"曲亭 馬琴/滝沢馬琴(きょくてい ばきん/たきざわ ばきん、明和4年6月9日〈1767年7月4日〉- 嘉永元年11月6日〈1848年12月1日〉)は、江戸時代後期の読本作者。本名は滝沢 興邦(たきざわ おきくに、旧字体:瀧澤 興邦󠄂 )、後に解(とく)に改めた。号は著作堂主人(ちょさくどうしゅじん)など。
代表作は『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』。ほとんど原稿料のみで生計を営むことのできた日本で最初の著述家である。
幼名は春蔵のち倉蔵くらぞう、通称は左七郎さしちろう、瑣吉さきち。号は、笠翁りつおう、篁民こうみん、蓑笠漁隠さりつぎょいん、飯台陳人はんだいちんじん、玄同げんどうなど、多くの別号を持った。多数の号は用途によって厳格に使い分けている。「曲亭馬琴」は、戯作に用いる戯号である。
滝沢馬琴たきざわばきんの名でも知られるが、これは明治以降に流布した表記である。教科書や副読本などで「滝沢馬琴」と表記するものがあるが、これは本名と筆名をつなぎあわせた誤った呼び方であるとして近世文学研究者から批判されている。
曲亭馬琴という戯号について、馬琴自身は「曲亭」は『漢書』陳湯伝に「巴陵曲亭の陽に楽しむ」とある山の名、「馬琴」は『十訓抄』に収録された小野篁(野相公)の「索婦詞」の一節「才馬卿に非ずして、琴を弾くとも能はじ」から取っていると説明している。「くるわでまこと」(廓で誠)、すなわち遊廓でまじめに遊女に尽くしてしまう野暮な男という意味の俗諺をもじったという解釈もあるが、青年期に武家の嗜みとしておこなった俳諧で用いていた俳号の「曲亭」と「馬琴」が戯号に転じたもので、「くるわでまこと」を由来とするのは妄説であるという反駁がある。「曲亭馬琴」と組み合わされて明記されるのは、寛政5年(1793年)の『花団子食気物語はなよりだんごくひけものがたり』に付された、山東京伝による序文である。
明和4年(1767年)、江戸深川(現・江東区平野一丁目)の旗本・松平信成の屋敷において、同家用人・滝沢運兵衛興義、門夫妻の五男として生まれる。ただし、兄2人が早世しているため、三男として育った。滝沢家には長兄・興旨、次兄・興春、妹2人があった。
馬琴は幼いときから絵草紙などの文芸に親しみ、7歳で発句を詠んだという。安永4年(1775年)、馬琴9歳の時に父が亡くなり、長兄の興旨が17歳で家督を継いだが、主家は俸禄を半減させたため、翌安永5年(1776年)に興旨は家督を10歳の馬琴に譲り、松平家を去って戸田家に仕えた。次兄の興春は、これより先に他家に養子に出ていた。母と妹も興旨とともに戸田家に移ったため、松平家には馬琴一人が残ることになった。
馬琴は主君の孫・八十五郎やそごろうに小姓として仕えるが、癇症の八十五郎との生活に耐えかね、安永9年(1780年)、14歳の時に松平家を出て母や長兄と同居した。
寛政8年(1796年)、30歳の頃より馬琴の本格的な創作活動がはじまる。この年に耕書堂から刊行された読本『高尾船字文』は馬琴の出世作となった。より通俗的で発行部数の多い黄表紙や合巻などの草双紙も多く書いた。ほぼ同時代に大坂では上田秋成が活躍した。
享和2年(1802年)5月から8月にかけて、馬琴は関西地方を旅行した。大田南畝の紹介状や、山東京伝の書画(売却して旅費に当てる)を受け取り、関西の文人と交流した馬琴は、物語ゆかりの名所をめぐり、また井原西鶴の墓を訪れたりし、私的な旅行記『羇旅漫録』を記している。
享和3年(1803年)には、俳書『俳諧歳時記』を出版した。2600余の季語を収集・分類して解説した事典(季寄せ)であり(俳諧・連歌に関する考証や作法に関する叙述も含む)、こうした季語集を「歳時記」と称した最初の例である。馬琴の『俳諧歳時記』は、従来の季語集が京都中心の記述であったのに対して江戸中心の解説となっているという特色がある。後の嘉永4年(1851年)、『俳諧歳時記』に藍亭青藍が増補した『増補俳諧歳時記栞草』は、広く用いられた。
文化元年(1804年)に刊行された読本『月氷奇縁』は名声を博し、読本の流行をもたらしたが、一方で恩人でもある山東京伝と読本の執筆をめぐって対抗することとなった。文化4年(1807年)から刊行が開始された『椿説弓張月』や、文化5年(1808年)の『三七全伝南柯夢』によって馬琴は名声を築き、他方京伝は読本から手を引いたことで、読本は馬琴の独擅場となった。文化11年(1814年)に『南総里見八犬伝』肇輯じょうしゅうが刊行された。文化13年(1816年)、恩人であり競争相手でもあった京伝が没する。
『南総里見八犬伝』の執筆には、文化11年(1814年)から天保13年(1842年)までの28年を費やし、馬琴のライフワークとなった。
一人息子の興継は、山本永春院に就いて医術を修め、文化11年(1814年)には宗伯と名乗ることを許された。文政元年(1818年)、馬琴は神田明神下石坂下同朋町(現・千代田区外神田三丁目、秋葉原の芳林公園付近)に家を買い、ここに滝沢家当主として宗伯を移らせた。文政3年(1820年)には宗伯が陸奥国梁川藩主・松前章広出入りの医者となった。馬琴の愛読者であった老公・松前道広の好意であった。宗伯が俸禄を得たことで、武家としての滝沢家の再興を悲願とする馬琴の思いの半ばは達せられたが、宗伯は多病で虚弱であった。
文政7年(1824年)、58歳の馬琴は、神田明神下の宗伯宅を増築して移り住み、宗伯と同居した。馬琴は隠居となり、剃髪して蓑笠漁隠と称するようになった。長女・幸に婿養子を迎え、清右衛門と名乗らせて元飯田町の家財一切を譲り、分家させたのもこの時である。
文政7年(1824年)から翌8年(1825年)にかけ、馬琴は、山崎美成とともに文人を集めた「耽奇会」「兎園会」を主宰した。しかし、山崎美成とは「耽奇会」に出品された道具の考証をめぐる対立がエスカレートし、ついには絶交するに至った(けんどん争い)。これらの会の記録として馬琴は『耽奇漫録(5巻本)』『兎園小説』を著し、また独自に集めた奇談を『兎園小説』の外集・別集・拾遺・余録として編纂した。
天保4年(1833年)、67歳の馬琴は右眼に異常を覚え、まもなく左眼もかすむようになる。天保6年(1835年)、宗伯が死去するなど、家庭的な不幸も相次いだ。馬琴は孫の太郎に滝沢家再興の希望を託し、天保7年(1836年)には四谷鉄砲組の御家人株を買っている。御家人株購入のため、馬琴は蔵書を売り、気の進まない書画会を開いた。神田明神下の家も売却して四谷信濃仲殿町(現・新宿区霞ヶ丘町)に移住することとなった。
天保10年(1839年)、73歳の馬琴は失明し、執筆が不可能となった。このため、宗伯の妻・お路が口述筆記をすることとなった。馬琴の作家生活に欠かせない存在になるお路に対して妻のお百が嫉妬し、家庭内の波風は絶えなかった。そのお百も、天保12年(1841年)に没した。
天保12年8月、『八犬伝』の執筆が完結し、天保13年(1842年)正月に刊行される。馬琴は「回外剰筆」において、読者に自らの失明を明かすとともに、お路との口述筆記の辛苦を書き記している。
馬琴はお路を筆記者として『傾城水滸伝』や『近世説美少年録』の執筆を続けたが、これらの完結を見ないまま、嘉永元年(1848年)82歳で死去する。命日の11月6日は「馬琴忌」とも呼ばれる。
法名は著作堂隠誉蓑笠居士。墓所は東京都文京区の深光寺にある。"
曲亭馬琴/瀧澤馬琴(きょくてい ばきん/たきざわ ばきん,明和4年6月9日〈1767年7月4日〉- 嘉永元年11月6日〈1848年12月1日〉)是江戶時代後期的讀本作者。本名是瀧澤興邦(たきざわ おきくに,舊字體:瀧澤興邦󠄂),後來改名為解(とく)。號有著作堂主人(ちょさくどうしゅじん)等。代表作有《椿說弓張月》和《南總里見八犬傳》。
他是日本最早能僅靠稿費維生的作家。幼名是春藏,後改為倉藏(くらぞう),通稱左七郎(さしちろう),瑣吉(さきち)。號有笠翁(りつおう),篁民(こうみん),蓑笠漁隱(さりつぎょいん),飯台陳人(はんだいちんじん),玄同(げんどう)等,擁有許多別號,並根據用途嚴格區分使用。「曲亭馬琴」是他用於戲作的戲號。
瀧澤馬琴的名字也廣為人知,這是明治以後流行的稱呼。教科書或副讀本等有以「瀧澤馬琴」稱呼的,但這種將本名和筆名連結起來的說法被近世文學研究者批評為錯誤。關於戲號「曲亭馬琴」,馬琴本人解釋「曲亭」是從《漢書》陳湯傳中「巴陵曲亭之陽樂」的山名來的,「馬琴」則取自《十訓抄》收錄的小野篁(野相公)「索婦詞」中的一句「非才馬卿,琴雖彈之,不為能也」。雖有解釋為「廓中誠實」(くるわでまこと),即在遊廓中認真對待妓女的笨男人的慣用語,但「曲亭」和「馬琴」是他青年時期作為武家嗜好而使用的俳號,轉為戲號使用,並非源於「廓中誠實」,對此有反駁說法。
「曲亭馬琴」首次被明確組合記載,是在寛政5年(1793年)山東京傳為《花團子食氣物語》所寫的序文中。明和4年(1767年),在江戶深川(現・江東區平野一丁目)的旗本松平信成家中,作為家臣瀧澤運兵衛興義和門夫婦的第五子出生。由於兩位哥哥早逝,因此以三男身份長大。瀧澤家還有長兄興志,次兄興春和兩個妹妹。馬琴自小親近繪本等文藝,7歲時就吟詠了首句。
安永4年(1775年),馬琴9歲時父親去世,長兄興志17歲繼承家督,但因為主家減半俸祿,所以次年興志將家督讓給10歲的馬琴,自己離開松平家,轉去服侍戶田家。次兄興春則早在此之前已被其他家庭收養。母親和妹妹也隨興志一同轉至戶田家,因此馬琴成為松平家中唯一的人。馬琴作為主君孫子八十五郎和其弟的小姓,但由於無法忍受患有癇症的八十五郎,安永9年(1780年),14歲的他離開松平家,與母親和長兄同住。
寛政8年(1796年),30歲左右的馬琴開始了他的正式創作生涯。這一年由耕書堂出版的讀本《高尾船字文》成為馬琴的成名作。他也寫了許多發行量更大、更通俗的黃表紙和合卷等草雙紙。與此同時,大阪有上田秋成的活躍。享和2年(1802年)5月至8月,馬琴遊歷了關西地區。他收到了大田南畝的推薦信和山東京傳的書畫(賣掉以支應旅費),與關西文人交流,馬琴遊覽了與物語有關的名勝,也參訪了井原西鶴的墓地,並記錄了私人旅行日誌《羈旅漫錄》。
享和三年(1803年),出版了俳書《俳諧歲時記》。這本書收集並分類了超過2600個季語,並對其進行了解釋,是一本詞典(季寄),也包括了關於俳諧和連歌的考證與作法的敘述,這是第一次將這類季語集稱為「歲時記」。
與傳統以京都為中心的季語集相比,馬琴的《俳諧歲時記》具有以江戶為中心解釋的特色。到了嘉永四年(1851年),藍亭青藍對《俳諧歲時記》進行了增補,出版了《增補俳諧歲時記栞草》,此書被廣泛使用。文化元年(1804年),出版了讀本《月冰奇緣》,贏得了名聲,引發了讀本的流行。但同時,也因為與恩人山東京傳在讀本的撰寫上展開競爭。
從文化四年(1807年)開始出版的《椿說弓張月》和文化五年(1808年)的《三七全傳南柯夢》,使得馬琴聲名大噪,而京傳則退出了讀本的撰寫,讀本成為了馬琴的獨占領域。文化十一年(1814年),開始出版了《南總里見八犬傳》。文化十三年(1816年),恩人兼競爭對手的京傳去世。《南總里見八犬傳》的撰寫耗時從文化十一年(1814年)到天保十三年(1842年)的28年,成為了馬琴的終身作品。馬琴的獨子興繼,在山本永春院學習醫術,文化十一年(1814年)被允許稱呼自己為宗伯。文政元年(1818年),馬琴在神田明神下石坂下同朋町(現在的千代田區外神田三丁目,秋葉原芳林公園附近)購買了房屋,將家族的主要成員移至此處。
文政三年(1820年),宗伯成為了陸奧國梁川藩主松前章廣的御用醫生,這是馬琴的愛讀者老公松前道廣的恩惠。宗伯獲得俸祿,部分實現了馬琴希望重振武家滝沢家的夢想,但宗伯體弱多病。文政七年(1824年),58歲的馬琴在神田明神下的宗伯宅增建後搬過來,與宗伯同住。馬琴退休,剃髮,稱自己為蓑笠漁隱。他迎接了長女幸的女婿,讓他稱為清右衛門,將原飯田町的家產全部轉讓給他,並讓他分家。從文政七年(1824年)到次年八年(1825年),馬琴與山崎美成一同主持了文人聚會「耽奇會」和「兔園會」。然而,他和山崎美成在「耽奇會」展出的器物考證上的爭議升級,最終導致了絕交(爭吵)。這些聚會的記錄被馬琴寫成了《耽奇漫錄》(五卷本)和《兔園小說》,同時他也獨自收集的奇談編纂成《兔園小說》的外集、別集、拾遺和餘錄。
天保四年(1833年),67歲的馬琴感到右眼異常,不久後左眼也開始模糊。天保六年(1835年),宗伯去世,家庭上的不幸接踵而至。馬琴將滝沢家再興的希望託付給孫子太郎,並在天保七年(1836年)購買了四谷鉄砲組的御家人株。為了購買御家人株,馬琴賣掉了藏書,舉辦了不情願的書畫會。他也出售了神田明神下的房子,搬到了四谷信濃仲殿町(現在的新宿區霞ヶ丘町)。天保十年(1839年),73歲的馬琴失明,無法繼續寫作。因此,宗伯的妻子お路開始口述筆記。馬琴的妻子お百對於成為馬琴創作生活中不可或缺的お路感到嫉妒,家庭內的爭執不斷。お百在天保十二年(1841年)去世。
天保十二年八月,《八犬傳》完成,並在天保十三年(1842年)正月出版。馬琴在「回外剰筆」中向讀者透露了自己的失明,並記錄了和お路口述筆記的艱辛。馬琴讓お路繼續作為筆記者,撰寫《傾城水滸傳》和《近世說美少年錄》,但在這些作品完成前,馬琴於嘉永元年(1848年)82歲去世。他的忌日11月6日被稱為「馬琴忌」。法號是著作堂隱譽蓑笠居士。墓地位於東京都文京區的深光寺。
"苦中の苦を喫せざれば、上中の上人ならず。"
沒有歷經磨難,何談成為人上人。