"志賀 直哉(しが なおや、1883年〈明治16年〉2月20日 - 1971年〈昭和46年〉10月21日)は、日本の小説家。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。
宮城県石巻生まれ、東京府育ち。明治から昭和にかけて活躍した白樺派を代表する小説家のひとり。「小説の神様」と称せられ多くの日本人作家に影響を与えた。代表作に「暗夜行路」「和解」「城の崎にて」「小僧の神様」など。
志賀直哉は1883年(明治16年)2月20日、宮城県牡鹿郡石巻町に、父・志賀直温と母・銀の次男として生まれた。父・直温は当時第一銀行石巻支店に勤務していた。明治期の財界で重きをなした人物である。母・銀は、伊勢亀山藩の家臣・佐本源吾の娘であった。なお、直哉には兄・直行がいたが直哉誕生の前年に早世していた。
2歳のときに第一銀行を辞めた父とともに東京に移る。住居は東京府麹町区内幸町1丁目6番地の相馬家旧藩邸内にあったが、これは当時、祖父・直道が相馬家の家令を務めていたからである。3歳になり芝麻布有志共立幼稚園に入園。この幼稚園は東京で開設された2番目の幼稚園であった。次いで1889年(明治22年)9月、学習院に入学し予備科6級(現・初等科1年)に編入される。
幼少期の直哉は祖父・直道と祖母・留女(るめ)に育てられた。直哉の兄・直行早世の責任は母・銀にあると考えた祖父母が志賀家の家系を絶やさないように、今度は孫を自分の手元で育てることに決めたからであった。毎晩祖母に抱かれて寝るなど、幼少期の直哉は祖父母に溺愛されて育った。祖父・直道(三左衛門)は相馬事件の当事者の一人であり、祖父らを主君軟禁・毒殺と横領で告発した錦織剛清を幼い直哉は「嘘つきの軽蔑すべき贋作画家」などと呼んでいる。
初等科を卒業した1895年(明治28年)8月に実母・銀が死去。同年秋、父・直温が漢学者・高橋元次の娘・浩と再婚する。直哉の「母の死と新しい母」という作品では、この実母の死と父の再婚の様子が描かれている。その中で直哉は実母の死を「初めて起った『取りかえしのつかぬ事』だった」と振り返っている。
1895年(明治28年)9月、学習院中等科に入学する。翌1896年(明治29年)、有島生馬らとともに「倹遊会」(後に「睦友会」に改名)を結成し、その会誌『倹遊会雑誌』を発行する。直哉は「半月楼主人」や「金波楼半月」といった筆名で同誌に和歌などを発表。これが直哉にとって初めての文筆活動であった。しかしこの頃の直哉はまだ小説家志望ではなく、海軍軍人や実業家を目指していた。またスポーツに没頭しており、特に自転車には「学校の往復は素より、友だちを訪ねるにも、買い物に行くにも、いつも自転車に乗って行かない事はなかった」というほど熱をあげた。
中等科在学中の1901年(明治34年)7月、直哉は志賀家の書生だった末永馨の勧めにより、新宿角筈で行われていた内村鑑三の講習会に出席する。そこで直哉は煽動的な調子のない「真実さのこもった」「胸のすく想いが」する内村の講義を聴く。「本統のおしえをきいたという感銘を受けた」直哉はこうして内村の魅力に惹かれ、以後7年間、内村に師事するようになる。直哉はのちに、自分が影響を受けた人物の一人として内村の名を挙げている。ただし後述のように無宗教家であり、キリスト教には入信していない。内村のもとへ通い始めてから5ヵ月が経った同年11月、直哉は足尾銅山鉱毒事件を批判する内村の演説[注 1]を聞いて衝撃を受け、現地視察を計画する。しかし、祖父・直道がかつて古河市兵衛と足尾銅山を共同経営していたという理由から父・直温に反対されて激しく衝突。長年にわたる不和のきっかけとなる。
中等科時代の直哉は真面目な学生だったとは言い難く、3年時と6年時に2回落第している。複数回の落第をしたことに対し直哉は「品行点が悪かった」ためであると説明している。授業中、口の中に唾がたまると勝手に立ち上がり窓を開けて校庭に向かって唾を吐くなど、教室での落ち着きのなさが目立ったために低い点をつけられたようである。落第の結果、2歳年下の武者小路実篤と2度目の6年時に同級となる。途中、文学上の言い争いから直哉が武者小路に絶縁状をたたきつける事件はあったものの、直哉と武者小路は生涯にわたって親交を結ぶことになる。
1897年(明治30年)頃、直哉は華族女学校の女学生への態度がけしからんという理由で、下級生の滋野清武を有島生馬、松方義輔と一緒に殴ったことがある。これは『人を殴つた話』に書かれた。滋野はのちに学習院を退学し、飛行士になった。
1903年(明治36年)、学習院高等科に入学。高等科の頃の直哉は女義太夫に熱中していたが、それがきっかけとなり小説家志望の意志を固めた。女義太夫の昇之助の公演を見て感動し「(自分も昇之助と同じように)自分のやる何かで以て人を感動させたい」「自分の場合(それは)小説の創作」だと考えたと直哉は後に語っている。ちょうどその頃アンデルセンの童話を愛読していた直哉はそれに影響され、「菜の花と小娘」という作品を執筆している。一般的に直哉の処女作は「或る朝」(後述)とされるが、後年、直哉はこの作品を「別の意味で処女作」だったと振り返っている。なお1906年(明治39年)1月、祖父・直道が死去している。
1938年(昭和13年)3月、東京の淀橋区諏訪町の貸家に引っ越す。奈良での生活を気に入っていた直哉だが、男の子の教育は東京で受けさせたいと2年前に直吉に学習院の編入試験を受けさせ、妹の実吉英子宅に預けて通わせていた。まず1937年(昭和12年)10月、康子夫人が留女子・田鶴子・貴美子を連れて上京し、直吉と貸家に入居。翌年3月、女学校を卒業した寿々子・万亀子と直哉が合流した。
1937年(昭和12年)9月、改造社から『志賀直哉全集』9巻の刊行が始まり翌年6月完結する。直哉は最終回配本の月報に寄せた「全集完了」の短文で「私は此全集完了を機会に一ト先づ(ひとまず)文士を廃業し、こまこました書きものには縁を断りたいと思ふ」と作家活動からの廃業を宣言する。直哉は支那事変に始まる日本の優位な戦局報道に立腹しており、物を書こうとしても不満が文面に出そうで書けなかった。下落合に仕事用のアパートを借りた直哉は油絵に熱中し、憂鬱な気分から救われる。1939年(昭和14年)前後は胆石に苦しむ。1940年(昭和15年)5月、世田谷区新町に家を買い引っ越す。奈良の家を売って引っ越した新居を直哉は大変気に入り執筆活動を再開。1941年(昭和16年)、直吉との京都・奈良・北陸旅行の経験を綴った「早春の旅」を発表する。
太平洋戦争中の1942年(昭和17年)2月17日、直哉の「シンガポール陥落」がラジオで朗読放送され『文藝』3月号にも再録される。日本放送協会からの依頼によって書かれたもので、シンガポールの戦いの勝利を称えた内容だった。だがその直後、鈴木貫太郎の「日本は勝っても負けても三等国に下る」という発言を鈴木家に出入りしていた門下の網野菊から聞かされ、それから終戦まで3年半、ほとんど沈黙していた。このことは戦後に発表した随想「鈴木貫太郎」に記されており、鈴木内閣によって戦争が終わることを期待していたという。また戦時中、広津和郎が近所に住んでいて頻繁に訪問していたが、広津は「話すことは殆んど始終同じことであった。何という見通しのない戦争を始めてしまったものかということ、一刻も早くこの戦争を止めて貰いたいということ」と述べており、沈黙している間に反戦論に転じていたと考えられる。
敗戦が近づくと直哉は外務大臣(当時)の重光葵の意向を汲み、安倍能成、加瀬俊一、田中耕太郎、谷川徹三、富塚清、武者小路実篤、山本有三、和辻哲郎とともに「三年会」を結成する。これは敗戦後の国内の混乱阻止を目的に話し合う会だった。この「三年会」は戦後「同心会」に発展するが、直哉も含めた「同心会」のメンバーは雑誌『世界』の創刊に深く関わることになる。
1955年(昭和30年)渋谷常盤松に居を移した。同年、岩波書店から『志賀直哉全集』の刊行が始まるが常盤松時代の直哉は一層寡作となった。1958年(昭和33年)には時事問題を扱った2本の文章を執筆。2月には紀元節復活の議論に関する自身の意見を朝日新聞に発表。11月には松川裁判を追っていた門下の広津和郎への信頼感から、『中央公論』緊急増刊『松川裁判特別号』にその「巻頭言」を寄せている。しかし以後、直哉は正月用の頼まれ原稿程度のものしか執筆しなくなる。1969年(昭和44年)の随筆「ナイルの水の一滴」(2月23日朝日新聞PR版)が最後の作家活動になった。
1971年(昭和46年)10月21日午前11時58分に肺炎と老衰により関東中央病院で没した。23日に代々幡斎場で荼毘に付され、26日に青山葬儀所での葬儀・告別式は本人の希望により無宗教式で執り行われた。国立音楽大学ピアノ科在学中の孫娘・柳美和子(四女万亀子の娘)がピアノ演奏するなか、葬儀委員長の里見弴が弔辞を述べ、東大寺の上司海雲と橋本聖準が読経、その後参列者による献花が行われた。また葬儀に駆けつけた86歳の武者小路実篤が、急遽原稿なしで遺影に語り掛けるように弔辞を述べたが細々とした声で聞き取れた者はいなかった。遺骨は濱田庄司制作の骨壺に納められ青山霊園に葬られたが、1980年(昭和55年)に盗難に遭って行方不明となっている。
1996年(平成8年)次男の直吉が多くの原稿類を日本近代文学館に寄贈 、2016年(平成28年)にも書簡や写真が寄贈された。一時期居住していた我孫子市にある白樺文学館は直哉の原稿、書簡、ゆかりの品を公開している。なお遺族と弟子の申し合わせにより、芥川龍之介の「河童忌」、太宰治の「桜桃忌」のような命日に故人を偲ぶ集まりは行われていない。"
志賀直哉(1883年2月20日 - 1971年10月21日)是日本的小說家。他是日本藝術院會員、文化功勞者、文化勳章獲得者。出生於宮城縣石卷市,長大於東京。他是從明治時代到昭和時代活躍的白樺派代表小說家之一,被稱為“小說之神”,對許多日本作家產生了影響。他的代表作包括《暗夜行路》、《和解》、《城崎物語》和《小僧的神様》等。
志賀直哉於1883年2月20日出生於宮城縣牡鹿郡石卷町,是父親志賀直溫和母親銀的次子。他的父親直溫當時在第一銀行石卷支店工作,是明治時代財界的重要人物。他的母親銀是伊勢亀山藩家臣佐本源吾的女兒。值得一提的是,直哉有一個哥哥直行,但在直哉出生前一年就早逝了。
兩歲時,隨著父親辭去第一銀行的工作,全家搬到東京。他們的住所位於東京府麹町區內幸町1丁目6號的相馬家舊藩邸內,這是因為當時他的祖父直道曾是相馬家的家令。三歲時,直哉進入了東京第二所幼稚園——芝麻布有志共立幼稚園。隨後在1889年9月,他進入了學習院,被編入預備科6級(相當於現在的小學一年級)。
直哉的童年大部分時間是由祖父直道和祖母留女撫養的。因為他們認為直哉哥哥直行早逝的責任在於母親銀,所以決定將孫子留在自己身邊撫養,以保持志賀家的家系。直哉在幼年時期受到了祖父母的深愛。他的祖父直道(三左衛門)是相馬事件的當事人之一,並且在告發主君軟禁、毒殺和横領的錦織剛清面前,幼小的直哉稱他為“撒謊的、應受蔑視的偽作畫家”。
1895年8月,初等科畢業後,他的母親銀去世。同年秋天,他的父親直溫與漢學者高橋元次的女兒浩再婚。直哉在其作品《母の死と新しい母》中描繪了他的母親去世和父親再婚的情景。在作品中,直哉回顧了母親的去世,稱之為“第一次發生的無法挽回的事”。
1895年9月,直哉進入學習院中等科學習。次年,他與有島生馬等人成立了“倹遊会”(後改名為“睦友会”),並發行了會誌《倹遊会雑誌》。直哉以“半月楼主人”和“金波楼半月”等筆名在該誌發表和歌等作品,這是他首次的文筆活動。然而,那時的直哉並未立志成為小說家,而是希望成為海軍軍人或商人。他還熱衷於體育活動,尤其是騎自行車,他曾說:“不僅是上下學,無論是拜訪朋友、購物,我總是騎著自行車去。
在1901年(明治34年)7月的中等科學習期間,直哉受到當時是志賀家書生的末永馨的推薦,參加了在新宿角筈舉行的內村鑑三的講習會。在那裡,直哉聽到了內村那種不帶煽動性調子、充滿「真實感」且讓人「胸懷暢快」的講課。深受感動的直哉從此被內村的魅力吸引,並在接下來的7年間,成為內村的學生。直哉後來提到,內村是影響他的人物之一。但如後文所述,直哉是一位無宗教者,並未皈依基督教。開始跟隨內村學習5個月後的同年11月,直哉聽到內村對足尾銅山礦毒事件的批評演講[注1]後感到震驚,並計劃去現地視察。然而,由於祖父直道過去曾與古河市兵衛共同經營足尾銅山,父親直溫強烈反對,導致父子之間發生了激烈的衝突,這成為了他們多年不和的起因。
在中等科時期的直哉並不是一位認真的學生,他在第三年和第六年分別落榜兩次。直哉解釋說,落榜是因為「品行分數不佳」。例如在課堂上,他會因為口中積聚了唾沫而隨意站起來,打開窗戶朝著操場吐唾沫,這種在教室裡的不安定行為導致他得到了低分。由於落榜,他在第二次的第六年級時與比他年輕兩歲的武者小路實篤成為同班同學。儘管中途直哉因文學上的爭議向武者小路發出絕交信,但他們最終成為終生的朋友。
在1897年(明治30年)左右,直哉因為認為對華族女學校的女學生的態度不當,與有島生馬、松方義輔一起打了下級生滋野清武。這件事被記錄在《打人的故事》中。滋野後來退學於學習院,成為了一名飛行員。
1903年(明治36年),直哉進入學習院高等科。在高等科期間,直哉對女義太夫非常熱衷,這成為他決心成為小說家的契機。他看了女義太夫昇之助的公演後深受感動,後來回憶說他想要「(像昇之助一樣)用自己擅長的某件事來感動人」,對他來說「那就是創作小說」。那時候,直哉正在熱衷於閱讀安徒生的童話,並受其影響創作了《菜花與小姑娘》。一般認為直哉的處女作是《某個早晨》,但在後來,直哉回憶這部作品是「另一種意義上的處女作」。另外,1906年(明治39年)1月,祖父直道去世。
1938年(昭和13年)3月,直哉搬家到東京淀橋區諏訪町的租房。雖然直哉喜歡奈良的生活,但為了讓兒子在東京接受教育,他兩年前讓兒子直吉參加學習院的轉學考試,並寄宿在妹妹実吉英子家中上學。首先在1937年(昭和12年)10月,康子夫人帶著留女子、田鶴子、貴美子上京,與直吉一起搬進租房。次年3月,剛從女學校畢業的寿々子和万亀子以及直哉加入。
1937年(昭和12年)9月,改造社開始出版《志賀直哉全集》共9卷,於次年6月完結。直哉在最後一期的月報中發表了「全集完結」的短文,宣布以全集的完成為契機,暫時退出文壇,不再撰寫琐碎的文字。直哉對日本自支那事變以來的戰局報道感到憤怒,無法寫作,因為不滿可能會流露在文字中。直哉在下落合租了一間公寓用於工作,並開始熱衷於油畫,這讓他從憂鬱的情緒中得到了解脫。1939年(昭和14年)前後,他受到胆石的折磨。1940年(昭和15年)5月,他在世田谷區新町購買了房子並搬遷。賣掉奈良的房子後,直哉非常喜歡新居,並重新開始寫作。1941年(昭和16年),他發表了記錄與直吉在京都、奈良、北陸旅行經歷的《早春的旅》。
在太平洋戰爭中的1942年(昭和17年)2月17日,直哉的「新加坡陷落」透過電台朗讀播放,並在3月號的《文藝》雜誌上重印。這是應日本廣播協會的邀請而寫的,內容讚揚了新加坡之戰的勝利。但就在那之後不久,直哉從經常出入鈴木家的門下生網野菊那裡聽到鈴木貫太郎的話「日本不論是贏是輸,都會淪為三等國」,從那以後直到戰爭結束的三年半,他幾乎保持沉默。這件事後來在戰後發表的隨筆「鈴木貫太郎」中有記載,表達了他對鈴木內閣能結束戰爭的期望。同時,在戰時,広津和郎住在附近,經常來訪,広津表示「談話幾乎總是關於同樣的事情。都是關於這場毫無遠見的戰爭是怎麼開始的,以及希望這場戰爭能夠盡快結束」,這表明在沉默期間,直哉可能已經轉向反戰立場。
隨著戰敗的臨近,直哉應外務大臣(當時)重光葵的意願,與安倍能成、加瀨俊一、田中耕太郎、谷川徹三、富塚清、武者小路實篤、山本有三、和辻哲郎一起組成了「三年會」。這是一個為了討論戰敗後防止國內混亂的會議。這個「三年會」戰後發展成為「同心會」,直哉和其他「同心會」成員深入參與了雜誌《世界》的創刊。
1955年(昭和30年),直哉搬到了渋谷常盤松。同年,岩波書店開始出版《志賀直哉全集》,但常盤松時期的直哉變得更加少產。1958年(昭和33年),他撰寫了兩篇處理時事問題的文章。2月,他在朝日新聞上發表了關於紀元節復活討論的個人觀點。11月,出於對追蹤松川審判的門下生広津和郎的信任,他為《中央公論》緊急增刊「松川審判特別號」貢獻了「專題序言」。然而之後,直哉幾乎只寫一些應邀的新年稿件。1969年(昭和44年)2月23日在朝日新聞PR版上發表的隨筆「尼羅河的一滴水」成為了他作為作家的最後活動。
1971年(昭和46年)10月21日上午11時58分,因肺炎和老衰在關東中央醫院過世。23日在代代幡斎場火化,26日在青山葬儀所進行的葬禮和告別式,按照本人的願望以無宗教方式舉行。國立音樂大學鋼琴科的孫女柳美和子(四女萬亀子的女兒)在鋼琴演奏中,葬禮委員長里見弴發表了悼詞,東大寺的上司海雲和橋本聖準念經,隨後進行了獻花。另外,趕到葬禮的86歲的武者小路實篤,臨時無稿地向遺像發表悼詞,但因聲音細小,幾乎沒有人能聽清。遺骨被安放在濱田庄司制作的骨壺中,葬於青山靈園,但在1980年(昭和55年)遭竊後下落不明。
1996年(平成8年),次子直吉將許多手稿類資料捐贈給日本近代文學館,2016年(平成28年)也有書信和照片被捐贈。曾經居住過的我孫子市的白樺文學館公開展示了直哉的手稿、書信和相關物品。另外,根據家族和弟子的協議,像芥川龍之介的「河童忌」、太宰治的「櫻桃忌」那樣的逝世紀念活動並未舉行。
1.
"幸福というものは受けるべきもので、求めるべき性質のものではない。求めて得られるものは幸福にあらずして快楽なり。"
幸福是應該得到的東西,而不是應該尋求的東西。你所尋求和得到的不是幸福而是快樂。
2.
"金は食っていけさえすればいい程度にとり、喜びを自分の仕事の中に求めるようにすべきだ。"
你應該有足夠的錢來維持生活,並在工作中尋找樂趣。
3.
"読んだだけ、聞いただけがただ残っていくという意味の物知りがいる。これは知恵というものにはならない。"
有知識的人是指只留下讀過或聽過的東西。這不是智慧。
4.
"大地を一歩一歩踏みつけて、手を振って、いい気分で、進まねばならぬ。急がずに、休まずに。"
我們要一步步踏上大地,揮揮手,懷著美好的心情繼續前進。不要著急,但也不要停歇。
5.
"幸福は弱く、不幸は強い。"
幸福是弱的,不幸是強的。
6.
"仕事は目的である。仕事をはっきりと目的と思ってやっている男には、結果は大した問題ではない。"
工作是有目的的。對於一個懷著明確目標做事的人來說,結果並不重要。
7.
"くだらなく過ごしても一生。苦しんで過ごしても一生。苦しんで生き生きと暮らすべきだ。"
即使你的一生毫無價值。一生受苦。你應該受苦,過著充實的生活。
8.
"自己嫌悪がないということは、その人が自己を熱愛することのない証拠である。自己に冷淡であるからだ。"
沒有自我憎恨就證明一個人沒有熱情地愛自己。因為他們對自己冷酷無情。
9.
"自分を熱愛し、自分を大切にせよ。"
愛自己,照顧好自己。
10.
"素人か玄人かは、その仕事に対する作者の打込み方の相違だ。"
一個作者是業餘愛好者還是專家,取決於作者對作品的奉獻精神。
11.
"すぐれた人間の仕事、する事、言う事、書く事、何でもいいが、それに触れるのは実に愉快なものだ。"
傑出人士的作品,他們做什麼、說什麼、寫什麼,不管他們做什麼,接觸起來真的很有趣。
12.
"過去は過去として葬らしめよ。"
讓我們把過去當作過去來埋葬吧。
13.
"科学が無制限に発達するという事が困る。人間の特性というものは、これに伴って、進歩しないものだから。"
令人不安的是,科學可以無限制地發展。人類的特徵就是他們不會進步。
14.
"一つの考えというものは正しいか正しくないかだけで評価できない。正しい考えであって、しかも一顧の価値さえないものあるし、間違っていても価値を認めないわけにはいかぬ考えというものがある。"
一個想法不能僅僅透過它是對還是錯來評價。有些想法是正確的,但根本不值得考慮;有些想法是錯誤的,但不能否認其價值。
15.
"誰にでも天賦はなにかしらある。これをやるために生まれてきたみたいな何かが。なかなか見つからないけど、それを見つけたら、焦ることはない。"
每個人都有某種天賦。就好像我生來就是為了做這件事。很難找到,但是一旦找到了,就不用擔心了。
16.
"自分に才能を与えてくれるなら、寿命を縮めてもいい。"
如果能賦予我天賦,我不介意縮短我的壽命。
17.
"心の貧しいことほど、惨めな状態があろうか。"
還有比精神匱乏更痛苦的狀態嗎?
18.
"今の時代では色々なものが非常な進み方をしている。進みすぎて手に負えず、どうしていいか分らずにいる。思想の対立がそれであり、科学の進歩がそれである。"
當今世界,許多事情都在以驚人的方式發展。事情進展得太過分了,已經失控了,我不知道該怎麼辦。這就是思想的衝突,這就是科學的進步。
19.
"自分にも同じものが何処かにある、それを眼覚まされる。精神がひきしまる。こうしてはいられないと思う。仕事に対する意志を自身はっきり感ずる。"
這讓我意識到我身上的某個地方也存在著同樣的東西。我的精神繃緊了。我想我不能這樣生活。對自己的工作意願有清楚的認識。
20.
"お嫁に行けるような、ひとりまえのからだになった時、女は一ばん美しい。"
當一個女人成為一個成熟的女人並準備結婚時,她是最美麗的。
21.
"人生を解釈する上に非常に便利な思想というものは、その便利さで身を滅ぼす。便利さが新たな努力を麻痺させるからだ。"
那些對解釋生命極為有用的思想,卻會因為它們的便利而自我毀滅。因為便利會使新的努力陷入癱瘓。