"近松 門左衛門(ちかまつ もんざえもん、承応2年〈1653年〉 - 享保9年11月22日〈1725年1月6日〉)とは、江戸時代前期から中期にかけての人形浄瑠璃および歌舞伎の作者。本名は杉森 信盛(すぎもり のぶもり)。平安堂、巣林子(そうりんし)、不移山人(ふいさんじん)と号す。家紋は「丸に一文字」。
越前国(現在の福井県)の武士杉森信義の次男として生まれた。母は医師の家系で松平忠昌の侍医であった岡本為竹法眼の娘喜里。幼名は次郎吉、元服後の諱は信盛と称した。兄弟に母を同じくする兄の智義、弟の伊恒がいる。出生地については肥前国唐津、山城国、長門国萩など諸説あったが、現在は越前とするのが確実とされている。
近松の父である杉森信義は福井藩第三代藩主松平忠昌に仕え、忠昌の没後はその子松平昌親に分知された吉江藩(現在の鯖江市)で藩主昌親に仕えた。近松の生誕年は承応2年(1653年)であるが、昌親の吉江への入部は明暦元年(1655年)であり、昌親と家臣団は吉江以前は福井に居住していたと考えられ、昌親に仕えた信義の子である近松も、福井市生まれとされている。しかし当時の福井藩に関する資料の調査では、昌親は正保3年(1646年)から江戸に在住し、その家臣団は藩主昌親の吉江入部以前、既に吉江に移って藩政に関わる執務を行っていたことが明らかとなっており、よって信義も他の家臣たちとともにこの時期から吉江に在住し、近松は吉江すなわち鯖江市で生まれたとする見方もある。
寛文4年(1664年)以後、信義は吉江藩を辞し浪人となって越前を去り、京都に移り住んだ。信義が藩を辞した理由については明らかではなく、近松の消息も詳らかではないが、山岡元隣著の『宝蔵』(寛文11年〈1671年〉刊行)には、両親等とともに近松の句「白雲や花なき山の恥かくし」が収められている。近松が晩年に書いた辞世文には「代々甲冑の家に生れながら武林を離れ、三槐九卿に仕へ咫尺し奉りて」とあり、青年期に京都において位のある公家に仕え暮らしたと見られる。その間に修めた知識や教養が、のちに浄瑠璃を書くにあたって生かされたという。
浄瑠璃・歌舞伎の作者となる
その公家に仕える暮らしから離れ、近松は当時京都で評判の浄瑠璃語り宇治嘉太夫(のちの宇治加賀掾)のもとで浄瑠璃を書くようになった。それがいかなるきっかけによるものか明らかではないが、『翁草』(神沢杜口著)によれば、近松は公家の正親町公通に仕えていた時、公通の使いで加賀掾のもとに行ったのが縁で、浄瑠璃を書くようになったという。加賀掾は延宝3年(1675年)に京都四条で人形芝居の一座を立ち上げ、そこで浄瑠璃を語っていた。近松が加賀掾のために浄瑠璃を書くようになったのが、いつのころからなのか定かではない。この当時の慣習として、浄瑠璃や歌舞伎の作者の名をまだ世に出すことがなかったからである。なおこの時期、兄の智義と弟の伊恒は大和国宇陀松山藩に召し抱えられた。伊恒は藩医平井家の養子となり、のちに岡本一抱(為竹)と改名している。
天和3年(1683年)、曾我兄弟の仇討ちの後日談を描いた『世継曾我』(よつぎそが)が加賀掾の一座で上演されたが、翌年に加賀掾の弟子だった竹本義太夫が座本(興行責任者)となって大坂道頓堀で竹本座を起こし、この『世継曽我』を語り評判を取った。『世継曽我』に作者名はないが、義太夫が語った浄瑠璃のさわりを集めた『鸚鵡ヶ杣』序文の記述から、近松の作であることは間違いないとされている。以後義太夫は近松の書いた浄瑠璃を竹本座で語るようになり、貞享2年(1685年)に竹本座で出された近松作の『出世景清』は近世浄瑠璃の始まりといわれる。
貞享3年(1686年)には竹本座上演の『佐々木大鑑』で、初めて作者として「近松門左衛門」の名を出した。元禄5年(1692年)、40歳で大坂の商家松屋の娘と結婚し(ただしこれは再婚ではなかったかといわれる)、その間に一女一男をもうけた。このうち男子は多門と称し絵師になっている。元禄6年(1693年)以降、近松は歌舞伎の狂言作者となって京の都万太夫座に出勤し、坂田藤十郎が出る芝居の台本を書いた。10年ほどして浄瑠璃に戻ったが、歌舞伎作者として学んだ歌舞伎の趣向が浄瑠璃の作に生かされることになる。
元禄16年(1703年)、『曽根崎心中』を上演。宝永2年(1705年)に義太夫こと竹本筑後掾は座本の地位を初代竹田出雲に譲り、出雲は顔見世興行に『用明天王職人鑑』を出す。このとき近松は竹本座の座付作者となり、住居も大坂に移して浄瑠璃の執筆に専念した。正徳4年(1714年)に筑後掾は没するが、その後も近松は竹本座で浄瑠璃を書き続けた。正徳5年の『国性爺合戦』は初日から17ヶ月の続演となる大当りをとる。
晩年
享保元年(1716年)、母の喜里死去。同年、摂津国川辺郡久々知村の広済寺再興に講中として加わった。晩年は病がちとなり、初代出雲と松田和吉(後の文耕堂)の書いた浄瑠璃を添削している。享保9年、『関八州繋馬』を絶筆として11月に死去。享年72、戒名は阿耨穆矣一具足居士。辞世の歌は「それぞ辞世 さるほどにさても そののちに 残る桜が 花し匂はば」と、「残れとは 思ふも愚か 埋み火の 消ぬ間あだなる 朽木書きして」。
墓所は大阪府大阪市中央区谷町八丁目の法妙寺跡。谷町筋の拡張工事の際に法妙寺は霊園ごと大阪府大東市寺川に移転したが、近松の墓だけが旧地に留まった。なお、移転先にも供養墓としてレプリカが建てられている。ほかにも広済寺に墓が、東京法性寺に供養碑がある。忌日の11月22日は近松忌、巣林子忌、または巣林忌と呼ばれ、冬の季語となっている。
現在、近松の作とされている浄瑠璃は時代物が約90作、世話物が24作である。歌舞伎の作では約40作が認められている。世話物とは町人社会の義理や人情をテーマとした作品であるが、当時人気があったのは時代物であり、『曽根崎心中』などは昭和になるまで再演されなかった。同時期に紀海音も近松と同じ題材に基づいた心中浄瑠璃を書いており、当時これに触発されて心中が流行したのは事実であるが、世話物中心に近松の浄瑠璃を捉えるのは近代以後の風潮に過ぎない。ちなみに享保8年(1723年)、江戸幕府は心中物の上演を一切禁止している。
「虚実皮膜論」という芸術論を持ち、芸の面白さは虚と実との皮膜にあると唱えたといわれるが、これは穂積以貫著の『難波土産』に近松の論として紹介されているもので、近松自身が系統だてた芸能論を書き残したわけではないともされる。ほかには箕面市の瀧安寺に近松が同寺に寄進した大般若経、尼崎の広済寺に自筆とされる養生訓などが伝わっている。"
近松門左衛門(1653年 - 1725年1月6日),是江戶時代前期至中期的人形浄瑠璃和歌舞伎作家。本名為杉森信盛。別號有平安堂、巣林子、不移山人,家徽為「丸に一文字」。
生於越前國(現今的福井縣),是武士杉森信義的次子。母親是醫師家族,是松平忠昌的侍醫岡本為竹法眼的女兒喜里。幼名為次郎吉,成年後改名為信盛。他有一位同樣母親的哥哥智義和弟弟伊恒。關於出生地,有說法指是肥前國唐津、山城國、長門國萩等,但現在確定為越前。
近松的父親杉森信義是福井藩第三代藩主松平忠昌的臣僕,忠昌逝世後,被分封到忠昌的兒子松平昌親所統治的吉江藩(現在的鯖江市)侍奉藩主昌親。近松的出生年份是承應2年(1653年),但昌親進入吉江是在明暦元年(1655年),推測昌親和家臣團在吉江之前居住在福井,因此近松作為信義的兒子,也被認為是在福井市出生。然而,根據當時有關福井藩的資料調查,昌親從正保3年(1646年)開始就在江戶居住,他的家臣團在昌親進入吉江之前已經搬到吉江,參與藩政事務,因此信義和其他家臣們也從這個時期開始居住在吉江,有觀點認為近松也是在吉江,也就是鯖江市出生的。
浄瑠璃和歌舞伎作家。
離開侍奉公家的生活,近松開始在當時京都聞名的浄瑠璃語師宇治嘉太夫(後來的宇治加賀掾)身邊寫浄瑠璃。雖然不清楚是出於何種契機,但根據《翁草》(神澤杜口著)的記載,近松在侍奉公家正親町公通時,因公通派遣他前往加賀掾處,而開始寫浄瑠璃。加賀掾於延寶3年(1675年)在京都四條成立了一個人偶劇團,並在那裡說浄瑠璃。近松從何時開始為加賀掾寫浄瑠璃並不確定。當時的習俗是浄瑠璃和歌舞伎的作者名字還未公開。同時期,近松的兄智義和弟伊恒被招聘到大和國宇陀松山藩。伊恒成為藩醫平井家的養子,後來改名為岡本一抱(為竹)。
天和3年(1683年),在描繪曾我兄弟報仇後續故事的『世継曾我』在加賀掾的一座上演,次年,加賀掾的弟子竹本義太夫成為座本(興行責任者),在大阪道頓堀成立了竹本座,並以此『世継曽我』聞名。『世継曽我』沒有作者名,但根據義太夫口述的浄瑠璃片段集『鸚鵡ヶ杣』序文的描述,被認為是近松的作品。此後,義太夫在竹本座開始說近松寫的浄瑠璃,而貞享2年(1685年)在竹本座上演的近松作品『出世景清』被視為近世浄瑠璃的開端。
貞享3年(1686年)在竹本座上演的《佐々木大鑑》中,首次以「近松門左衛門」的名義出現作家。元禄5年(1692年),40歲時與大阪商家松屋的女兒結婚(雖然據說這不是他的再婚),他們育有一女一男。其中的男孩被稱為多門,成為了一名畫家。元禄6年(1693年)後,近松成為歌舞伎的狂言作者,前往京都的萬太夫座上班,為坂田藤十郎演出的劇本。大約10年後回到浄瑠璃,但他在學習歌舞伎時所獲得的趣味被運用到浄瑠璃的作品中。
元禄16年(1703年),上演了《曾根崎心中》。宝永2年(1705年),義太夫竹本筑後掾將座本的地位讓給了初代竹田出雲,出雲在顔見世興行中演出了《用明天王職人鑑》。這時近松成為了竹本座的座付作者,並搬到大阪專心於寫作浄瑠璃。正徳4年(1714年),筑後掾去世,但近松繼續在竹本座寫作浄瑠璃。正徳5年的《国性爺合戦》從首演起連續17個月大受歡迎。
晚年
享保元年(1716年),母親喜里去世。同年,加入了摂津國川邊郡久々知村的広済寺再興講中。晚年身體不佳,添削了初代出雲和松田和吉(後來的文耕堂)寫的浄瑠璃。享保9年,以『関八州繋馬』作為遺作,於11月去世,享年72歲,戒名為阿耨穆矣一具足居士。臨終之詩為「それぞ辞世 さるほどにさても そののちに 残る桜が 花し匂はば」和「残れとは 思ふも愚か 埋み火の 消ぬ間あだなる 朽木書きして」。
墓所位於大阪府大阪市中央區谷町八丁目的法妙寺遺址。在谷町筋擴建工程期間,法妙寺連同靈園一起遷移到了大阪府大東市寺川,但近松的墓地仍留在原地。另外,在遷移地也建有墓地的複製品作為供養之用。此外,還有墓地位於廣済寺,供養碑位於東京法性寺。忌日11月22日被稱為近松忌、巣林子忌,或巣林忌,成為冬季的季語。
目前,被認為是近松作品的浄瑠璃中,時代劇約有90部,世話劇有24部。在歌舞伎作品中,約有40部被認可。世話劇是以町人社會的義理和人情為主題的作品,但當時流行的是時代劇,像是《曽根崎心中》等作品直到昭和時代才再次上演。在同一時期,紀海音也寫了以近松相同題材為基礎的心中浄瑠璃,當時受到啟發而流行的心中事件確實存在,但將近松的浄瑠璃視為以世話劇為主的觀點僅是現代風潮。值得一提的是,享保8年(1723年),江戶幕府完全禁止了心中劇的演出。
「虛實皮膜論」這一藝術論,認為藝術的趣味在於虛與實之間的皮膜,這被介紹為穗積以貫著的《難波土産》中近松的論點,但也有說法指出這並非近松本人系統化的藝術論。此外,傳說近松在箕面市的瀧安寺捐贈了大般若經,並在尼崎的廣濟寺傳世了被認為是近松親筆的養生訓。
1.
"それぞ辞世、さるほどにさても、そののちに、残る桜が、花し匂はば。"
即使為時已晚,留下的櫻花也會綻放並散發香氣。
2.
"残れとは、思ふも愚か、埋み火の、消ぬ間あだなる、朽木書きして。"
留下來是愚蠢的,但當埋藏的火仍未熄滅時,早已寫於朽木。
3.
"人の口には戸が立てられず。"
門不能擋人的嘴。
4.
"恋とあわれは種一つ。"
愛與憐憫是一顆種子。
5.
"人から恨まれようが、憎まれようが、それで死ぬことはない。"
就算其他人恨你,恨你,你也不會因此而死。
6.
"死に行く身をたふとえば、あだしが原の道の霜。
一足づつに消えていく。
夢の夢こそあはれなれ。"
當我想到我即將死去的身體時,我感受到足足原路上的霜凍。
他們一步步消失。
向夢想中的夢想致敬。
7.
"大事を思い立つ者が、小事に拘る事なかれ。"
思考大事的人不應該被小事所困。