛、井川恭(のちの恒藤恭)、土屋文明、倉田百三(第一部丙類独法・政治・独文科一年四之組)、渋沢秀雄(第一部丙類仏法・政治・仏文科一年五之組)、矢内原忠雄(第一部甲類英法・政治・経済・商科一年二之組)らがいた。2年生になり一高の全寮主義のため寄宿寮に入るが、芥川は順応することはなかったという。寮で同室となった井川は生涯の親友となる。井川は『第一高等学校一覧』(第一高等学校刊行)によると、1年から3年まで常に芥川の成績を上回っている。1913年(大正2年)、東京帝国大学文科大学英文学科へ進学。ちなみに当時、同学科は一学年数人のみしか合格者を出さない難関であった。
東京帝大在学中の1914年(大正3年)2月、一高同期(クラスメイト)の菊池寛、久米正雄らとともに同人誌『新思潮』(第3次)を刊行。まず「柳川隆之助」(隆之介と書かれている当時の書籍も存在する)の筆名でアナトール・フランスの『バルタザアル』、イエーツの『春の心臓』の和訳を寄稿したあと、10月に『新思潮』が廃刊にいたるまでに同誌上に処女小説『老年』を発表。作家活動の始まりとなった。このころ、青山女学院英文科卒の吉田弥生という女性と親しくなり、結婚を考えるが、芥川家の猛反対で断念する。1915年(大正4年)10月、代表作の1つとなる『羅生門』を「芥川龍之介」名で『帝国文学』に発表。
1916年(大正5年)には第4次『新思潮』(メンバーは菊池、久米のほか松岡譲、成瀬正一ら5人)を発刊したが、その創刊号に掲載した『鼻』が漱石に絶賛される。この年に東京帝国大学文科大学英文学科を20人中2番の成績で卒業。卒論は「ウィリアム・モリス研究」。同年12月、海軍機関学校英語教官を長く勤めた浅野和三郎が新宗教「大本(当時は皇道大本)」に入信するため辞職する。そこで畔柳芥舟や市河三喜ら英文学者が、浅野の後任に芥川を推薦(内田百閒によれば夏目漱石の口添えがあったとも)、芥川は海軍機関学校の嘱託教官(担当は英語)として教鞭を執った。そのかたわら創作に励み、翌年5月には初の短編集『羅生門』を刊行する。その後も短編作品を次々に発表し、11月には早くも第二短編集『煙草と悪魔』を発刊している。 なお、海軍機関学校の初任給が60円であったのに対し、当時の原稿料は1枚30銭から2円であった。
1918年(大正7年)の秋、懇意にしていた小島政二郎(『三田文学』同人)と澤木四方吉(『三田文学』主幹で西洋美術史家)の斡旋で慶應義塾大学文学部への就職の話があり、履歴書まで出したが、実現をみなかった。1919年(大正8年)3月、海軍機関学校の教職を辞して大阪毎日新聞社に入社(新聞への寄稿が仕事で出社の義務はない)、創作に専念する。ちなみに師の漱石も1907年(明治40年)、同じように朝日新聞社に入社している。
この旅行後から次第に心身が衰え始め、神経衰弱、腸カタルなどを患う。1923年(大正12年)には湯河原町へ湯治に赴いている。作品数は減っていくが、このころからいわゆる「保吉もの」など私小説的な傾向の作品が現れ、この流れは晩年の『歯車』『河童』などへとつながっていく。
1925年(大正14年)ごろから文化学院文学部講師に就任。1926年(大正15年)、胃潰瘍、神経衰弱、不眠症が高じ、ふたたび湯河原で療養。一方、妻・文は自身の弟・塚本八洲の療養のため鵠沼の実家別荘に移住。2月22日、龍之介も鵠沼の旅館東屋に滞在して妻子を呼び寄せる。7月20日には東屋の貸別荘「イ-4号」を借り、妻・文、三男・也寸志と住む。夏休みに入り、比呂志、多加志も来る。7月下旬、親友の画家小穴隆一も隣接する「イ-2号」を借りて住む。この間、小品『家を借りてから』『鵠沼雑記』、さらに『点鬼簿』を脱稿。堀辰雄、宇野浩二、小沢碧童らの訪問を受ける。また、鵠沼の開業医、富士山(ふじ たかし)に通院する。9月20日、龍之介、文、也寸志は「イ-4号」の西側にあった「柴さんの二階家」を年末まで借りて移る。ここで鵠沼を舞台にした小品『悠々荘』を脱稿。これは、震災前に岸田劉生が住み、震災後に建て直されて国木田虎雄(国木田独歩の息子で詩人)が借りていた貸別荘を視察したときの経験がヒントのようで、龍之介一家が鵠沼に永住する意図があったとも考えられる。また、この間、斎藤茂吉、土屋文明、恒藤恭、川端康成、菊池寛らの訪問を受けている。元号が昭和に変わってから、妻子は田端に戻り、龍之介は「イ-4号」に戻った。甥の葛巻義敏と鎌倉で年越しをしてから田端に戻るが、鵠沼の家は4月まで借りており、時折訪れている。
1927年(昭和2年)1月、義兄の西川豊(次姉の夫)が放火と保険金詐欺の嫌疑をかけられて鉄道自殺する。このため芥川は、西川の遺した借金や家族の面倒を見なければならなかった。4月より「物語の面白さ」を主張する谷崎潤一郎に対して、『文芸的な、余りに文芸的な』で「物語の面白さ」が小説の質を決めないと反論し、戦後の物語批判的な文壇のメインストリームを予想する文学史上有名な論争を繰り広げる。この中で芥川は、「話らしい話のない」純粋な小説の名手として「小説の神様」志賀直哉を称揚した。このころ、芥川の秘書的な役割を果たしていた平松ます子(父は平松福三郎・大本信者)は芥川から帝国ホテルでの心中を持ちかけられ、小穴龍一や文夫人等に知らせて阻止した。
7月24日未明、『続西方の人』を書き上げたあと、斎藤茂吉からもらっていた致死量の睡眠薬を飲んで服毒自殺した。享年36〈数え年〉、満35歳没。服用した薬には異説があり、たとえば山崎光夫は、芥川の主治医だった下島勲の日記などから青酸カリによる服毒自殺説を主張している。同日朝、文夫人が「お父さん、よかったですね」と彼に語りかけたという話もある。戒名はなく俗名で葬儀が行われたが[19]、後に懿文院龍之介日崇居士。墓所は、東京都豊島区巣鴨の慈眼寺。
作品は、短編小説が多く知られている。しかし初期の作品には、西洋の文学を和訳したものも存在する(『バルタザアル』など)。英文科を出た芥川は、その文章構成の仕方も英文学的であるといわれている。翻訳文学的でもある論理的に整理された簡潔・平明な筆致に特徴がある。
短編の傑作を残した一方で、長編を物にすることはできなかった(未完小説として『邪宗門』『路上』がある)。また、生活と芸術は相反するものだと考え、生活と芸術を切り離すという理想のもとに作品を執筆したといわれる。他の作家に比べ表現やとらえ方が生々しい。晩年には志賀直哉の「話らしい話のない」心境小説を肯定し、それまでのストーリー性のある自己の文学を完全否定する(その際の作品に『蜃気楼』が挙げられる)。
『杜子春』など古典を参考にしたものや(原話は唐の小説『杜子春伝』)、鈴木三重吉が創刊した『赤い鳥』に発表されたものなど児童向け作品も多い。一般的には、キリシタン物や平安朝を舞台とした王朝物などに分類される。また、古典(説話文学)から構想を得た作品も多い。例えば、『羅生門』や『鼻』、『芋粥』などは『今昔物語集』を、『地獄変』などは『宇治拾遺物語』を題材としている。またアフォリズムの制作も得意としており、漢文などにも通じていた。
反軍的な自説を主張しており、ことに『河童』『侏儒の言葉』などの晩年の作品にはそのような傾向が強い。当時の軍人の横柄な様子を「小児のようだ」と自著で酷評したほどである。しかし、当時は軍が著作物の検閲をするのが通常であったため、この検閲によって訂正・加筆・削除を余儀なくされた箇所も作品内に多数存在する。その一方で、海軍に対してはある程度の好意を抱いていたようで、陸軍のあまりの狭量に腐っていた陸軍幼年学校教官の豊島与志雄を「いい職場があるから」と海軍機関学校に招き、豊島はフランス語嘱託教官として勤務した。内田百閒も芥川の推薦でドイツ語嘱託教官となっており、のちに内田は『竹杖記』(1934年(昭和9年))で芥川が講師の人選や交渉などに一定の役割を担っていたことを記している。
自著にて天照大神を登場させる際、別名の「大日孁貴」(おおひるめのむち)を用いた。これは「天照大神」という呼称では皇祖神をそのまま文中に登場させてしまうことになるため、太陽神、それも自然神という性格づけで「大日孁貴」を用いなければならなかったためである。
煙草が大好きで、1日に180本も吸っていたという。この煙草について『海のほとり』『京都日記』『玄鶴山房』に敷島銘柄の煙草が登場した。
作品の変遷
芥川龍之介の作品は、初期と晩年でかなり違うといわれる。
初期
説話文学を典拠とした『羅生門』『鼻』『芋粥』など歴史物、加えてキリシタン物が有名である。日夏耿之介は初期の作品を「非常によい」と評価している。歴史物では、人間の内面、特にエゴイズムを描き出したものが多い。
中期
芸術至上主義的な面が全面に出た『地獄変』などを書き、長編『邪宗門』に挑んでいた。
晩年
自殺を考えていたのか、自分のこれまでの人生を見直したり、生死を取り上げたりした作品が多く見られる。初期より晩年の方を高く評価する見解も示されている。『一塊の土』など、これまでと比べ現代の話を書くようになるが、台頭するプロレタリア文壇にブルジョア作家と攻撃されることとなる。このころから主人公の一人称を「僕」とする私小説が増え、告白的な自伝も書き始める(『大導寺信輔の半生』、『点鬼簿』、『或阿呆の一生』など)。晩年の代表作『河童』は、河童の世界を描くことで人間社会を痛烈に批判しており、当時の人々に問題を提起した。
『歯車』の内容から、晩年には自分自身のドッペルゲンガー(Doppelgänger)を見たのではないか、また、片頭痛あるいはその前兆症状である閃輝暗点を患っていたのではないか、という説がある。
「水洟(みづぱな)や 鼻の先だけ 暮れ残る」と、自殺直前に書いた色紙の一句が辞世とされる。
河童忌
芥川の命日・7月24日は河童忌と呼ばれる。当初は、遺族と生前親交のあった文学者たちが集まる法要だったが、1930年(昭和5年)の四回忌から「河童忌記念帖」として文藝春秋誌上で紹介され、この呼び名が定着した。以後17回忌まで毎年行われていたが、戦争のため中断する。戦後、再開されたが詳しい記録は残っていない。
1976年(昭和51年)の50回忌は巣鴨の慈眼寺で墓前祭、丸の内の東京会館で偲ぶ会が催された。この日は第75回芥川賞の贈呈式で、受賞した村上龍も花を手向けにきた。没後90年にあたる2017年(平成29年)からは田端文士村記念館が世話役となり、「河童忌」イベントを開催している。"
芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ,1892年〈明治25年〉3月1日 - 1927年〈昭和2年〉7月24日)是日本的小說家。號澄江堂主人(ちょうこうどうしゅじん),俳號是我鬼(がき)。出生於東京。以《羅生門》、《鼻》、《地獄變》、《齒輪》等作品聞名。
他出生於東京市京橋區入船町8丁目(現在的東京都中央區明石町),父親是經營牛奶製造銷售業的新原敏三,母親是フク,是家中的長子。關於他的出生時間沒有資料,所以不明。戶籍上正確的名字是「龍之介」,但在芥川家、府立三中、一高、東京大學相關名冊中,都寫成「龍之助」。芥川自己不喜歡「龍之助」的寫法。他有兩個姐姐,但大姐在龍之介出生前一年,六歲時因病去世。
他出生後7個月左右,因為母親フク精神異常,被送到東京市本所區小泉町(現在的東京都墨田區兩國)的母親家族芥川家,由姑母フキ撫養。11歲時母親去世,隔年成為叔叔芥川道章(フク的哥哥)的養子,從此取名芥川。芥川家是江戶時代以來,代代為德川家服務的奧坊主(御用部屋坊主)的家族,家中有著濃厚的藝術和表演愛好,留有江戶文人的趣味。
1898年(明治31年),他入學江東(こうとう)尋常小學校(芥川畢業後,「江東」讀作「えひがし」,現在的墨田區立兩國小學)。畢業於東京府立第三中學校,畢業時因成績優秀獲得「多年成績優等者」證書。1910年(明治43年)9月,進入第一高等學校第一部乙類英文科。當年,中學成績優秀者免試入學制度實施,芥川也是其中之一。他的同期有久米正雄、松岡讓、佐野文夫、菊池寛、井川恭(後來的恒藤恭)、土屋文明、倉田百三(第一部丙類獨法・政治・獨文科一年四之組)、渋沢秀雄(第一部丙類仏法・政治・仏文科一年五之組)、矢內原忠雄(第一部甲類英法・政治・經濟・商科一年二之組)等。升上二年級後,因一高實施全寮制,他入住寄宿寮,但芥川並不適應。室友井川成為他終生的摯友。根據《第一高等學校一覽》(第一高等學校出版),井川從一年級到三年級的成績一直優於芥川。1913年(大正2年),他進入東京帝國大學文科大學英文學科,當時該學科每年只有數人能夠合格,非常難進。
在東京帝大學習期間的1914年(大正3年)2月,他與一高同期的菊池寛、久米正雄等發行同人誌《新思潮》(第3次)。首先以筆名「柳川隆之助」(有些當時的書籍寫作隆之介)翻譯了阿納托爾・法蘭斯的《巴爾塔薩爾》和葉慈的《春天的心臓》,之後在《新思潮》停刊前發表了他的處女作《老年》,開始了他的寫作生涯。這段時間,他與青山女學院英文科畢業的吉田弥生相識,考慮結婚,但因家族強烈反對而放棄。1915年(大正4年)10月,他發表了代表作之一《羅生門》,以「芥川龍之介」之名登上《帝國文學》。
1916年(大正5年),他與菊池寛、久米正雄等人發行第4次《新思潮》(其他成員包括松岡讓、成瀬正一等五人),在創刊號上發表的《鼻》獲得了夏目漱石的極高評價。同年,他以全班20人中第2名的成績畢業於東京帝國大學文科大學英文學科,畢業論文是「威廉・莫里斯研究」。同年12月,因為原海軍機關學校英語教官浅野和三郎加入了新宗教「大本(當時稱為皇道大本)」而辭職,畔柳芥舟和市河三喜等英文學者推薦芥川接任(據內田百閒所說,有夏目漱石的推薦),芥川成為了海軍機關學校的嘱託教官(負責英語)。同時,他繼續創作,在隔年5月發行了第一本短篇集《羅生門》,之後也陸續發表了多篇短篇作品,11月就已經發行了第二本短篇集《煙草與惡魔》。值得一提的是,當時海軍機關學校的初任薪水是60圓,而原稿費則是每頁30錢到2圓。
1918年(大正7年)的秋天,因為與小島政二郎(《三田文學》同人)和澤木四方吉(《三田文學》主幹兼西洋美術史家)的關係,有了進入慶應義塾大學文學部工作的機會,甚至交出了履歷書,但最終沒有成事。1919年(大正8年)3月,辭去海軍機關學校的教職,加入大阪每日新聞社(負責投稿,無需出勤),專注於創作。
值得一提的是,他的老師漱石也在1907年(明治40年),以相同的方式加入了朝日新聞社。從這次旅行後,他的身心逐漸衰弱,患上了神經衰弱和腸炎。到了1923年(大正12年),他前往湯河原町進行溫泉療養。雖然作品數量減少,但從這時開始出現了所謂的「保吉物」等私小說風格的作品,這一趨勢延續到晚年的《齒輪》和《河童》等作品。
大約在1925年(大正14年),他成為了文化學院文學部的講師。1926年(大正15年),因為胃潰瘍、神經衰弱和失眠症加重,再次前往湯河原療養。與此同時,他的妻子文為了照顧患病的弟弟塚本八洲,搬到了鵠沼的家族別墅。2月22日,龍之介也在鵠沼的旅館東屋暫住,並召集家人。7月20日,他們租下了東屋的別墅「イ-4號」,與妻子文和三兒子也寸志一起居住。學校放暑假時,比呂志和多加志也來到這裡。7月下旬,好友畫家小穴隆一也租下了隔壁的「イ-2號」居住。
在這段期間,他完成了短篇小說《從租房子開始》、《鵠沼雜記》,還有《點鬼簿》。他接待了許多訪客,包括堀辰雄、宇野浩二、小澤碧童等。此外,他還經常去看鵠沼的開業醫生富士山(ふじ たかし)。9月20日,龍之介、文和也寸志搬到了「イ-4號」西側的「柴さん的二層房」,直到年底。他在這裡完成了以鵠沼為背景的短篇小說《悠々莊》。這部作品的靈感似乎來自於他參觀岸田劉生在震災前居住、震災後重建的租賃別墅,後來由國木田虎雄(國木田獨步的兒子、詩人)租用。還有可能,龍之介一家有定居鵠沼的意圖。此外,斎藤茂吉、土屋文明、恒藤恭、川端康成、菊池寬等人也來訪。昭和時代開始後,他的家人回到了田端,而龍之介則回到了「イ-4號」。他與侄兒葛巻義敏在鎌倉過了新年,然後回到田端,但鵠沼的房子一直租到了4月,他偶爾會去那裡。
1927年(昭和2年)1月,他的姐夫西川豊(姐姐的丈夫)因涉嫌放火和保險詐騙自殺身亡。因此,芥川不得不承擔起西川留下的債務和照顧家庭的責任。從4月開始,他反駁主張「故事的有趣」的谷崎潤一郎,在《文藝的、過於文藝的》中主張小說的質量並非由故事的有趣決定,預見了戰後敘事批判主流的文壇。在這場論爭中,芥川稱讚了「沒有故事的故事」的純粹小說大師、被稱為「小說之神」的志賀直哉。這段時間,芥川的秘書平松ます子(父親是大本信徒平松福三郎)曾被芥川提出在帝國飯店心中的提議,但被小穴龍一和文夫人等人得知後阻止了。
7月24日凌晨,在寫完《繼西方的人》後,他服用了斎藤茂吉給予的致死量睡眠藥物自殺。享年36歲(虛歲),實際上35歲。關於他使用的藥物有不同的說法,比如山崎光夫根據芥川的主治醫生下島勲的日記等資料主張他是青酸鉀自殺。據說,在同一天早上,文夫人對他說過「お父さん、よかったですね」。他的葬禮沒有戒名,以俗名進行,但後來被賜予戒名懿文院龍之介日崇居士。墓地位於東京都豊島区巣鴨的慈眼寺。
作品以短篇小說著稱,然而早期作品中也包含了對西方文學的翻譯(如《巴爾塔薩爾》)。畢業於英文科的芥川,其文章結構方式也被認為具有英國文學風格。其作品以邏輯清晰、簡潔明了的筆觸為特色,亦具有翻譯文學的風格。雖然留下了短篇小說的傑作,但他未能完成長篇小說(如未完成小說《邪宗門》和《路上》)。
他認為生活與藝術是相互矛盾的,並在將生活與藝術分離的理想之下創作。與其他作家相比,他的表達方式和觀點更為生動。晚年,他肯定了志賀直哉「沒有像話的故事」的心境小說,從而完全否定了自己過去具有故事性的文學(在此期間的作品有《蜃氣樓》)。他參考了古典作品(如以唐代小說《杜子春傳》為原著的《杜子春》),以及在鈴木三重吉創辦的《紅鳥》上發表的兒童向作品等。一般而言,其作品可分為基督教題材、平安時代為背景的宮廷物等。
此外,他也從古典(說話文學)中獲得靈感,如《羅生門》、《鼻》、《芋粥》等作品是以《今昔物語集》為題材,《地獄變》等則以《宇治拾遺物語》為題材。他也擅長創作格言,並精通漢文。他主張反軍的觀點,特別是在晚年的作品如《河童》、《侏儒的話》中,這種傾向尤為強烈。他在自己的著作中嚴厲批評當時軍人的傲慢態度,形容他們「像小孩一樣」。然而,當時軍隊對著作進行審查是常態,因此許多作品中都存在因審查而被迫修改、增補或刪除的部分。另一方面,他對海軍抱有一定的好感,將因陸軍過於狹隘而感到厭惡的陸軍幼年學校教官豐島與志雄「因為有好的工作」而邀請至海軍機關學校,豐島在那裡擔任法語嘱託教官。
內田百閒也在芥川的推薦下成為德語嘱託教官,後來在《竹杖記》(1934年)中記述了芥川在講師選擇和談判等方面扮演了一定的角色。在自己的作品中提到天照大神時,他使用了「大日孁貴」(おおひるめのむち)這個別名。
這是因為直接使用「天照大神」這個稱呼會將皇祖神直接帶入文中,因此必須以太陽神、自然神的角色使用「大日孁貴」。
作品的變遷
芥川龍之介的作品,初期與晚年有相當大的不同。初期以說話文學為藍本的《羅生門》《鼻》《芋粥》等歷史物,加上基督教物是著名的。日夏耿之介對初期的作品給予了“非常好”的評價。在歷史物中,描繪了人類內心,特別是自我主義的多面性。
中期藝術至上主義的面貌全面顯現,寫了《地獄變》等作品,並挑戰長篇《邪宗門》。晚年是否考慮自殺,反思自己至今的生活,或是提及生死的作品較多。
對於晚年作品的評價比初期更高的觀點也有所展示。如《一塊的土》等,與以往相比開始寫現代的故事,但因此被當時崛起的無產階級文壇攻擊為資產階級作家。從這時期開始,以“我”為第一人稱的私小說增多,並開始寫自傳性質的作品(如《大導寺信輔的半生》、《點鬼簿》、《或阿呆的一生》等)。晚年的代表作《河童》通過描繪河童的世界,對人類社會進行了痛切的批評,向當時的人們提出了問題。從《齒輪》的內容來看,晚年可能見到了自己的雙生靈(Doppelgänger),或是患有偏頭痛或其前兆症狀閃輝暗點。“水涕や 鼻の先だけ 暮れ残る”,自殺前寫的一句色紙被視為遺言。
河童忌
芥川的忌日・7月24日被稱為河童忌。起初是遺族和生前有交情的文學家們聚集的法要,但從1930年(昭和5年)的第四次忌起,以“河童忌記念帖”的形式在《文藝春秋》雜誌上介紹,這個名稱便定型了。之後每年都會舉行至第17次忌,但由於戰爭而中斷。戰後,雖然重新開始,但詳細記錄未留存。1976年(昭和51年)的第50次忌,在巣鴨的慈眼寺進行墓前祭,在丸之內的東京會館舉辦了追憶會。這一天是第75回芥川賞的頒獎典禮,獲獎的村上龍也來獻花。自2017年(平成29年)開始,逢芥川逝世90周年,由田端文士村紀念館負責主辦,“河童忌”活動開始舉行。
1.
"我々はしたいことの出来るものではない。ただ、出来ることをするものである。"
我們並非能夠做任何事情的人。我們只是做能做的事情的人。
2.
"女は常に好人物を夫に持ちたがるものではない。しかし男は好人物を常に友だちに持ちたがるものである。"
女人並不總是希望有一個好男人作為丈夫。但男人總是希望有好人當朋友。
3.
"人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのはばかばかしい。重大に扱わねば危険である。"
生活就像一盒火柴。認真對待它是愚蠢的。如果不認真對待的話是危險的。
4.
"人間は時として、満たされるか満たされないかわからない欲望のために一生を捧げてしまう。その愚を笑う人は、つまるところ、人生に対する路傍の人に過ぎない。"
人類有時一生都在追求可能會或可能不會實現的願望。那些嘲笑這種愚蠢的人,終究只是生活的旁觀者。
5.
"道徳の与えたる恩恵は時間と労力との節約である。道徳の与えたる損害は完全なる良心の麻痺である。"
道德的好處是節省時間和精力。道德造成的損害是良知的徹底麻痺。
6.
"天才とは僅かに我々と一歩を隔てたもののことである。"
天才是離我們只有一步之遙的人。
7.
"阿呆はいつも彼以外のものを阿呆であると信じている。"
白痴總是相信除了自己之外的所有人都是白痴。
8.
"我々の生活に必要な思想は、三千年前に尽きたかもしれない。我々は唯古い薪に、新しい炎を加えるだけであろう。"
我們生活所必需的思想可能在 3000 年前就已經耗盡了。我們只會為舊木頭增添新的火焰。
9.
"成すことは必ずしも困難ではない。が、欲することは常に困難である。少なくとも成すに足ることを欲するのは。"
實現起來不一定困難。但你想要的總是很難的。至少想要一些值得做的事情。
10.
"人生の競技場に踏みとどまりたいと思ふものは、創痍を恐れずに闘はなければならぬ。"
想留在人生舞台上的人,就必須無懼傷痕地戰鬥。
11.
"自然を愛するのは、自然がわれわれを憎んだり、嫉妬しないためでもない事はない。"
我們熱愛大自然,這樣它就不會憎恨嫉妒我們。
12.
"人生は地獄よりも地獄的である。"
人生比地獄還地獄。
13.
"創作は常に冒険である。所詮は人力を尽した後、天命にまかせるより仕方はない。"
創造永遠是一種冒險。最終,在耗盡了所有的人力資源後,我們別無選擇,只能聽天由命。
14.
"他を嘲(あざけ)るものは同時にまた他に嘲られることを恐れるものである。"
嘲笑別人的人,也害怕被別人嘲笑。
15.
"周囲は醜い。自己も醜い。そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい。"
周圍環境很醜。自己也很醜。活著並看到這一點是痛苦的。
16.
"強者は道徳を蹂躙するであろう。弱者はまた道徳に愛撫されるであろう。道徳の迫害を受けるものは、常に強弱の中間者である。"
強者就會違背道德。弱者也會受到道德的撫慰。那些遭受道德迫害的人總是介於強者和弱者之間。
17.
"我々に武器を執らしめるものは、いつも敵に対する恐怖である。しかもしばしば実在しない架空の敵に対する恐怖である。"
總是對敵人的恐懼迫使我們拿起武器。而且,往往是對不存在的假想敵的恐懼。
18.
"人生を幸福にするためには、日常の瑣事を愛さなければならぬ。"
為了過著幸福的生活,你必須熱愛日常生活中的瑣事。
19.
"好人物は何よりも先に、天上の神に似たものである。第一に、歓喜を語るに良い。第二に、不平を訴えるのに良い。第三に、いてもいなくても良い。"
一個好人首先是像天上的神。首先,談論快樂是件好事。其次,有利於抱怨。第三,你在或不在都不重要。
20.
"私は不幸にも知っている。時には嘘によるほかは語られぬ真実もあることを。"
不幸的是。有時,有些真理只能透過謊言來講述。
21.
"我々を走らせる軌道は、機関車にはわかっていないように我々自身にもわかっていない。この軌道もおそらくはトンネルや鉄橋に通じていることであろう。"
自己也不知道引導我們前進的軌道,就像火車司機也不知道一樣。可能通向隧道和鐵橋。