"和泉式部は 、平安時代中期の歌人である、後に紫式部(『紫式部日記』)に「口に任せたることどもに、必ずをかしき一節の、目にとまる詠み添へ侍り」と言われているため、「天才肌の歌人」というイメージが定着している。しかし、一方で、彼女は先行詩歌から表現や歌材、詠出手法を学んでいた痕跡も窺える。"
"和泉式部,平安時代才華洋溢的和歌詩人,在《紫式部日記》中被紫式部稱為“口中隨意說出的話中,總有動人的一句引人注目的吟詠”,和泉式部代表著日本思想文學“天才型詩人”的形象。從她的作品中可以看出,她承襲早前時代詩歌的表達、歌材和詠詩方法的痕跡。"
"和泉 式部(いずみ しきぶ、天元元年〈978年〉頃 - 没年不詳)は、平安時代中期の歌人である。越前守・大江雅致の娘。百人一首の歌人であり、中古三十六歌仙そして女房三十六歌仙の一人でもある。
本名そして正確な生没年ともに不明である。和泉式部の「式部」は、雅致が文章生出身の式部丞だったからであるとする説が存在する。
『正集』には春夏秋冬+恋に部立された「百首歌」が見えるが、これは橘道貞との婚姻以前の正暦4年(993年)前後に詠まれたと考えられている。
長保元年(999年)頃までに和泉守・橘道貞の妻となった。この婚姻は、父・雅致が計ったものであったとされる。後の女房名「和泉式部」は夫の任国・和泉国と父の官名を合わせたものである。長徳3年(997年)〜長保元年(999年)の間には娘の小式部内侍が誕生している。『正集』によれば、この頃に「幼き稚児(小式部内侍)の病みけるを、あはれと思ふべき人」に対して歌を送っているが、この人物は橘道貞と見られ、和泉式部と小式部内侍は同居して京都におり、道貞のみが和泉国へ下向していたと考えられる[3]。和泉国に下向した後の橘道貞と和泉式部は、歌を送り合っており、また、長保元年(999年)には、橘道貞亭で一家をあげて太皇太后・昌子内親王の看病に当たっていたため、この時点では2人の夫婦関係は良好であったと見られる。
道貞との婚姻は後に破綻した(後述するように離婚状態にはなっていなかった)が、小式部内侍は母譲りの歌才を示した。
冷泉天皇の第三皇子・為尊親王との熱愛が世に喧伝されるが、身分違いの恋であるとして親から勘当を受けた。
為尊親王の死後、今度はその同母弟・敦道親王(帥宮)の求愛を受けた。親王は和泉式部を邸に迎えようとし、正妃(藤原済時の娘)が家出する原因を作った。また、源雅通との交流も『正集』に見え、歌の内容からして、一時恋愛関係にあったと見られ、加えて、『和泉式部日記』では「治部卿(源俊賢か)」の存在も噂されている。為尊親王が和泉式部を伴い、藤原公任の白川にあった別業を訪ねているが、『公任集』には和泉式部を「道貞妻」と記されており、正式には未だ橘道貞と和泉式部が結婚状態にあると認識されていたことがわかる。同じく『公任集』によれば、和泉式部は、寛弘元年(1004年)に道貞が陸奥守となり陸奥国に下向する際に歌を贈ったと記されている。和泉式部は敦道親王の召人として一子・石蔵宮永覚を儲けるが、敦道親王は寛弘4年(1007年)に早世した。寛弘年間の末(1008年 - 1011年頃)、一条天皇の中宮・藤原彰子に女房として出仕。長和2年(1013年)頃、主人・彰子の父・藤原道長の家司で武勇をもって知られた藤原保昌と再婚し夫の任国・丹後に下った。保昌は左馬頭でもあったため、上京している際は1人で丹後に滞在していた。
詳しい晩年の動静は不明である。万寿2年(1025年)に小式部内侍が病死した折には多くの哀傷歌を残しており、和泉式部集に収録されているものが年代の判明している中では最後の詠歌である。
貴船神社にて詠まれた歌「物思へば沢の蛍を(も)わが身よりあくがれにける(出づる)魂かとぞ見る」の詠歌背景を『沙石集』などでは保昌に捨てられてのこととし保昌との結婚生活も破綻したとすることもあるが、『後拾遺和歌集』での初出時の詞書は単に「男に忘られて侍りけるころ」とあり、これが誰を指すのかは不明である。
『古本説話集』には小式部内侍を喪ったのち、性空上人に「暗きより暗き道にぞ入りぬべき 遙かに照らせ山の端の月」の和歌を送り、返しに袈裟を賜り亡くなる際にそれを着て往生したという説話が掲載されている。ただし性空は万寿以前の寛弘4年(1007年)に遷化しており、「暗きより」の歌も性空への結縁歌ではあるが、実際には娘時代に読まれた歌で寛弘年間に成立した拾遺和歌集を初出とし、あくまで伝承である点に留意は必要である。
同様の伝承は『誓願寺縁起』にもあり、性空上人の教えをもとに誓願寺に入ると、本尊の阿弥陀如来に帰依して出家し、専意法尼という戒名を授かったという。
誠心院(せいしんいん)の寺伝によると、万寿4年(1027年)に専意法尼(和泉式部)が長年仕えてきた上東門院(藤原彰子)が、父の藤原道長に専意法尼のために一宇を建立するように勧めると、道長は法成寺の塔頭・東北院の一角(現・京都御所の東、荒神口辺り)にお堂・小御堂を建立して「東北院誠心院(じょうしんいん)」と名付け、専意法尼を初代住職とさせた。これが誠心院の起こりであるという。ただし実際には東北院創建以前に道長はすでに死去している。
『古今和歌集』では、「恋し」「恋す」などの恋の感情・行為の主体は男性であると決まっており、『後撰和歌集』や『拾遺和歌集』でもそれは変わらなかった。 しかし、以上のような平安和歌世界において、突出していたのが和泉式部であった。題詠においても、贈答歌においても、「恋し」「恋す」などの恋愛における主体的な言葉を多く用いており、男性中心の言葉を自在に詠みこなす点が、突出した女流歌人であったと言える理由の一つであった。
和泉式部は、後に紫式部(『紫式部日記』)に「口に任せたることどもに、必ずをかしき一節の、目にとまる詠み添へ侍り」と言われているため、「天才肌の歌人」というイメージが定着している。しかし、一方で、彼女は先行詩歌から表現や歌材、詠出手法を学んでいた痕跡も窺える。
『正集』の冒頭には春夏秋冬+恋という部立が設けられた「百首歌」が見られるように、和泉式部は「曽禰好忠や源重之、源重之女の「百首歌(いわゆる「初期百首」)」を学んでおり、彼らの歌に類似しながらも、詠まれた世界は異なるという彼女の力量を著した歌を『正集』に残している。和泉式部は「百首歌」によって、百首歌人の「先行歌に対し、ある時は歌材やその境地を共有し、ある時は新たな要素を付加して展開させ、ある時は反発してみせる」という作歌手法や、『万葉集」以降の先行歌を徹底的に学ぶ姿勢の影響を受けている。
和泉式部は『後撰和歌集』も学んでおり、天智天皇の「秋の田のかりほのいほの苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ」の歌を基にした「秋の田の庵にふける苫をあらみもりくる露のいやは寝らるる」を詠んでいる。
和泉式部の歌学びは詩歌の世界にも及んでおり、『紫式部日記』に「その方の才ある人、はかない言葉の匂ひも見え侍るめり」とあるように、和泉式部は漢詩文の教養もあり、詩的な世界を下敷きにして作歌してもいる。例えば、「岩躑躅折りもてぞ見る背子が着し紅ぞめの衣に似たれば(正集・十九)」という歌があるが、躑躅は『白氏文集』や『千載佳句』、『和漢朗詠集』などで取り上げられており、漢詩の世界ではポピュラーな景物であった。
この他にも和泉式部は、『万葉集』や『伊勢物語』も学んでいた。『和泉式部続集(続集)』には、ある人から「万葉集しばし(『万葉集』を少しの間お借りしたい)」と申し出があったことが記されている。この時、和泉式部は『万葉集』を所有していなかったが、返答として「かきのもととめず(書き留めていません)」と述べており、「『万葉集』を一旦は手元に置き勉強したこと」、「柿本人麻呂を連想させる返答をしていること」がわかる。『袋草子』には、『伊勢物語』の伝本の中に「泉式部本」があったことが記されている。"
和泉式部(いずみ しきぶ,天元元年〈978年〉左右 - 沒年不詳)是平安時代中期的女歌人。她是越前守大江雅致的女兒,也是百人一首中的歌人,同時也是中古三十六歌仙及女房三十六歌仙之一。
和泉式部的本名以及確切的生年和卒年都不明確。關於“式部”這個名稱,存在一種說法是因為她的父親或者兄長是從事與“式部”相關的官職而得名。
在《正集》中,有春夏秋冬加上戀愛等主題被分類整理的「百首歌」,這被認為是在其與橘道貞結婚前的正曆4年(993年)前後所作。
到了長保元年(999年)左右,和泉式部成了和泉守橘道貞的妻子。這段婚姻被認為是由她的父親雅致所安排的。後來的女房名「和泉式部」是結合了丈夫任職地和泉國和父親的官職命名的。在長德3年(997年)到長保元年(999年)之間,她的女兒小式部內侍出生了。根據《正集》的記録,這段時期她曾寄出一首歌給一位「對於生病的小孩(小式部內侍)感到憐憫的人」,這位人士被認為是橘道貞,當時和泉式部和小式部內侍住在京都,而道貞則下向和泉國。和泉式部與下向和泉國的橘道貞之間透過歌曲保持聯繫,並且在長保元年(999年),因一起照顧太皇太后昌子內親王而全家在橘道貞的住處相聚,所以當時夫妻關係被認為是良好的。
和泉式部與道貞的婚姻後來破裂(如後文所述,他們並未正式離婚),但小式部內侍展現了與母親同樣的詩歌才華。和泉式部與冷泉天皇的第三皇子為尊親王的戀情廣為人知,但由於身分不符,被父母所斥責。
為尊親王過世後,她又接受了他同母弟敦道親王(帥宮)的求愛。親王企圖將和泉式部迎入自己的府邸,導致正妻(藤原済時的女兒)離家出走。此外,她與源雅通的往來也記載於《正集》中,從歌的內容看來,他們可能一度有過戀愛關係。《和泉式部日記》中還提到了“治部卿(可能是源俊賢)”。為尊親王帶著和泉式部訪問藤原公任在白川的別業,《公任集》記載和泉式部為“道貞之妻”,顯示當時社會認為橘道貞和和泉式部仍處於婚姻狀態。根據《公任集》,當道貞於寛弘元年(1004年)成為陸奥守並下放至陸奥國時,和泉式部贈送了歌曲。和泉式部作為敦道親王的召人生下一子石藏宮永覺,但敦道親王於寛弘4年(1007年)早逝。在寛弘年間末(1008年至1011年左右),她在一條天皇的中宮藤原彰子那裡出仕為女房。長和2年(1013年)左右,她再嫁給以武勇聞名的藤原保昌,隨夫遷至任國丹後。由於保昌也是左馬頭,因此在上京時,她獨自留在丹後。
和泉式部的晚年活動並不為人所知。在萬壽2年(1025年)小式部內侍疾病逝世時,她留下了許多悼歌,這些被收錄在《和泉式部集》中,是其中年代可以確定的最後的吟詠。
在貴船神社吟詠的詠歌「思若沢螢出我身目為魂見」在《沙石集》之中,被解釋為是因為被保昌拋棄而成的,婚姻生活也因此破碎。但是,《後拾遺和歌集》中首次發表時的詞書僅僅寫道“被男性遺忘的時候”,具體指的是誰並不明確。
在《古本說話集》中記載了小式部內侍去世後,性空上人被送去的和歌「從黑暗進入更暗的道路應當是月光遙照山邊」,並獲得袈裟作為回禮,在離世時穿上以往生。然而,性空在萬壽之前的寛弘4年(1007年)已經圓寂,「從黑暗進入」這首歌雖然是寄給性空的關係歌,但實際上是在她女兒時代寫的,在寛弘年間成立的《拾遺和歌集》中首次出現,所以這更多是傳說。
《誓願寺緣起》中也有類似的傳說,基於性空上人的教導進入誓願寺,然後依阿彌陀佛為本尊出家,並獲得戒名専意法尼。
誠心院的寺傳記載,於萬壽4年(1027年)専意法尼(和泉式部)長期侍奉的上東門院(藤原彰子)被父親藤原道長建議為専意法尼建造一座寺廟時,道長在法成寺塔頭東北院一角(現京都禦所東,荒神口附近)建立了小禦堂,命名為「東北院誠心院」,並讓専意法尼成為初始住持。這就是誠心院的起源。然而,實際上在東北院建立之前,道長已經去世。
在《古今和歌集》中,“戀し”、“戀す”等關於戀愛的情感和行為主要由男性作為主體,而在《後選和歌集》和《拾遺和歌集》中,這一傳統沒有改變。然而,在平安時代的和歌世界中,和泉式部顯得特別突出。不論是題詠還是贈答歌中,她都大量使用“戀し”、“戀す”等關於戀愛的主動詞,這使得她成為了一位突出的女性歌人。
和泉式部後來被紫式部(在《紫式部日記》中)稱為“隨口說出的話語中,總有吸引人註目的一句”,從而形成了“天才型歌人”的形象。然而,另一方面,她明顯地從之前的詩歌中學習到了表達方式和詠詩技巧。
正如《正集》的序文所展示的那樣,和泉式部學習了像曽禰好忠和源重之這樣的歌人的“百首歌”(所謂的“初期百首”),儘管她的詩歌與他們的作品相似,卻創造了一個不同的世界觀,這展示了她的才華。通過“百首歌”,和泉式部展示了對前人作品的學習態度,有時與先行歌共享題材和境界,有時加入新元素,有時則呈現出反抗,這也是她作為一位出色的女性歌人的原因之一。
和泉式部也研究了《後撰和歌集》,並以天智天皇的「秋田旁的枯草小草屋的茅草覆蓋,相當潮濕,而我的衣袖已被露水沾濕」的歌為基礎,創作了「秋田旁的茅草小草屋,露水濕潤著茅草,使人不忍入睡」的和歌。
和泉式部的詩歌學習也涉及到詩歌的世界。在《紫式部日記》中,有「那個人的才華,甚至使那些短暫的話語也顯得光彩照人」的記載,顯示了和泉式部對漢詩文的教養,並且以詩意的世界為基礎創作和歌。例如,有一首歌「看著山茶花折斷的枝條,就像紅色的衣服一樣」,雖然山茶花在《白氏文集》、《千載佳句》、《和漢朗詠集》等作品中被提及,但在漢詩的世界中卻是一個普遍的景物。
此外,和泉式部還學習了《萬葉集》和《伊勢物語》。在《和泉式部続集》中,記載了有人向她提出「暫時借用《萬葉集》」的請求。當時,和泉式部並不擁有《萬葉集》,但她回答說「並未抄寫下來」,從中可以看出她曾經對《萬葉集》進行研究。在《袋草子》中,記載了《伊勢物語》的版本中有「泉式部本」。
1.
"秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ"
秋田邊的茅草小屋,早已被水氣浸透,就如我的衣袖早已溼透。
2.
"君がため 惜しからざりし いのちさえ 長くもがなと 思ひけるかな"
為了你,我甚至不惜生命,即便我希望我的生命能夠與你長相廝守。
3.
"今はただそよそのことと思ひ出でて忘るばかりの憂きこともがな"
現在我只記得微風和我剛剛忘記的悲傷。
4.
"涙川おなじ身よりはながるれど恋をばけたぬものにぞありける"
淚河從同一個人身上流淌出來,卻有一種無法隱藏的愛。
5.
"夢にだに見で明かしつる暁の恋こそ恋のかぎりなりけれ"
夢中透露的黎明之愛是唯一可以存在的愛。
6.
"はかなしとまさしく見つる夢の世をおどろかで寝る我は人かは"
我真的是睡在轉瞬即逝的夢境中的人嗎?
7.
"あらざらんこの世のほかの思ひ出に今一たびの逢ふこともがな"
我迫不及待地想再次見到這個世界上的其他記憶。
8.
"物おもへば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂かとぞみる"
想到這裡,我看到溪水中的螢火蟲,就好像那是我自己的靈魂一樣。
9.
"枕だにしらねばいはじ見しままに君かたるなよ春の夜の夢"
我知道這是枕邊的夢,但春天的夜,你仍屬於我的夢。
10.
"ねざめする身を吹きとほす風の音を昔は袖のよそに聞きけむ"
以前,你可以聽到風吹撫袖子的聲音。
11.
"世の中に恋といふ色はなけれどもふかく身にしむものにぞありける"
世間沒有所謂的戀愛的顏色,但卻有一種觸動在心中寄居。