"樋口 一葉(ひぐち いちよう{歴史的仮名遣では、ひぐち いちえふ}、1872年5月2日(明治5年3月25日)- 1896年(明治29年)11月23日)は、日本の小説家。東京生まれ。戸籍名は「奈津」だが、本人は「夏子」「夏」「なつ」と名乗ったり自署したりすることが多かった。
中島歌子に和歌や古典文学を、半井桃水に小説を学んだ。生活に苦しみながら、『たけくらべ』『にごりえ』『十三夜』といった秀作を発表。文壇から絶賛され、わずか1年半でこれらの作品を送り出した後、24歳で肺結核により夭逝した。没後に発表された『一葉日記』も高い評価を受けている。
一葉は1872年5月2日(旧暦明治5年3月25日)、東京府第二大区一小区内山下町一丁目一番屋敷(現在の東京都千代田区内幸町)の東京府庁構内官舎(長屋)で、東京府下級役人の樋口則義と多喜(旧姓・古屋)の次女として誕生した。姉のふじ、兄に泉太郎、虎之介がおり、一葉誕生の翌々年に妹くに(邦子)が生まれた。
幼児期から利発で言葉が出るのも早く物覚えがよかったという。 1877年(明治10年)、満4歳10か月で公立本郷小学校に入学するが、幼少のためにほどなく退学し、半年後、吉川富吉が始めた私立吉川学校に入学した。一葉の日記『塵之中』によれば、幼少時代は手毬や羽根つきなど同年代の子供の遊びに興味がなく、読書を好み草双紙の類いを読み耽っていた。曲亭馬琴『南総里見八犬伝』を3日で読破したとも伝えられている。 1881年(明治14年)、素行が悪く金銭問題などを起こしていた次兄の虎之助が分家し、陶器絵付師に弟子入りするという形で勘当される。同年には同じ東京府内の下谷区御徒町へ移ったため、11月に上野元黒門町の私立青海学校に転校する。ここで初めて和歌を習う。1883年(明治16年)12月、高等科第四級を首席で卒業するも、上級に進まずに退学した。これは母・多喜が、女性に学業は不要だと考えていたからだという。
一方、父・則義は向学心やまない娘のため、知人の旧幕臣で、神田神社や芝大神宮の祠掌を務めた和田重雄の下で和歌を習わせた。1886年(明治19年)、父の旧幕時代の知人である医師の遠田澄庵の紹介で、中島歌子の歌塾「萩の舎」(はぎのや)に入門。ここでは和歌のほか千蔭流の書や王朝文学の講読を学んだ。萩の舎は当時、公家・旧大名などの旧体制名家、明治政府の政治家・軍人の夫人や令嬢らが通い、門人は千人を超える歌塾だった。士族とはいえ下級役人の娘だった一葉は平民の伊東夏子や田中みの子と仲良くなり「平民三人組」と称した。入門の翌年、二月に行われる新春恒例の発会が近づくと、令嬢たちの晴れ着の話題など、着物の話はとても下級官吏の娘が競える内容ではなかった。一葉は気おくれしながらも親が借りてきた古着で出席した。この発会の歌会で一葉は最高点を取っている。
佐佐木信綱は回想録『明治大正昭和の人々』の中で、自身が参加した「萩の舎」歌会において、一葉が「歌会の席の次の間で、机の前に坐つて、競点の歌のあつまつたのや、当座の歌合の巻の清書などをして、披講の始まる頃から席上に出た」と、その実見談を記している。
名家の令嬢であった田辺花圃(本名・龍子)は『思い出の人々』という自伝の中で、「萩の舎」の月例会で、友人と床の間の前で寿司の配膳を待ちながら「清風徐ろに吹来つて水波起らず」という『赤壁賦』の一節を読み上げていたら、給仕をしていた猫背の女が「酒を挙げて客に属し、明月の詩を誦し窈窕の章を歌ふ」と口ずさんだのに気付いて、「なんだ、生意気な女」と思っていたら、それが一葉で、先生から「特別に目をかけてあげてほしい」と言われて紹介されたと、初めて一葉と会ったときのエピソードを紹介し、一葉は女中と内弟子を兼ねた働く人のようだったと書いている(このとき一葉15歳、花圃18歳。のちに2人は萩の舎の二才媛と呼ばれた)。このように入門当初は才気煥発なところを見せていた一葉だったが、周囲との格差から次第に内向的になり「ものつつみの君」と呼ばれるようになった。
「萩の舎」同門の姉弟子である田辺花圃が1888年(明治21年)に小説『薮の鶯』を出版し、33円という多額の原稿料を得たのを知っていた一葉は、明治22年頃より小説を書こうと決意する。台東区立一葉記念館学芸員の石井広士は、強度の近視であった一葉にとって、針仕事による頭痛や肩こりが酷かったことも一因と推測する。
1891年(明治24年)、数え年20歳で『かれ尾花』などいくつか習作を執筆する。同年4月15日、妹のくにの知り合いの野々宮菊子の紹介で、『東京朝日新聞』専属作家の半井桃水を訪ね、師事することになる。1892年(明治25年)3月に半井は同人誌『武蔵野』を創刊し、一葉は『闇桜』を「一葉」の筆名で同誌創刊号に発表した。半井は一葉を東京朝日新聞主筆の小宮山桂介に紹介する。しかし一葉の小説は採用されず、新聞小説で原稿料を得ようとした一葉は落胆する。
また2人の仲を噂する醜聞が萩の舎で広まったため、中島歌子や伊東夏子に交際を反対され、6月22日、桃水と絶交。その後、一葉は上野図書館に通い独学する。田辺花圃の紹介で、これまでとはスタイルの異なる幸田露伴風の理想主義的な小説『うもれ木』を雑誌『都之花』に発表。初めて原稿料11円50銭を受け取る。このうち6円は借金の返済に充てられた。
1896年(明治29年)には『文藝倶楽部』に『たけくらべ』が一括掲載されると、森鷗外や幸田露伴は同人誌『めさまし草』で一葉を高く評価した。
5月には『われから』を『文藝倶楽部』で、『通俗書簡文』を『日用百科全書』で発表。しかし一葉は治療法が当時なかった肺結核が進行しており、8月に斎藤緑雨の依頼を受けた(自らも医者である)森鷗外が、当代随一と言える樫村清徳、青山胤通らの医師を頼み往診に向かわせたが、恢復が絶望的との診断を受けた。
11月23日、丸山福山町の自宅において、24歳と6か月で死去。自宅跡には、一葉終焉の地であることを示す石碑が建てられている。
葬儀は11月25日に他人にきてもらうだけの営みができないという理由で、身内だけ十数人で築地本願寺で質素に行われた。一葉の才を高く評価し、その早世を惜しんだ森鷗外は、”陸軍一等軍医正・森林太郎”としての正装の上で、騎馬にて棺に従う参列を打診したが、遺族に丁重に断られている。
一葉の作家生活は14か月余りで、死後の翌1897年(明治30年)には『一葉全集』『校訂一葉全集』が刊行された。
近代以降では最初の職業女流作家で、『一葉の四季』(岩波新書)著者の森まゆみは、女性が小説だけで身を立てようと志したのは「日本史上初の無謀な決心」と位置付けている。24年間の生涯の中で、特に亡くなる間際の1年2か月の期間に日本の近代文学史に残る作品を残した。明治大学教授の伊藤氏貴は、一葉の生き様や作品はジェンダー、貧困といった現代の問題にも通じると指摘する。
家が没落していく中で、自らが士族の出であるという誇りを終生持ち続けたが、それがゆえに生計を立てにくかったという見解もある。生活は非常に苦しかったために、筆を折ることも決意したが、雑貨店を開いた吉原近郊での生活はその作風に影響を与えた。井原西鶴風の雅俗折衷の文体で、明治期の女性の立ち振る舞いや、それによる悲哀を描写している。『たけくらべ』では吉原近くの大音寺前を舞台にして、思春期頃の少年少女の様子を情緒ある文章で描いた。題名を変えつつ日記をつけており(『若葉かけ』『薼中につ記』『筆すさひ』等)、日記文学の価値も高い。
「一葉」は雅号で、戸籍名は奈津。「なつ」「夏子」とも呼ばれる。「樋口一葉」として知られるが、歌人としては夏子、小説家としては無姓志向の一葉、新聞小説の戯号は浅香のぬま子、春日野しか子として筆名を使い分けている。発表作品においては「樋口夏子」に類する本名系と「一葉」の雅号系に分類される。「樋口一葉」と混合した署名を用いている例はわずか一つであり、『たけくらべ』未定稿などにおいて「一葉」と記された署名に別人の手により姓が書き加えられているケースがある。明治前半期の女性作家においては家への抵抗や姓の変遷などから同様に姓の忌避や創作世界においては雅号を用いるといった署名傾向があり、一葉にも女戸主としての意識が強くあったとも考えられている。一葉という筆名は、当時困窮していた事(お足が無い)と一枚の葦の葉の舟に乗って中国へ渡り後に手足を失った達磨の逸話に掛けたものである。
一葉の残した手記として日記の他に作品の下書き・調査メモなどを記した手帳2冊がある。この手帳はともに個人蔵で、1冊は『別れ霜』の下書きなどが記されたもの、もう1冊が『うもれ木』の調査メモが記されたもの。
前者は洋綴じ・横罫のノートで、寸法は縦19.2センチメートル、横12.7センチメートル。9頁目までは鉛筆書きによる、平安時代の『土佐日記』の写しで、承平4年(934年)2月26条から翌承平5年1月4日までの部分が写されている。10頁目からは墨筆で『吹くる風』と題された小説の断片が記されている。これは内容から1892年(明治25年)3月31日から同年4月17日にかけて、一葉が「浅香のぬま子」の筆名で改進新聞に発表した『別れ霜』の未定稿にあたると考えられている。筑摩書房『一葉全集』では一部が翻刻されている。
後者は『うもれ木』の調査メモが記された手帳で、近年原本が発見された。表紙が和紙の小型手帳で、寸法は縦9センチメートル、横6センチメートル。一葉は1892年11月に『都之花』第95号から3回連載で『うもれ木』を発表しているが、手帳の内容は、鉛筆で作中に登場する薩摩窯陶器の歴史や製法が記された調査メモが主体となっている。なお「うもれ木」には、この手帳のほか未定稿が現存している。ほか、半井桃水から借りた朝鮮文学『九雲夢』の主人公を主題とした一葉自作の漢詩や、上野東京図書館で読んだ『新著聞集』の読書メモも記されている。
一葉の肖像は2004年(平成16年)11月1日発行分からそれまでの新渡戸稲造に代わり、日本銀行券の五千円紙幣の表面に採用されている[注釈 2]。女性としては、1881年(明治14年)発行の紙幣に採用された神功皇后以来、123年ぶりで2人目の採用である[66]。2000年(平成12年)に発行開始された二千円紙幣の裏面に紫式部が描かれているが、これは肖像画の扱いではない。偽造防止に利用される髭や顔の皺が少ないため版を起こすのに手間取り、製造開始は野口英世の千円紙幣、福澤諭吉の一万円紙幣より遅れた。"
樋口一葉(ひぐち いちよう{歷史的假名遣いでは、ひぐち いちえふ}、1872年5月2日(明治5年3月25日)- 1896年(明治29年)11月23日)是日本的小說家,出生於東京。戶籍名為「奈津」,但本人常自稱為「夏子」、「夏」、「なつ」並親簽。
她向中島歌子學習和歌和古典文學,向半井桃水學習小說。在生活困苦中,發表了如《竹取比》、《濁り江》、《十三夜》等佳作,文壇給予極高評價,在短短一年半的時間內發表了這些作品,之後在24歲時因肺結核過世。她死後發表的《一葉日記》也受到了高度評價。
一葉於1872年5月2日(舊曆明治5年3月25日),在東京府第二大區一小區內山下町一丁目一番屋敷(現在的東京都千代田區內幸町)的東京府庁構內官舍(長屋)出生,父親是東京府下級官員樋口則義,母親是多喜(旧姓・古屋)的次女。她有一位姐姐ふじ,兩位兄弟泉太郎、虎之介,出生後的第三年,妹妹くに(邦子)出生。
據說她從幼兒期就聰明伶俐,說話早,記憶力好。1877年(明治10年),滿4歲10個月時進入公立本郷小學校,但因年幼不久後退學,半年後,進入吉川富吉創辦的私立吉川學校。根據一葉的日記《塵之中》,她在幼年時並不對同齡兒童的遊戲如手毬、羽毛球等感興趣,而是喜歡閱讀,沉迷於讀草双紙類的書籍。她還被傳說在3天內讀完了曲亭馬琴的《南總里見八犬傳》。
1881年(明治14年),因品行不佳和金錢問題被分家的次兄虎之助,以陶器繪師的弟子身份被勘斷。同年,家庭搬到了東京府內的下谷區御徒町,11月轉學到上野元黒門町的私立青海學校。這是她第一次學習和歌。1883年(明治16年)12月,以第一名的成績畢業於高等科第四級,但沒有繼續升學而是退學,據說是因為母親多喜認為女性不需要學業。
另一方面,父親則義為了不斷追求學問的女兒,讓她向家中的朋友、前幕臣、神田神社和芝大神宮的祠掌和田重雄學習和歌。1886年(明治19年),通過父親幕末時期的朋友、醫生遠田澄庵的介紹,進入中島歌子的歌塾「萩之舍」(はぎのや)。在那裡,她不僅學習和歌,還學習了千蔭流書法和王朝文學。萩之舍當時是公家、舊大名等旧体制名家、明治政府的政治家、軍人的妻子或女兒們的聚集地,門人超過千人。作為士族但出身於下級官員家庭的一葉,與平民出身的伊東夏子和田中みの子成為好友,被稱為「平民三人組」。
入門第二年,新春例行的發會即將到來時,令嬢們關於晴裝的話題,一葉感到無法匹敵,但她仍然穿著父母借來的舊衣參加了。在這次發會的歌會上,一葉取得了最高分。佐佐木信綱在回憶錄《明治大正昭和的人們》中記載,他參加了「萩之舍」的歌會,一葉在「歌會席的旁邊,坐在桌前,整理競點的歌和當時歌合的卷子,從披講開始就出席席上」,並記錄了這一親見談。
佐佐木信綱在回憶錄《明治大正昭和的人們》中寫道,他參加了「萩之舍」的歌會,見到一葉「在歌會的次間坐在桌前,整理競點的歌或當座歌合的卷子,從披講開始就出現在席上」,記錄了這一親見談。出身名家的令嬢田邊花圃(本名・龍子)在自傳《思い出の人々》中提到,在「萩之舍」的月例會上,和朋友一邊在床的間前等待壽司的配膳,一邊朗讀《赤壁賦》中「清風徐に吹き来て水波起こらず」的一節時,注意到一個駝背的女傭邊端酒邊輕聲唱著「酒を挙げて客に属し、明月の詩を誦し窈窕の章を歌う」,心想「這個女人真是自大」,後來才知道那是一葉,老師特別告訴她要「特別關照」,這是她第一次見到一葉,並介紹了這一段初次見面的趣事,一葉當時看起來像是兼職女傭和內弟子的工作人員(當時一葉15歲,花圃18歲,後來兩人被稱為萩之舍的二才媛)。
剛入門時的一葉雖然才華橫溢,但由於與周圍的差距,逐漸變得內向,被稱為「物恥みの君」。「萩之舍」的同門姐妹田邊花圃在1888年(明治21年)出版了小說《薮中的鶯》,賺得了33圓的高額稿酬,一葉知道後,從明治22年左右開始決心寫小說。台東區立一葉紀念館學藝員石井廣士推測,患有高度近視的一葉,因為針線活導致的頭痛和肩膀痠痛也是她決定寫小說的原因之一。1891年(明治24年),數著年20歲的一葉寫了《枯萎花》等幾篇習作。
同年4月15日,透過妹妹のくに的朋友野々宮菊子的介紹,拜訪了《東京朝日新聞》專屬作家半井桃水,並成為其門下學生。1892年(明治25年)3月,半井創辦了同人誌《武藏野》,一葉在創刊號上以筆名「一葉」發表了《闇櫻》。半井將一葉介紹給了《東京朝日新聞》主筆小宮山桂介。然而,一葉的小說未被採用,她試圖通過報紙小說賺取稿費而感到失望。由於萩之舍內有關她和半井的緋聞流傳,被中島歌子和伊東夏子反對交往,於6月22日與半井絕交。此後,一葉獨自到上野圖書館學習。在田邊花圃的介紹下,發表了風格迥異於以往、帶有幸田露伴風的理想主義小說《埋木》於雜誌《都之花》上,並首次收到了11圓50銭的稿費。其中6圓用於還債。
1896年(明治29年),當《文藝倶樂部》一次性刊載了《竹取比》時,森鷗外和幸田露伴在同人誌《めさまし草》中對一葉給予了極高的評價。5月,《われから》在《文藝倶樂部》發表,《通俗書簡文》在《日用百科全書》發表。然而,一葉當時已因當時無法治療的肺結核病情惡化,8月接受了齋藤綠雨的請求,由同樣是醫生的森鷗外求助於當代第一的醫生樫村清德、青山胤通等前去診治,但被診斷為恢覆無望。
11月23日,在丸山福山町的家中,24歲零6個月去世。家中的遺址上立有石碑,標志著一葉的終焉之地。葬禮在11月25日僅限家人十數人在築地本願寺簡樸地舉行,因為沒有辦法請外人來參加。森鷗外非常欣賞一葉的才華,並對她早逝感到惋惜,他以“陸軍一等軍醫正・森林太郎”的正式裝扮,提出騎馬跟隨靈車參加葬禮的請求,但被家屬婉拒。
一葉的作家生涯僅有14個月余,她去世後的次年1897年(明治30年),《一葉全集》和《校訂一葉全集》被出版。作為近代以後日本第一位職業女作家,《一葉的四季》(巖波新書)的作者森真弓認為,一葉嘗試僅靠寫小說維生的決心是“日本歷史上首次的無畏決定”。在她24年的生涯中,特別是在生命的最後1年2個月內,她留下了在日本近代文學史上具有重要意義的作品。明治大學教授伊藤氏貴指出,一葉的生活和作品與性別、貧困等當代問題息息相關。
在家庭逐漸沒落的過程中,一葉終其一生都保持著自己是士族出身的自豪感,但這也是她謀生困難的原因之一。由於生活非常艱難,她曾下定決心放棄寫作,但在吉原附近開雜貨店的生活影響了她的寫作風格。她用井原西鶴風格的雅俗兼備的文體,描繪了明治時期女性的行為及由此帶來的悲哀。在《竹取比》中,她以吉原附近的大音寺前為背景,用充滿情感的文字描繪了青春期少年少女的狀態。她以不同的名字記錄日記(如《若葉かけ》、《薼中につ記》、《筆すさひ》等),其日記文學的價值也被高度評價。
「一葉」是雅號,戶籍名為奈津。「奈津」「夏子」也是其別名。「樋口一葉」是其廣為人知的名字,但作為歌人,她稱為夏子,作為小說家,她以一葉為名,新聞小說的筆名是淺香的沼子,春日野只是子,她使用不同的筆名。在公開作品中,她的真名系列「樋口夏子」和雅號系列「一葉」被分類。只有一個例子使用了「樋口一葉」這個混合簽名,那就是在「竹比賽」的未定稿等地方,「一葉」的簽名被另一個人手寫的姓氏所增加。在明治前半期的女性作家中,由於對家庭的抵抗和姓氏的變遷,他們也傾向於避免使用姓氏,在創作世界中使用雅號,一葉也被認為有強烈的女戶主意識。筆名「一葉」是指當時生活困窮(沒有腳)和乘一片蘆葦的葉子渡過中國,後來失去手腳的達摩的故事。
一葉留下了日記以外的筆記,包括作品的草稿、調查筆記等兩本筆記。這兩本筆記都是個人收藏,一本記載了「別離霜」的草稿,另一本記載了「被埋木」的調查筆記。前者是西式裝訂、橫線的筆記本,尺寸為19.2公分長,12.7公分寬。前9頁是平安時代的「土佐日記」的鉛筆抄本,從承平4年(934年)2月26條到次年承平5年1月4日的部分被抄寫出來。從第10頁開始,用墨筆寫下了題為「吹來的風」的小說片段。這部分被認為是1892年(明治25年)3月31日至同年4月17日期間,一葉以「淺香的沼子」的筆名在改進新聞上發表的「別離霜」的未定稿。筑摩書房的「一葉全集」中有部分被翻印出來。
後者是記錄「被埋木」調查筆記的筆記本,近年來原本被發現。這是一本和紙封面的小筆記本,尺寸為9公分長,6公分寬。一葉在1892年11月在「都之花」第95號上連載了3次「被埋木」,筆記的內容主要是鉛筆記錄的故事中出現的薩摩窯陶器的歷史和製作方法的調查筆記。另外,「被埋木」還有未定稿存在。此外,還記錄了一葉自己寫的關於從半井桃水那裡借來的朝鮮文學「九雲夢」的主角的漢詩,以及在上野東京圖書館閱讀的「新著聞集」的讀書筆記。
一葉的肖像從2004年(平成16年)11月1日開始發行,取代了之前的新渡戸稻造,被選為日本銀行券的五千圓紙鈔的正面[註釋 2]。作為女性,這是自1881年(明治14年)發行的紙鈔中選擇的神功皇后以來,123年來的第二次選擇[66]。2000年(平成12年)開始發行的二千圓紙鈔的背面描繪了紫式部,但這並不是肖像畫。由於防止偽造的鬍子和臉上的皺紋較少,因此起版比較困難,製造開始比野口英世的千圓紙鈔和福澤諭吉的萬圓紙鈔晚。
1.
"このような時代に生れ合わせた者として、何もしないで一生を終えてようのでしょうか。何をなすべきかを考え、その道をひたすら歩んで行くだけです。"
身為生在這樣一個時代的人,我們就該一輩子無所事事嗎?你所要做的就是思考你需要做什麼並走那條路。
2.
"これが一生か、一生がこれか、ああ嫌だ嫌だ。"
這就是我的一生,這就是我的一生,哦,我討厭它,討厭它。
3.
"命ある限りはどんな苦しみにも耐え、頑張って学問をしたいと思う。"
只要我活著,我就要忍受一切苦難,努力學習。
4.
"恋とは尊くあさましく無残なものなり。"
愛情是一種珍貴的東西,殘酷又殘忍。
5.
"丸うならねば思う事は遂げられまじ。"
只要我堅持下去,我就能實現我想要的。
6.
"清いものは常に穢れたものの中から生まれいで、光り輝くものは常に暗闇の中か生まれでる。"
純潔總是從不純潔中誕生,而光明總是從黑暗中誕生。
7.
"恐ろしきは涙の後の女子心なり。"
可怕的是女人流淚後的心。
8.
"我れはまことに窮鳥の飛入るべきふところなくして、宇宙の間にさまよふ身に侍(はべ)る。"
我真是一隻可憐的小鳥,在宇宙中流浪,無處飛翔。
9.
"のぼっていく道のりはたとえ違っても、最後にたどりつくところは、自分も人も同じだろう。"
即使我們攀登的道路不同,但我們和其他人最終都會到達同一個地方。
10.
"みなさまが野辺をそぞろ歩いておいでの時には、蝶にでもなって、お袖のあたりに戯れまつわりましょう。"
當你在田野裡散步的時候,讓我們化作蝴蝶,在你的袖子上嬉戲吧。
11.
"力もない女が何を思い立ったところでどうにもならないとは分かってはいるが、私は今日一日だけの安楽にふけって百年後の憂えを考えないものではない。"
我知道,一個無能為力的女人,無論怎麼想,都無濟於事,但我不想只顧一天的安逸,不去想一百年後我會擔心什麼。
12.
"母上に安らかな生活を与え、妹に良縁を与えることが出来るなら、私は路傍にも寝ようし乞食にもなろう。"
如果我能給媽媽過平靜的生活,給姊姊嫁個好人家,我寧願睡在路邊,也不願去當乞丐。
13.
"色に迷う人は迷えばいい。情に狂う人は狂えばいい。この世で一歩でも天に近づけば、自然と天が機会を与えてくれるだろう。"
如果您對顏色感到困惑,請不要猶豫。那些因情感而瘋狂的人就應該瘋狂。在這個世界上,只要你向天堂靠近一步,天堂自然就會給你一個機會。
14.
"昔の賢人たちは心の誠を第一として現実の人の世に生きる務めを励んできたのです。務めとは行いであり、行いは徳です。徳が積もって人に感動を与え、この感動が一生を貫き、さらには百代にわたり、風雨霜雪も打ち砕くことも出来ず、その一語一句が世のため人のためになるものです。それが滾々として流れ広まり、濁を清に変え、人生の価値判断の基準となるのです。"
過去的智者努力生活在真人的世界裡,把內心的真誠放在第一位。義務就是行動,行動就是美德。德行的積累,激勵人,這種印像是一生乃至數百代,不為風雨霜雪所毀,字字句句都是利世利人的。它流動、蔓延,化渾濁為純淨,成為決定生命價值的標準。
15.
"一番大切なことは親兄弟の為や家の為にすることです。"
最重要的是為父母、兄弟姊妹和家庭做些事。
16.
"水の流れる川にも淵があり、瀬がある。人生にも苦しいときと良いときがあるだろう。悪いことばかりではないはず。元気を出して頑張ろう。"
即使是流水的河流,也有深潭、急流。人生會有艱難的時刻,也會有美好的時刻。不一定都是壞事。讓我們振作起來,盡力而為。
17.
"この世ほろびざる限りわが詩はひとのいのちとなりぬべきなり。"
只要這個世界不分崩離析,我的詩一定會成為人們的生命泉源。
18.
"身をすてつるなれば 世の中の事 何かはおそろしからん。"
如果你放棄了自己,一輩子就都不會害怕世界上的任何事。
19.
"利欲にはしれる浮き世の人あさましく、厭わしく、これゆえにかく狂えるかと見れば、金銀はほとんど塵芥の様にぞ覚えし。"
世上那些貪圖利益的人是殘忍而令人厭惡的,看看他們因此而瘋狂的樣子,金銀幾乎就跟垃圾一樣。
20.
"その時分には、私は何になっていましょう、石にでもなっていましょうか。"
到那時我會變成什麼,甚至還有一塊石頭?
21.
"只世にをかしくて、あやしく、のどかに、やはらかに、悲しく、おもしろきものは”恋”とこそ言はめ。"
在平凡的世界裡,困難的、可疑的、田園詩般的、悲傷的、有趣的事都不能稱為「愛」。