"与謝野 晶子(よさの あきこ、正字:與謝野 晶子、1878年〈明治11年〉12月7日 - 1942年〈昭和17年〉5月29日)は、日本の歌人、作家、思想家。本名は与謝野 志やう(よさの しょう)。旧姓は鳳(ほう)。ペンネームの「晶子」の「晶」は、本名から取ったもの。夫は、同じく歌人の与謝野鉄幹。
雑誌『明星』に短歌を発表しロマン主義文学の中心的人物となった。
鳳志やうは、堺県和泉国第一大区甲斐町(現在の大阪府堺市堺区甲斐町東1丁・甲斐町西1丁)で老舗和菓子屋「駿河屋」を営む、父・鳳宗七、母・津祢の三女として生まれた。家業は没落しかけており、3人目の女の子であったため両親から疎まれて育つ。 実の兄にはのちに電気工学者となる鳳秀太郎がいた。9歳で漢学塾に入り、琴・三味線も習った。堺市立堺女学校(現・大阪府立泉陽高等学校)に入学すると『源氏物語』などを読み始め古典に親しんだ。また兄の影響を受け、「十二、三のころから、『柵草紙』(後には『めざまし草』)『文学界』や紅葉、露伴、一葉などの小説を読むのが一番の楽しみ」(『明星』1906年5月)であった。16歳の時には、『文芸倶楽部』に鳳晶子の名前で投稿した短歌が載った。
20歳ごろより店番をしつつ和歌を投稿するようになる。浪華青年文学会に参加の後、1900年(明治33年)、浜寺公園の旅館で行なわれた歌会で歌人・与謝野鉄幹と不倫の関係になり、鉄幹が創立した新詩社の機関誌『明星』に短歌を発表。翌年家を出て東京に移り、女性の官能をおおらかに謳う処女歌集『みだれ髪』(鳳晶子)を刊行し、浪漫派の歌人としてのスタイルを確立した。のちに鉄幹と結婚、子供を12人出産している。
1904年(明治37年)9月、『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表。大町桂月との間にこの詩をめぐって論議がおこった。1911年(明治44年)には史上初の女性文芸誌『青鞜』創刊号に「山の動く日きたる」で始まる詩を寄稿した。1912年(明治45年)、晶子は鉄幹の後を追ってフランスのパリに行くことになった。洋行費の工面は、森鴎外が手助けをし、また『新訳源氏物語』の序文を書いた鴎外がその校正を代わった。同年5月5日、読売新聞が「新しい女」の連載を開始し、第一回に晶子のパリ行きを取り上げ、翌6日には晶子の出発の様子を報じた。翌6月の『中央公論』では、晶子の特集が組まれた。敦賀港から船でロシアのウラジオストク港へ渡りウラジオストク駅からシベリア鉄道に乗りモスクワ経由でパリへ旅立った。その際に詠んだ 「いざ、天の日は我がために金の車をきしらせよ、 颶風の羽は東より いざ、こころよく我を追へ。黄泉の底まで、なきながら、 頼む男を尋ねたる、その昔にもえや劣る。 女の恋のせつなさよ。晶子や物に狂ふらん、 燃ゆる我が火を抱きながら、 天がけりゆく、西へ行く、 巴里の君へ逢ひに行く。与謝野晶子」と書かれた石碑がウラジオストクの極東連邦大学東洋学院の敷地にある。
5月19日、シベリア鉄道経由でパリに到着した晶子は、9月21日にフランスのマルセイユ港から貨客船「平野丸」で帰国の途につくまでの4か月間、イギリス、ベルギー、ドイツ、オーストリア、オランダなどを訪れた。また帰国してから2年後、鉄幹との共著『巴里より』で、「(上略)要求すべき正当な第一の権利は教育の自由である。」と、女性教育の必要性などを説いた。
1921年(大正10年)に建築家の西村伊作と、画家の石井柏亭そして夫の鉄幹らとともにお茶の水駿河台に文化学院を創設する。男女平等教育を唱え、日本で最初の男女共学を成立させる。晶子は学監として女子教育を実践した。
子だくさんだったが、鉄幹の詩の売れ行きは悪くなる一方で、彼が大学教授の職につくまで夫の収入がまったくあてにならず孤軍奮闘した。来る仕事はすべて引き受けなければ家計が成り立たず、歌集の原稿料を前払いしてもらっていたという。多忙なやりくりの間も、即興短歌の会を女たちとともに開いたりし、残した歌は5万首にも及ぶ。『源氏物語』の現代語訳『新新源氏』、詩作、評論活動とエネルギッシュな人生を送り、女性解放思想家としても巨大な足跡を残した。
1940年4月、京都の鞍馬山で行われる鉄幹の法要に出席のため関西に行き、旅から帰ってきたのち5月に脳出血で右半身不随になり、1942年(昭和17年)1月4日意識不明になる。同年5月29日、狭心症に尿毒症を併発し、荻窪の自宅で死去。享年65(満63歳没)。同年6月1日に青山斎場で彼女の葬儀・告別式が営まれ、高村光太郎が弔辞を読み上げ、堀口大學が挽歌を捧げた。戒名は白桜院鳳翔晶燿大姉。墓は多磨霊園にある。毎年堺市にある覚王寺では命日に、「白桜忌(はくおうき)」という法要がいとなまれている。
情熱的な作品が多いと評される歌集『みだれ髪』(1901年)や、日露戦争の時に歌った『君死にたまふことなかれ』が有名である。『源氏物語』の現代語訳でも知られる。
歌集『みだれ髪』では、女性が自我や性愛を表現するなど考えられなかった時代に女性の官能をおおらかに詠い、浪漫派歌人としてのスタイルを確立した。伝統的歌壇から反発を受けたが、世間の耳目を集めて熱狂的支持を受け、歌壇に多大な影響を及ぼすこととなった。所収の短歌にちなみ「やは肌の晶子」と呼ばれた。
1904年(明治37年)9月、半年前に召集され日露戦争の旅順攻囲戦に予備陸軍歩兵少尉として従軍していた弟を嘆いて『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表した。なお、晶子の弟の鳳籌三郎は日露戦争から帰還し、1944年(昭和19年)まで生きているが、彼の所属した歩兵第8連隊はこの詩が詠まれた頃は遼陽会戦を戦っており、旅順攻囲戦には参戦していない可能性が高い。
その3連目で「すめらみことは戦いに おおみずからは出でまさね(天皇は戦争に自ら出かけられない)」と唱い、晶子と親交の深い歌人であった文芸批評家の大町桂月はこれに対して「家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしといふは、余りに大胆すぐる言葉」と批判した。晶子は『明星』11月号に『ひらきぶみ』を発表、「桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠君愛国の文字や、畏おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候はずや」と非難し、「歌はまことの心を歌うもの」と桂月に反論した。
大町桂月は『太陽』誌上で論文『詩歌の骨髄』を掲載し「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」と激しく非難したが、夫・与謝野鉄幹と平出修の直談判により、桂月は「詩歌も状況によっては国家社会に服すべし」とする立場は変えなかったものの、晶子に対する「乱臣賊子云々」の語は取り下げ、論争は収束する。この後、1925年(大正14年)6月11日、桂月は57歳で病没するが、『横浜貿易新報』に晶子は追憶をよせた。
この騒動のため晶子は「嫌戦の歌人」という印象が強いが、1910年(明治43年)に発生した第六潜水艇の沈没事故の際には、「海底の 水の明りにしたためし 永き別れの ますら男の文」等約十篇の歌を詠み、第一次世界大戦の折は『戦争』という詩のなかで、「いまは戦ふ時である 戦嫌ひのわたしさへ 今日此頃は気が昂る」と極めて励戦的な戦争賛美の歌を作っている。満州事変勃発以降は、戦時体制・翼賛体制が強化されたことを勘案しても、満州国成立を容認・擁護し、1942年(昭和17年)に発表した『白櫻集』で、以前の歌「君死にたまうことなかれ」とは正反対に、戦争を美化し、鼓舞する歌を作った。例えば、「強きかな 天を恐れず 地に恥ぢぬ 戦をすなる ますらたけをは」や、海軍大尉として出征する四男に対して詠んだ『君死にたまうことなかれ』とは正反対の意味となる「水軍の 大尉となりて わが四郎 み軍にゆく たけく戦へ」など。このようなことから、反戦家としては一貫性がなかった。
日露戦争当時に「幸徳秋水の反戦論は大嫌いだ」と公言しているが、大逆事件では秋水ら死刑になった十二人に「産屋なる わが枕辺に 白く立つ 大逆囚の 十二の棺」という歌を1911年(明治44年)3月7日に『東京日日新聞』に発表している。刑死者の一人大石誠之助は『明星』の同人で関わりも深く、また女性でただ一人死刑となった管野スガは未決在監中に弁護士・平出修に晶子の歌集の差し入れを頼んでいるが、晶子は直接差し入れなかったことの悔恨を小林天眠への手紙に残している。
1911年(明治44年)に『青鞜』発刊に参加。『そぞろごと』で賛辞を贈って巻頭を飾り、「新しい女の一人」として名を寄せた。同年、文部省と内務省が文芸作品の顕彰と称し、諮問機関・文芸委員会を作ったことに対し、晶子は「栄太郎 東助といふ 大臣は 文学をしらず あはれなるかな」と皮肉に満ちて批判的な歌を作っている。文芸委員会に対しては、夏目漱石も「最も不愉快な方法で行政上に都合のいい作品のみを奨励するのが見えすいている」と言っている。
1915年(大正4年)12月12日の読売新聞に『駄獣の群』という国会や議員に対する不信を詠う長詩を発表した。また、晶子は婦人参政権を唱え、『婦選の歌』を作っている。この歌は山田耕筰作曲で第一回全日本婦選大会において披露された。
1924年(大正13年)文化学院、専門学校および高等専修学校式歌(校歌)「賀頌」作詞。作曲は山田耕筰。
2014年(平成25年)に発見された未発表の歌では、日中戦争の拡大を憂いて「秋風やいくさ初(はじ)まり港なるたゞの船さへ見て悲しけれ」と詠んでいる。「たゞの船」とは民間の商船のこと。1937年(昭和12年)8月13日、横浜港で扇子にしたためたという。
晶子が34歳のとき『新訳源氏物語』を四冊本として出したが、拠り所とした北村季吟の『湖月抄』には誤りが多く、外遊の資金調達のために急ぎ、また、校訂に当たった森鷗外は『源氏物語』の専門家でないなど欠陥が多いものだった。そのため、一からやり直し、源氏54帖のうち最後の『宇治十帖』を残すまで書き上げたが、関東大震災のために文化学院にあった原稿が灰になってしまう。またも一からやり直し、さらに17年かけて6巻本『新新訳源氏物語』を完成させる。1938年(昭和13年)10月より刊行し、翌年9月に完結した。
詳細は「与謝野晶子訳源氏物語」および「源氏物語礼讃歌」を参照
晶子は短歌や詩、評論以外に「童話、美文」も手掛けている。『環の一年間』『八つの夜』『うねうね川』『行って参ります』などのおとぎ話や童話集のほかに、数多くの童話や少女小説風な物語などを雑誌に発表している。こうした作品の執筆期間は、現在わかっているだけで、1907年(明治40年)から1925年(大正14年)まで、実に20年近い。
晶子は日露戦争後から新聞や雑誌に警世の文を書くようになり、社会問題・婦人問題に関した評論活動をはじめる。評論は「女性の自立論」と「政治評論」に分類できる。教育問題なども評論している。渡欧から帰国し、境時代に蓄積してきた東洋思想に、西洋近代哲学を移入し晶子の思想的基盤が構築されていった。東洋思想については「荘子」「列子」など、西洋思想についてはアリストテレス、R・デカルト、F・W・ニーチェなどの思想による人間学的考察を行い、晶子特有のユニークな人間観を形成した。そしてこうした思想が評論活動につながっていく。1915年(大正4年)1月から総合誌『太陽』誌上の「婦人界評論」に長文の連載を、1916年(大正5年)9月からは「横浜貿易新報」に特別寄稿家として連載を開始する。
女性の自立論
1912年(明治45年)5か月間の渡欧体験で、自立した女性たちを間近見た体験はその後の「母性保護論争」の下地となった。
晶子は「女性が自分で自己鍛錬・自己修養し、人格陶冶すること」を説いた。これは英米思想的な個人主義である。また、数学が大変得意であり、「女性も自然科学を学ぶべき」と主張した。
反良妻賢母主義を危険思想だと見ていた文部省の取り締まり強化に対し、妊娠・出産を国庫に補助させようとする平塚らいてうの唱える母性中心主義は、形を変えた新たな良妻賢母にすぎないと論評し、平塚らいてう、山田わからを相手に母性保護論争を挑んで「婦人は男子にも国家にも寄りかかるべきではない」と主張した。ここで論壇に登場した女性解放思想家・山川菊栄は、保護(平塚)か経済的自立(与謝野)かの対立に、婦人運動の歴史的文脈を明らかにし、差別のない社会でしか婦人の解放はありえないと社会主義の立場で整理した。文部省の意向とは全く違う次元で論争は終始した。
政治評論
晶子は反共産主義、反ソ連の立場から論陣を張った。その論文の数は、実に20本を越える。『君死にたまふことなかれ』を前面に出してはいたが、前述のように一貫性がなく、当時『労農主義』として紹介されていたマルクス・レーニン主義も批判していた。
シベリア出兵を「日本の領土的野心を猜疑され、日露戦争の外債による国民生活の疲弊を再び起こす」と反対している。また、米騒動に関して『太陽』誌上に「食料騒動について」という文を書き、その中で当時の寺内内閣の退陣を要求している。
教育評論と学校創立
晶子は『中央公論』1919年(大正8年)5月号に「教育の国民化を望む」(単行本『激動の中を行く』にした時『教育の民主主義化を要求す』と改題)という文を書いている。各府県市町村に民選の教育委員を設けることを提案している。今の教育は「文部省の専制的裁断に屈従した教育」であるから、それを「各自治体におけるそれらの教育委員の自由裁量に一任」し、それによって「教育が国民自身のものとなる」と主張している。他にも、ヨーロッパの老婦人が若い婦人とさまざまの社会奉仕に努力する姿を見て、日本にも成人教育や社会教育の場を作るよう提言している。
1921年(大正10年)晶子と鉄幹と文化学院を創立する。晶子はそこで教師となる。文化学院では、自由と個性を尊重する人間教育をめざし、自由な服装など校則にしばることなく、文化や芸術で感性を育てる教育をおこなった。カリキュラムは広範囲にわたり、特に芸術関連科目が多く、教員には作曲家や画家など専門家が加わった。最初は中等教育を受ける機会が少ない女子のための中学部から出発し、40名の女生徒が入学した。1923年(大正12年)から男女共学になる。"
與謝野晶子(よさの あきこ,正字:與謝野晶子,1878年〈明治11年〉12月7日 - 1942年〈昭和17年〉5月29日)是日本的歌人、作家、思想家。本名為與謝野志養(よさの しょう)。娘姓是鳳(ほう)。筆名中的「晶子」這一字,取自她的本名。
她的丈夫也是歌人,名叫與謝野鐵幹。她在雜誌《明星》發表短歌,成為浪漫主義文學的核心人物。鳳志養出生於堺縣和泉國第一大區甲斐町(現在的大阪府堺市堺區甲斐町東1丁・甲斐町西1丁[註釋1]),在老字號和菓子店「駿河屋」的家庭中,父親鳳宗七、母親津祢的第三個女兒。家業正處於衰落階段,作為第三個女兒,她在父母的冷落下成長。她的親兄弟鳳秀太郎後來成為電機工程師。
9歲時進入漢學塾學習,也學習了琴和三味線。進入堺市立堺女學校(現大阪府立泉陽高等學校)後,開始閱讀《源氏物語》等古典文學作品,並受到兄長的影響,「從十二、三歲開始,讀《柵草紙》(後來的《めざまし草》)、《文學界》以及紅葉、露伴、一葉等小說是最大的樂趣」(《明星》1906年5月)。16歲時,以鳳晶子的名義在《文藝俱樂部》上發表了短歌。
20歲左右開始一邊看店一邊投稿和歌。參加了浪華青年文學會之後,於1900年(明治33年),在濱寺公園的旅館舉行的歌會上,與歌人與謝野鐵幹發生了婚外情,並在鐵幹創立的新詩社機關誌《明星》上發表短歌。次年離家前往東京,發表了女性官能豪放的處女歌集《亂髮》(鳳晶子),確立了浪漫派歌人的風格。後來與鐵幹結婚,共生育了12個孩子
。1904年(明治37年)9月,在《明星》上發表了《君死にたまふことなかれ》。詩與大町桂月之間引發了論爭。1911年(明治44年),她在史上首本女性文藝雜誌《青鞜》創刊號上發表了以「山の動く日きたる」為開頭的詩。1912年(明治45年),晶子跟隨鐵幹前往法國巴黎。出國費用由森鷗外協助,並且森鷗外還代替她校對了《新譯源氏物語》的序文。同年5月5日,《讀賣新聞》開始連載「新しい女」,第一回就提到了晶子去巴黎的事,隔天報導了晶子的出發情況。6月的《中央公論》則組織了晶子的特輯。
她從敦賀港乘船前往俄羅斯的符拉迪沃斯托克港,再從那裡乘坐西伯利亞鐵路經由莫斯科前往巴黎。在這期間,她寫下了「いざ、天の日は我がために金の車をきしらせよ、颶風の羽は東よりいざ、こころよく我を追へ。黄泉の底まで、なきながら、頼む男を尋ねたる、その昔にもえや劣る。女の恋のせつなさよ。晶子や物に狂ふらん、燃ゆる我が火を抱きながら、天がけりゆく、西へ行く、巴里の君へ逢ひに行く。与謝野晶子」と刻在符拉迪沃斯托克極東聯邦大學東洋學院的石碑上。
5月19日,晶子經西伯利亞鐵路到達巴黎,並在那裡待了4個月,期間訪問了英國、比利時、德國、奧地利、荷蘭等國。9月21日,她從法國馬賽港乘坐貨客船「平野丸」回國。回國兩年後,與鐵幹合著了《巴里より》,強調女性教育的必要性,「(上略)要求すべき正当な第一の権利は教育の自由である。」1921年(大正10年),與建築師西村伊作、畫家石井柏亭以及丈夫鐵幹等人一起,在御茶之水駿河台創立了文化學院。她提倡男女平等教育,實現了日本首次的男女共學。晶子擔任學監,實踐女子教育。
她有許多孩子,但鐵幹的詩作銷售情況卻一直不佳,直到他成為大學教授,丈夫的收入才變得可靠,她孤軍奮鬥。為了維持家計,她不得不接受所有來的工作,甚至要預先拿到歌集的稿費。在忙碌的調度中,她還與其他女性一起開設即興短歌會,留下的歌達到五萬首之多。她翻譯了《源氏物語》的現代語版《新新源氏》,從事詩作和評論活動,過著充滿活力的生活,並留下了巨大的足跡作為女性解放思想家。
1940年4月,她前往京都的鞍馬山參加鐵幹的法要,回來後的5月,她因腦出血而右半身癱瘓,1942年1月4日陷入昏迷。同年5月29日,她因為狹心症和尿毒症併發,在荻窪的家中去世,享年65歲(實際上63歲)。同年6月1日,在青山斎場舉行了她的葬禮和告別式,高村光太郎宣讀了悼詞,堀口大學獻上了挽歌。她的戒名是白桜院鳳翔晶燿大姐。她的墳墓位於多磨霊園。每年在堺市的覚王寺,都會舉行紀念她逝世的「白桜忌」法要。
她的歌集《亂髮》(1901年)和她在日俄戰爭期間所唱的《君死にたまふことなかれ》非常有名,被認為是充滿激情的作品。在《亂髮》中,她在一個女性不被允許表達自我和性愛的時代,大膽地詠嘆了女性的官能,確立了浪漫派歌人的風格。雖然遭到傳統歌壇的反對,但她吸引了公眾的注意,獲得了熱烈的支持,對歌壇產生了巨大的影響。她因收錄的短歌而被稱為「やは肌の晶子」。
1904年9月,她為了悼念半年前被徵召參加日俄戰爭的駐旅順攻囲戰的預備步兵少尉弟弟,發表了《君死にたまふことなかれ》於《明星》。值得一提的是,晶子的弟弟鳳籌三郎從日俄戰爭中歸來,活到了1944年,但他所在的步兵第8連隊在這首詩被創作時可能正在遼陽會戰,而不是參加旅順攻囲戰。
在詩的第三連中,她唱到「天皇不會親自參加戰爭」,與晶子關係密切的歌人兼文學評論家大町桂月對此進行了批評,稱這是「過於大膽的話語」。晶子在《明星》11月號發表了《ひらきぶみ》,回應桂月的批評,並辯稱「歌應該唱出真實的心」。
大町桂月在《太陽》雜誌上發表了論文《詩歌的骨髄》,激烈地批評晶子的詩,認為應該對她施加國家刑罰。但在與晶子的丈夫與謝野鉄幹和平出修直接談判後,桂月撤回了對晶子的「亂臣賊子」之言,並使爭論平息。1925年6月11日,桂月因病去世,晶子在《橫濱貿易新報》上發表了追憶文章。
儘管晶子給人留下了「反戰歌人」的印象,但在1910年發生的第六潛水艇沉沒事故時,她創作了約十首詩來表達哀悼,在第一次世界大戰期間,她在《戰爭》這首詩中唱道「現在是戰鬥的時候」,表現出極端的戰鬥鼓舞。滿洲事變爆發後,她接受了滿洲國的成立,並在1942年發表了《白櫻集》,創作了美化戰爭的歌。例如,她為即將出征的四男海軍大尉所唱的歌,與之前的《君死にたまうことなかれ》意義相反。因此,作為一名反戰者,她並不一致。
在日俄戰爭期間,她公開表示「非常討厭幸德秋水的反戰論」,但在大逆事件中,當秋水等十二人被判處死刑時,她於1911年(明治44年)3月7日在《東京日日新聞》上發表了一首歌「産屋なる わが枕辺に 白く立つ 大逆囚の 十二の棺」。其中一名被判死刑的大石誠之助與《明星》有深厚的聯繫,而唯一被判死刑的女性管野スガ在未決監禁期間曾請求律師平出修將晶子的歌集帶給她,但晶子並未直接送達,她對此留下了遺憾在給小林天眠的信中。
1911年(明治44年),她參與了《青鞜》的創刊。在《そぞろごと》中送上讚詞,作為「新時代女性」之一獻出她的名字。同年,文部省和內務省為了表彰文藝作品而成立了諮詢機構——文藝委員會,對此晶子創作了充滿諷刺的批評歌「栄太郎 東助といふ 大臣は 文学をしらず あはれなるかな」。夏目漱石也表示,文藝委員會「以最不愉快的方式僅鼓勵對行政有利的作品,其目的明顯」。
1915年(大正4年)12月12日,在讀賣新聞上發表了對國會和議員不信任的長詩《駄獣の群》。此外,晶子也提倡婦女參政權,創作了《婦選の歌》。這首歌由山田耕筰作曲,在第一屆全日本婦選大會上演出。
1924年(大正13年),為文化學院、專門學校及高等專修學校的校歌《賀頌》填詞,作曲者為山田耕筰。
2014年(平成25年)發現了一首未發表的歌,她在這首歌中為日中戰爭的擴大而憂慮,詠道「秋風やいくさ初(はじ)まり港なるたゞの船さへ見て悲しけれ」。這裡的「たゞの船」指的是民間的商船。1937年(昭和12年)8月13日,她在橫濱港用扇子寫下這首歌。
晶子在34歲時出版了四卷本的《新訳源氏物語》,但她依賴的北村季吟的《湖月抄》存在許多錯誤,加上為了籌集出國資金匆忙進行,以及校訂者森鷗外並非《源氏物語》專家,導致了許多缺陷。因此,她重新開始,完成了源氏54帖中最後的『宇治十帖』,但關東大震災導致文化學院的原稿化為灰燼。她再次從頭開始,又花了17年時間完成了6卷本的《新新訳源氏物語》。1938年(昭和13年)10月開始出版,翌年9月完成。
有關詳細信息,請參見「與謝野晶子訳源氏物語」及「源氏物語礼讚歌」。
晶子除了短歌、詩歌和評論外,也創作了「童話、美文」。她發表了《環の一年間》、《八つの夜》、《うねうね川》、《行って参ります》等童話集和許多童話、少女小說風格的故事。這些作品的創作時間至少涵蓋了1907年(明治40年)到1925年(大正14年),長達近20年。
晶子從日俄戰爭後開始在報紙和雜誌上撰寫警世文,開始了與社會問題、婦女問題相關的評論活動。評論可分為「女性自立論」與「政治評論」兩大類。她也評論了教育問題。從歐洲返回後,她將在境時代積累的東方思想與西方現代哲學結合,構建了晶子獨特的思想基礎。關於東方思想,她研究了「莊子」「列子」等,而關於西方思想,她研究了亞里士多德、R·笛卡兒、F·W·尼采等人的思想,進行了人文學的考察,形成了晶子特有的人生觀。這些思想成為了她評論活動的基礎。1915年(大正4年)1月開始在綜合雜誌《太陽》上連載「婦人界評論」,1916年(大正5年)9月開始在《横浜貿易新報》上以特別寄稿家身份連載。
女性的自立論1912年(明治45年)5個月的歐洲之旅,親眼見到自立的女性們,這段經歷成為其後「母性保護論爭」的基礎。晶子主張「女性應該自己鍛鍊和自我修養,培養人格」。這是源於英美的個人主義思想。
同時,她非常擅長數學,堅稱「女性也應該學習自然科學」。對於反對良妻賢母主義並被視為危險思想的文部省加強管制,平塚雷鳥主張的以母性為中心的主義,試圖讓國庫補助懷孕和生育,晶子評論說這不過是換了形式的新良妻賢母而已。她挑戰平塚雷鳥和山田分知進行母性保護論爭,主張「婦女不應該依賴男性或國家」。
登上論壇的女性解放思想家山川菊榮則從社會主義的角度整理了保護(平塚)與經濟自立(與謝野)的對立,並闡明只有在沒有歧視的社會中,婦女的解放才是可能的。這場論爭從始至終都是在文部省的意向之外進行的。政治評論晶子站在反共產主義、反蘇聯的立場上發表論述。她的論文數量超過了20篇。儘管她以《君死にたまふことなかれ》為前提,但如前所述,文章缺乏一致性,她也批評了當時被介紹為「勞農主義」的馬克思-列寧主義。
她反對西伯利亞出兵,認為這會「讓人懷疑日本的領土野心,並可能再次引發因日俄戰爭外債而導致的國民生活疲憊」。此外,她還在《太陽》雜誌上發表了關於米騒動的文章「關於食品騷動」,在其中要求當時的寺內內閣下台。教育評論和學校創立晶子在1919年(大正8年)5月的《中央公論》上發表了「希望教育國民化」的文章(當改為單行本《在激動中前行》時,改題為「要求教育民主化」)。她提議在各府縣市町村設立民選的教育委員。
她認為當前的教育是「屈服於文部省專制裁斷的教育」,應該將其「一任於各自治體的教育委員自由裁量」,從而使「教育成為國民自己的事物」。她也提議,看到歐洲的老年婦女和年輕婦女一起努力進行各種社會服務的景象後,建議在日本創建成人教育和社會教育的場所。1921年(大正10年),晶子和鐵幹共同創立了文化學院。晶子在那裡擔任教師。
文化學院以尊重自由和個性的人文教育為目標,不受校規束縛,如自由的服裝等,進行文化和藝術教育以培養感性。課程範圍廣泛,特別是藝術相關科目,教員中包括了作曲家、畫家等專家。最初是從為少有中等教育機會的女生設立的中學部開始,有40名女學生入學。從1923年(大正12年)開始實行男女共學。
1.
"あゝおとうとよ、君を泣く、君死にたまふことなかれ。"
喔親愛的,我為你哭泣,別讓我死。
2.
"人は刹那に生きると共に永遠にも生きる。"
人只活一瞬間,但也活一輩子。
3.
"創造は過去と現在とを材料としながら、新しい未来を発明する能力です。"
創造力是利用過去和現在作為材料創造新未來的能力。
4.
"夫婦は毎日毎日愛の創作をしているのだ。"
夫妻每天都在創造愛情。
5.
"歌は歌です。誠の心を歌わぬ歌に、何の値打ちがあるでしょう。"
一首歌就是一首歌。一首不唱誠心的歌還有什麼價值?
6.
"才能のある人の間で猛烈な競争をかいくぐってきたたくましさがないと、大きな試合では勝てない。"
如果你沒有能力在人才的激烈競爭中生存下來,你就無法在大型比賽中獲勝。
7.
"目前の動きばかりを見る人たちは『自由は死んだ』と云うかもしれない。しかし『自由』は面を伏せて泣いているのであって、死んでしまったのではない。心の奥に誰もが『自由』の復活を祈っているのです。"
那些只看到眼前發生的事情的人可能會說:“自由已死。”然而,「自由」只是低著頭哭泣,並不是說它已經死了。我們都在內心深處祈禱「自由」的回歸。
8.
"要求すべき正当な第一の権利は教育の自由である。"
第一個合法的要求權利是教育自由。
9.
"若さの前に不可能もなければ、陰影も無い、 それは一切を突破する力であり、一切を明るくする太陽である。"
青春之前沒有不可能,沒有陰影,它是衝破一切的力量,它是照亮一切的太陽。
10.
"私達は久しい間に幾千回の破壊と改造とを自分の恋愛に実行して来たのです。"
多年來,我們已經無數次地摧毀和重塑了我們的愛情生活。
11.
"やは肌の、あつき血汐に、ふれも見で、さびしからずや、道を説く君。"
現在我可以感受到你皮膚上的熱血,你教我如何不感到孤單。
12.
"特別に女子のためとして作られた書物は、すべて女子を低能児たらしめる劣等の書である。"
凡是專為女孩創作的書,都是讓女孩自卑的自卑書。
13.
"世界はすべて濁るとも、日本だけは独り高く浄まりたいと思います。"
即使整個世界變得陰暗,我也希望日本能夠孤獨而純淨。
14.
"わたくしの生活はわたくしの命の焔の舞です。"
我的生命是我生命火焰的舞蹈。
15.
"全く睦まじい夫婦、そんなものが世の中にあろうとは想像も出来ない。"
我甚至無法想像世界上存在著如此完美和諧的夫妻。
16.
"現代に生きようとする勇者は現代に打ち勝たねばならぬ。"
英雄想要生活在現代,就必須戰勝現代。
17.
"悲観、泣き言、不平、皮肉、非難、諦めなどに心を分かつ大人があれば、それは既に「若さ」を失い衰老の域に入った兆候である。"
如果有成年人因悲觀、發牢騷、抱怨、憤世嫉俗、批評、逆來順受等而產生分裂,這表明他們已經失去了“青春”,進入了墮落的境界。
18.
"人間は何事にせよ、自己に適した一能一芸に深く達してさえおればよろしい。"
一個人無論做什麼,只要深刻掌握了適合自己的技能或技巧就足夠了。
19.
"厭々する労働はかえって人を老衰に導くが、事故の生命の表現として自主的にする労働は、その生命を健康にする。"
令人厭惡的工作會讓人變老,但自願從事的工作作為偶然生活的表達,使生活變得健康。
20.
"女と申すもの、誰も戦争は嫌いです。当節のように死ねよ死ねよと言い、また何事も忠君愛国や教育勅語を持ち出して論じる事の流行こそ、危険思想ではないかと考えます。"
作為女人,沒有人喜歡戰爭。現在流行的“死吧死吧”,什麼事情都拿忠義、愛國、教諭來討論,是一種危險的思想。
21.
"20世紀は男女の世紀でありたい。"
我希望20世紀是男人和女人的世紀。