"清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。さばかり賢しだち真名書きちらして侍るほども、よく見れば、まだいと堪へぬことおほかり。かく人に異ならむと思ひこのめる人は、かならず見劣りし、行末うたてのみはべれば(清少納言という人はとても自慢げにしている人です。賢そうに漢文など書いていますが、よく見れば粗が多いものです。このような人と変わったことを好む人は、必ず失敗し、行く末も危ないものです)」-紫式部は『紫式部日記』"
「青少納言,如微風輕撫,猶如武士般雄風。觀其風姿,智慧閃耀,卻寧靜自若。名字背後蘊藏著種種,自我獨特,彷彿自命不凡,不慚於眾。然若只如此,他人終難比擬。」- 紫式部 《紫式部日記》
清 少納言(せい しょうなごん、旧字体:淸 少納󠄁言、康保3年頃〈966年頃〉 - 万寿2年頃〈1025年頃〉)は、平安時代中期の女房、作家、歌人。随筆『枕草子』は平安文学の代表作の一つ。歌人としては中古三十六歌仙、そして女房三十六歌仙の一人でもある。
正確な生没年や本名は不明である。生没年は、岸上慎二による推定である。本名については、江戸時代の国学者多田義俊は『枕草紙抄』において清原諾子(きよはら の なぎこ)としているが、根拠は示されていない。この『枕草紙抄』は考証家伊勢貞丈の遺稿集『安斎小説』にそのまま引かれたため、貞丈の著作として広まった。ただし、貞丈は義俊について「偽を好む癖あり。豪傑なる者なれども其偽大瑕なる可惜哉。彼が著述の書、引書疑しき者多し。」と述べており、また『枕草紙抄』以外の書物に諾子という名前は確認されていない。
「清少納言」は宮中での女房名で、「清」は清原姓に由来するとされている。「少納言」は官職少納言に由来するものと見られるが、当時女房名に官職名を用いる場合は父親や近親者がその官職にあることが通例であった。清原氏の近い親族で少納言職を務めたものはおらず、「少納言」の由来は不明である[3]。研究者は以下のような推察を行っている。
一条天皇の時代、正暦4年(993年)冬頃から、私的な女房として中宮定子に仕えた。博学で気が強い彼女は、主君定子の恩寵を被り、一条院内裏の北の二の対に、局として小廂を賜っている。『枕草子』「二月つごもりごろに」106段では、源俊賢が清少納言の機知を賞賛して「なほ内侍(掌侍)に奏してなさむ 」と語ったとある。このことから角田文衛は、清少納言の職階を命婦と推定した。
漢学にも通じ、『枕草子』 第197段、第299段の「香炉峰の雪」のエピソードは白居易の『白氏文集』の詩をもとにしたエピソードである。また第8段では『蒙求』などに引かれる前漢の丞相于定国が門を広く作ったことを踏まえた会話を行っている。特に恋人ともされる藤原実方(? - 998年)との贈答が知られる。
長保2年(1000年)に中宮定子が出産時に亡くなってまもなく、清少納言は宮仕えを辞した。古伝には淑景舎、御匣殿、上東門院などへの出仕説もあるが明確な根拠はなく疑わしい。その後の清少納言の人生の詳細は不明だが、家集など断片的な資料から、いったん再婚相手・藤原棟世の任国摂津に下ったと思われ、『清少納言集』の異本には内裏の使いとして蔵人源忠隆が摂津に来たという記録がある。角田文衛はこの使者は、清少納言に定子の遺児の媄子内親王、脩子内親王の養育を要請したものと推定している。清少納言は再出仕し、紫式部らと接触があったとする説であり、清少納言と紫式部は面識がないとする従来説とは一線を画すものであるが、面識があった、あるいはなかったとしてもこれを裏付ける史料はなく、『紫式部日記』の清少納言評が唯一の文献である。
寛仁元年3月8日(1017年4月7日)には兄・清原致信が源頼親によって殺害されるという事件が発生している。『古事談』においてはその場に清少納言も同座していたとされるが、殺害の実行犯は頼親ではなくその兄の源頼光の指示を受けた頼光四天王であったとされていて史実との相違がみられる。
老後の動静は不明だが、『赤染衛門集』に、「元輔が昔住みける家のかたはらに清少納言住みしころ」、『大納言公任集』に「清少納言が月の輪にかへり住むころ」の詞書を持つ詠歌がある。「元輔集」「能宣集」などの詞書より父の元輔が桂、夫の棟世が「月の輪」と呼ばれた地にそれぞれ山荘を所有していたことが推定されており、老後はこれらの地に隠棲していたことが想定される。「月の輪」の正確な比定地は不明であり、後述の泉涌寺付近とする岸上説に加え、洛東の「月林寺(現・曼殊院)」後藤祥子説、洛西「月輪寺」萩谷朴説がある。
中古三十六歌仙・女房三十六歌仙の一人に数えられ、42首の小柄な家集『清少納言集』が伝わる。『後拾遺和歌集』以下、勅撰和歌集に15首入集。清少納言が残したとされる歌は田中重太郎によると約62首である。
父の元輔は歌壇の巨匠であったが、『無名草子』ではその子にふさわしい歌を持っているとは評価されていなかった。本人も『枕草子』「うらやましげなるもの」で「手よく書き、歌よく詠みて、もののをりごとにもまつ取り出でらるる」人を羨ましいとしており、自らの歌才を高く評価してはいなかった。「五月の御精進のほど」章段では、「有名歌人の子であれば人より優れ、あの時にはこんな歌を詠んだ、さすがは誰それの子であると語られるようであれば甲斐もあるが、歌がうまいと思い込み、少しの良い点もない歌を我こそはと最初に詠み出すようなことがあれば亡き父の名誉にも障る」と詠歌御免を願い、定子もそれを許したエピソードが綴られている。
藤原行成とかわされたとされる歌である「夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」の歌は、藤原定家の選じた小倉百人一首に採られている(62番。61番の伊勢大輔に続いて百人一首では当代歌人の最後に位置し、68番に来る三条院とともに疑問ののこる序列となった)。
京都市東山区の泉涌寺にこの歌の歌碑がある。昭和49年(1974年)、当時の平安博物館館長・角田文衞の発案によって歌碑が建立された。建立当時は、岸上慎二説によって、(定子皇后の鳥辺野陵にほど近く)嘗てここに清原元輔の山荘があり、晩年の清少納言が隠棲したとされていた。しかし、この地が月の輪と呼ばれるようになったのは、月輪殿と称された九条兼実がこの地に隠棲して以降である。"
確切的出生和死亡年份以及真實姓名均不詳。她的出生和死亡年份是由岸上真司估算的。至於她的真名,江戶時代的日本學者多田芳俊在其《枕の總書》中將其寫為“清原凪子”,但沒有提供證據。這本《枕倉宗抄》直接取自研究者伊勢貞武的遺作集《安西小說》,因此被廣泛稱為貞武的作品。然而,貞武談到義俊時說:“雖然是一個偉大的人,但他的謊言卻有極大的缺陷,除了《宗書》之外,沒有任何著作證實過信子的名字。”
「清少納言」是宮廷妻子的名字,「清」據說源自清原姓氏。 「Shonagon」似乎起源於政府官員職位「Shonagon」,但當時,當政府官員的名字被用作妻子的名字時,習慣上由她的父親或近親擔任該官員職位。清原氏的近親中沒有一人擔任過少納言,「少納言」一詞的由來也不得而知。研究人員做出了以下假設。
由於妻子的名字是“少納言”,她的父親或丈夫一定是少納言的位置,而根據對同時代人的研究結果,她曾與藤原元介的兒子信吉(藤原元介)在一起。
根據後來的一個案例,藤原定家的女兒心被後藤班院以她的祖先永家的名字命名為“民福京”,她的祖先阿里奧(被稱為少納言和貴族)在那裡受到尊敬。
有一種說法認為,少納言的乳母(其名字被視為花山寧的乳母)是清少納言丈夫諾光的母親烏康尼的別稱,並以她外婆的名字命名。
岸上真司指出,無論親戚的官方職位如何,這個名字都有可能是由貞子特別起的。雖然是後來的書,但《女官品》中卻寫著“章博、科本、少納言等是下位、中位的名字”,這反映了清原氏的當時的地位並不高。
今天,它有時被發音為“Seisho-Nagon”,也許是由於單字用法的原因,但如上所述,“Kiyoshi”源自他父親的姓氏,“Shonagon”源自他的頭銜,所以最初將其單獨發音為“sei・shonagon”似乎是正確的。然而,自江戶時代以來,簡稱為「Seisho」已成為常見做法。
現今日本國學所的典籍- 《枕上書》第197、299段中的“香峰雪”一集,是根據白居易《白石文殊》中的一首詩改編的。此外,在第八節中,還有一段對話,內容是前漢統治者於定國被《孟古》等書籍所吸引,打開了大門。他尤其以與藤原實方(?-998 )贈送禮物而聞名 ,據說藤原實方也是他的情人。
西元1000 年,中宮貞子難產過世後不久,清少納言辭去宮廷職務。古傳說中,有其曾任職於縮慶會、三鳳殿、繩藤門院等地的說法,但並無明確依據,這一點值得懷疑。清少納言此後的生活細節不明,但根據家族選集等零碎文獻,認為他曾去過他的再婚伴侶藤原宗野指定的攝津省。角田文榮推測這位使者請求清少納言撫養貞子的孤兒惠美子皇子和淑子皇妃。這種說法認為,青少納言復出並與紫式部等人有過接觸,這與青少納言與紫式部互不相識的常規說法背道而馳,這一點沒有史料支持,也是唯一的。 Shonagon 在「 Murasaki Shikibu Nikki 」中的論述。
1017年3月8日(1017年4月7日),發生了哥哥清原道信被源賴親殺害的事件[。《古事團》中,據說當時清少納言也在場,但據說兇手並不是賴親,而是受賴親哥哥源賴光指使的賴光四大子。
退休後的動向不明,但《赤染右衛門集》中有「清少納言住在本助以前住的房子旁邊的時候」的記載,而《大納言古人集》中則記載了「當時清少納言住在月環裡。根據《元助集》和《養仙集》等文獻,推測她的父親元助在桂擁有一座山莊,而她的丈夫宗代在一個叫做“的地方”擁有一座山莊。據推測他們隱居在這些地區。 「月之環」的具體位置不明,除了岸條說位於仙入寺附近(後述)外,後藤祥光說「月之環」(現在的滿洲院)也是如此。 」觀點,以及它位於仙遊寺的 附近「月環」區域不謀而合。
清少納言被認為是三十六位詩人和三十六位女詩人之一,她的詩集四十二首《清松論集》已流傳下來。皇家和歌詩集收錄了《五水和歌集》等15首詩。據田中十太郎稱,清少言留下了大約 62首詩。
她的父親元介雖然是詩壇大師,但在《無名雜誌》中卻未被發現為有為女兒而譜寫的和歌。她也在《枕上書》和《羨慕》中表示,很羨慕那些「寫得好、唱得好、能把事情發揮到極致」的人。
小倉百人收錄了一首據說是清少納言著作的和歌,現存京都市東山區泉遊寺立有這首詩的紀念碑。 974年,在時任平安博物館館長角田文惠的建議下,建立了此紀念碑。推測,建造時,清原元介的山莊曾在此(靠近貞子皇后鳥部陵),清少納言晚年隱居於此。然而,由於被稱為「月之環」的九條兼真後世隱居於此,故該地區一直以來被稱為「月之環」。
1.
"みをしらて-たれかはひとを-うらみまし-ふききてつらき-つらさなるをは。"
望見那人 - 感到妒忌 - 妄圖拭去它 - 好難 - 好痛苦。
2.
"いつかたの-かさしとかみの-さためけむ-かけかはしたる-なかのあふひを。"
從何時起 - 傘與神之間 - 山城國 - 在那僵持不下爭執中 - 被裹攜著。
3.
"よしさらは-つらさにわれは-ならひけり-たのめてこぬは-たれかをしへし。"
永別了 - 或許痛楚 - 抑或快樂 - 我會遵從它 - 我會呵護它。
4.
"いつしかと-まつのこすゑは-はるかにて-そらにあらしの-かせをこそまて。"
不知不覺中,松之末已遠去,天空又掀起了一縷風暴。
5.
"われなから-わかこころをも-しらすして-またあひみしと-ちかひけるかな。"
是我啊 - 我的心阿 - 如此的絞白 - 我對自己感到迷惘 - 是否再繼續靠近。
6.
"ここなから-ほとのふるたに-あるものを-いとととをちの-さとときくかな。"
這裡是起點 - 終點是我的故鄉 - 猶豫 - 是否要把此地 - 帶回我的家。
7.
"いつしかと-はなのこすゑは-はるかにて-そらにあらしの-ふくをこそまて。"
不知不覺中 - 花野小末 - 飄向了遠方 - 就在天際的風暴陪伴下 - 徐徐的被吹走 。
8.
"のかるれと-おなしなにはの-かたなれは-いつれもなにか-すみよしのさと。"
那離別 - 那些事 - 那些發生在你身上的事 - 總是有一些事情是 - 屬於幸福。
9.
"いつとなく-しくれふりしく-たもとには-めつらしけなき-かみなつきかな。"
那時間 - 困惑著 - 自己的身邊 - 是否是個陌生 - 神祕的身影。
10.
"うきみをは-やるへきかたも-なきものを-いつくとしりて-いつるなみたそ。"
環視著汪洋 - 該如何 - 找尋失去之物。
11.
"はなよりも-ひとこそあたに-なりにけれ-いつれをさきに。"
不只有花 - 孤獨一人 - 成為了 - 什麼時候先離去。